教団と祭祀
教団と戒律
上述のように、人間は一方においては物質でありながら、アダムとエバの子孫としては大量の光の本質を有するという矛盾した存在である。マニは、そうした中にあって、人間は「真理の道」に従って智慧を得て現世の救済に当たらなければならない、そして自分自身における救済されるべき本質を理解して、自らを救済しなければならないと説いた。このような考えに立って、マニは生存中に自ら教団を組織した。
マニ教の教団組織は、仏教のそれに倣ったと考えられる。マニは12人の教師、72人の司教、360人の長老からなる後継者を2群の信者に分け、それぞれ守るべき戒律も異なるものとした。
仏教における出家信者ないし僧侶に相当するのが義者(エレクトゥス electus, 「選ばれた者」)であり、聖職者として「真実」「非殺生・非暴力」「貞潔」「菜食」「清貧」の五戒を守り、厳しい修道に励むことを期待された。肉食は心と言葉の清浄さを保つために禁止され、飲酒も禁じられた。また、殺生に関しては動物を殺すことばかりではなく、植物の根を抜くことも禁じられた。そして、メロン、キュウリなどの透き通った野菜やブドウなどの果物は光の要素を多く含んでおり、聖職者はこれらをできるだけ多く食べ、光の要素を開放しなければならないとされた。最終的に、これらはマニ教で行われる唯一の秘蹟と定められた。
俗人よりなる聴問者(聴聞者、アウディトゥス auditus )は、比較的緩やかな生活を許され、十戒を守ることを期待された。十戒はユダヤ教の「十戒」(モーセの十戒)に似ており、俗人の場合はそれほど強く戒律を守ることは求められていなかった。聴問者は結婚して子をもうけることが許され、生産活動に従事して聖職者たちを支えることが期待された。聴問者たちも、いずれは「選ばれた者」になることが期待されていたものと考えられる。
以上のように、マニ教の教団は清浄で道徳的な生活を送り、また、そのことによって壮大な宇宙の戦いに参画しているという意識に支えられていた。
儀式・祭祀
マニ教においては、白い衣服を身につけ五感を抑制することが求められており、通常は一日一食の菜食主義で週に1度は断食をおこなった。洗礼の儀式もおこなわれたが、そこでは水は用いられなかった。また、1日に4回から7回の祈祷を捧げ、信者相互では告白の儀式がなされた。
後述するマニの殉教はベーマの祭祀となったが、これはマニ教最大の祝祭で、ベーマ(ベマ)とはギリシア語で「座」を意味している。ベーマの祭礼においては、誰も座ることのできない椅子が用意される。この祭礼は年末(春分のころ)に執り行われ、祭りの最中にマニが「座」(椅子)の上に降臨すると信じられていた。
ベーマの祝祭に先立つ1ヶ月間には断食が要求され、これがイスラームにおけるラマダーン月の先駆となったと考えられている。
新宗教の成立
預言者マニ
預言者マニ(216年-277年頃)の両親はユダヤ教新興教団に属しており、バビロニアのユーフラテス川沿いのマルディーヌー村に生まれた。マニも幼少の頃からユダヤ教の影響を受けた。父はパルティア貴族のパテーグ、母はパルティア王族カムサラガーン家出身の母マルヤムであった。マニが4歳のとき、パテーグは酒、肉、女を絶てという声を聴き、家族ともどもグノーシス主義の一派になるユダヤ教洗礼派(エルカサイ派)の教団に入ったため、マニはゾロアスター教徒的伝統をもつ父母のもと、ユダヤ教的・グノーシス主義的教養の横溢する環境で成長した。マニが12歳のとき、自らの使命を明らかにする神の「啓示」に初めて接したといわれる。その後、ゾロアスター教やキリスト教・グノーシス主義の影響を受けて、ユダヤ教から独立した宗教を形成していった。西暦240年頃、マニが24歳の時に再び聖天使パラクレートス(アル・タウム)からの啓示を受け、開教したとされる。
マニは自分の家族を改宗させ、ペルシャ・バビロニア・インド・中央アジア地方で伝道の旅を続けたものの、当初は信者を獲得するに至らなかったともいわれている。しかし、仏教やヒンドゥー教に関する知識は、インド伝道の際に得られたものと考えられる。マニは、そこで仏教徒であったバルチスタンのトゥラーン王を改宗させたともいわれる。
この後、マニはバビロニアに戻り、サーサーン朝のシャープール1世と弟ペーローズを改宗させ、ペーローズによってシャープールの宮廷に招かれ、そこで重用された。マニはまた、シャープールのもう一人の弟メセネ(メソポタミア南部)地方のミフルシャーをも改宗させた。これらにより、マニはサーサーン朝ペルシア王国の全域とその周囲に伝道して信者を増やし、教会を組織し、弟子の教育に努め、また、244年には当時サーサーン朝と対峙していたローマ帝国領内にも宣教師を送った。この布教は大成功を収め、以後、マニ教はエジプトのアレクサンドリアはじめ、北アフリカ各地にも伝播した。
マニは、世界宗教の教祖としては珍しく、自ら経典を書き残したが、その多くは散逸してしまった。シャープール1世に捧げた宗教書『シャープーラカン』では、王とマニ自身との間の宗教上の相互理解について記述されている。マニはまた芸術の才能にも恵まれ、彩色画集の教典をも自ら著しており、常にその画集を携えて布教したといわれる。そのためマニは青年時代、絵師としての訓練を受けたという伝承も生まれている。
弾圧とマニの死
272年にシャープール1世が死去し、その子であるホルミズド1世およびバハラーム1世の時代になると、マニとその教えはゾロアスター教の僧侶(マグ)たちからの憎悪に晒されることになった。バハラーム1世の下で、サーサーン朝がゾロアスター教以外のユダヤ教やキリスト教を迫害すると、マニ教もまた迫害に晒されるようになった。276年、大マグのカルティール(キルディール)に陥れられたマニは、王命により召喚を受けたため迫害を辞めるよう求めたが、かえって投獄され死刑に処せられた。
マニの最期については、磔刑に処せられたという説と、生きたまま皮を剥がれ、その後、首を斬られたという説がある。後世のマニ教徒たちが残した文書などによると、皮を剥がされたマニが生きているという噂が残り、アラビア語の逸話集の中にはワラが詰め込まれたマニの皮が、しばしばサーサーン朝統治下の市街の城門に吊るされていた、というものがある。その一方で、近年現われたパルティア語の文献資料からは、牢にあっても自由に信者と面会するなどの状況が知られるので、比較的穏やかな状況下で獄死したのではないかとも推測されている。なお、マニの死に関わったカルティールは、王と同じように各地に碑文を残しており、その絶大な権力が伺い知れる。
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