2022/09/20

マニ教(2)

三際

『敦煌文献』をフランスにもたらしたことで知られる東洋学者のポール・ペリオは、中国でマニ教断簡(現フランス国立図書館所蔵)を発見しているが、それによれば宇宙は「三際」と称される3時期に区分される。

 

初際(第1期)においては、まだ天地が存在しておらず、そこには明暗の違いがあるのみである。明の性質は智慧で、暗の性質は愚昧である。そこでは、まだ矛盾や対立は生じていない。

 

中際(第2期)では、暗(闇)が明(光)を侵しはじめる。そして、明が訪れては暗に入り込んで両者は混合していく。人は、ここにおける大いなる苦しみのために、目に映ずる形体の世界から逃れようと希望する。そして人は、この世(「火宅」)を逃れるためには、真(光)と偽(闇)とを判別し、自ら救われるための機縁を捕まえなくてはいけない。

 

後際(第3期)においては、ようやく教育と回心とを終える。これにより真(光)と偽(闇)は、それぞれの由来の地である「根の国」に帰る。光は大いなる光に回帰する一方で闇は闇の塊へと回帰していく。

 

以上の内容は、シリア語による8世紀の叙述『テオドレ・バル・コーニー』の内容とも合致する。

 

禁欲主義

上述のようにマニは悪から逃れることを説き、そのためには人間の繁殖までをも否定した。ゾロアスター教の教義は、善神アフラ・マズダーと悪神アンラ・マンユの2神を対立させるが、この善悪2神はそれぞれ精神と物質との両面を含んでいる。しかし、マニ教では、光と闇の結合が宇宙を生んだと考えるので、宇宙の創成は究極的には悪の力の作用であると捉え、やがて全宇宙は崩壊すると考える。そのとき初めて光による救済が起こり、闇からの解放がなされると説くのである。

 

マニ教のイエス観

マニ教では、ザラスシュトラ、イエス・キリスト、釈迦(ガウタマ・シッダールタ)はいずれも神の使いと見なされるが、イエスに関しては、肉体を持たない「真のキリスト」と、それとは対立する十字架にかけられた人の子イエス(ナザレのイエス)とを峻別する。

 

「神の子」を否定するこのようなイエス観は、イスラームを創唱したムハンマドにもそのまま継承され、キリスト教に対するイスラームの理解に大きな影響をあたえた。

 

マニ教にあっては、マニが自らに先立つ預言者として規定した人の子イエスもあれば、アダムに智慧を授けた救世主としてのイエス、宇宙の終末に現れて正邪を裁いて輝くイエス、さらに十字架に架けられて苦しむイエスが、物質に囚われた「光の元素」の比喩として述べられている箇所も確認されており、マニ教におけるイエスは様々な像を結んでいる。

 

諸教の混交

上述のように、マニ教は寛容な諸教混交の立場を表明しており、その宗教形式(ユダヤ・キリスト教の継承、「預言者の印璽」、断食月)は、ローマ帝国やアジア各地への伝道により広範囲に広まった。マニ教の教団は、伝道先でキリスト教や仏教を名のることで巧みに教線を伸ばした。

 

これについては、マニの生まれ育ったバビロニアにおけるヘレニズム的な環境も大きく影響している。ヘレニズム的な環境とは多様な民族・言語・慣習・文化が共存し、他者の思想信条や慣習には極力立ち入らないという寛容な環境であり、そうした中での折衷主義は格別珍しいことではなかった。そして、古代オリエントの住民については、各自のアイデンティティを保つために特定の宗教・慣習・文化に執着するという近代のナショナリズム的意識も稀薄であったと考えられる。

 

教典

マニは世界宗教の教祖としては珍しく自ら経典を書き残したが、その多くは散逸している。マニ自身は当時の中東で広く用いられていたアラム語の一方言で叙述をおこなったが、サーサーン朝第2代の王シャープール1世に捧げた『シャープーラカン』については、中世ペルシア語(パフラヴィー語)によるものが遺存している。

 

『シャープーラカン』以外では、『大福音書』『生命の宝(いのちの書)』『プラグマテエイア』『秘儀の書』『巨人の書』『書簡』などの聖典が確認されるが、いずれも断片である。これらのうち、『生命の宝』が『シャープーラカン』に次いで古いと推定されている。マニの著作としては、ほかに『讃美歌と祈祷集』、マニ自身の手による『宇宙図およびその註釈』(後述)があり、また、マニの没後に、その弟子たちによってまとめられたマニと弟子たちとの対話集『ケファライア(講話集)』があった。

 

宇宙図

マニ教の宇宙進化論

マニ教では、十層の天と八層の大地からなるという宇宙観を有しており、布教にあたっては経典のほか、これを図示した『宇宙図(アールダハング)およびその註釈』も使用していた。

 

『宇宙図』は従来散逸したと考えられていたが、2010年になって元代前後に描かれたとみられる『宇宙図』が日本で発見された。これは、文献言語学の吉田豊(京都大学)らの調査によるもので、マニ教の宇宙図がほぼ完全な形で確認されたのは世界初のことであり、極めて貴重な発見として国際的にも高い評価を受けた。

 

教典の言葉

マニが主として経典にアラム語を用いたのには、当時の中東世界の共通語として広く意思疎通に用いられていたからだと考えられている。マニは自身の教義が広く万人を対象としていることを意識しており、それゆえ誰にでも理解できる言葉で経典を書き記したものと思われる。また、彼は速やかに経典を各地の言語に翻訳させたが、その際、彼は自身の教義の厳密な訳出よりは、むしろ各地に伝わる在来の信仰や用語を利用して自由に翻訳することを勧めた。場合によっては馴染みやすい信仰への翻案すら認め、このことは異民族や遠隔地の布教にあたって功を奏した。

出典 Wikipedia

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