2023/06/30

キリスト教(2)

神の名前

神の名前はYHWHであるとされるが、旧約聖書では他にもEl, Elohim,Eloah, Elohai, El ShaddaiTzevaotと呼ばれている。しかし 神の名をみだりに呼ばないよう定められている(モーセの十戒)ので神の名を直接呼ばず、日本語では主と呼ぶことが多い。英語ではLOADと呼ぶ。

新約聖書では神の名を直接呼ぶ事は避け、ギリシャ語でTheos (θεός, )Kyrios (Κύριος, )、もしくはPateras (πατέρας, )[30][31]と呼び、アラム語でAbba (אבא, )と呼んでいる場所もある(マコ14:36,ロマ8:15、ガラ4:6)

 

なお、ヘブライ語では母音を表記しないので、YHWHに適切な母音を補って読んだ物が神の名であるが、前述のように神の名をみだりに呼ぶのが禁止されている関係で、YHWHをどのように発音すればよいのか分からなくなってしまった。

従来は「エホバ」と読むのだと考えられてきたが、[誰によって?]

 

神の位格

神には父と子と聖霊という3つの位格がある。

 

三位一体

初期のキリスト教会では、キリストや聖霊が神なのか、神だとすれば一神教の教義と矛盾しないのか、という問題が盛んに議論された。

三位一体は、この問題に対する今日のキリスト教会の公式見解である。

 

三位一体:父なる神と子なる神(キリスト)と聖霊なる神という区別された三つの位格があり、それら3つは同一の本質を持ちつつも互いに混同し得ない。

今日ではキリスト教の主だった教派である正教会、東方諸教会、カトリック教会、聖公会、プロテスタント諸派の全てが、この教義・教理を共有している。

三位一体の教義が公会議で定まると、それに反する教派(アリウス派等)は異端とされた。

 

キリストの神性と人性

父と子と聖霊という3つの位格の関係は三位一体によって解決を見たが、もう一つ問題になったのは、神の位格の一つであるキリストが人としての生涯を送った事である。キリストの神としての性質(神性)と、人としての性質(人性)とがどのような関係にあるのかが問題となったのである。

 

これに対し、今日の主流派のキリスト教会の多くは「両性説」に基づいた「位格的結合」という立場を取っている。(東方諸教会を除く。後述)

東方諸教会は、キリスト論の理解が他の諸派とは異なる。

ネストリウス派はChurch of the Eastとして東方に広がり、そこからの分派であるアッシリア東方教会が今日でも存続している。中国においても景教として長く歴史を保った。

 

世界観

キリスト教では、以下のような世界観を抱いている。 ただし、今日のキリスト教(特にリベラル派)では、これらの世界観を文字どおりの意味に解釈しているとは限らず、これらはあくまで比喩や象徴であるとするものもいる。

 

天地創造

旧約聖書の冒頭によれば、神は6日でこの世界を作り上げ、7日目に休みを入れた(1)

1日目 暗闇がある中、神は光を作り、昼と夜が出来た。

2日目 神は空(天)をつくった。

3日目 神は大地を作り、海が生まれ、地に植物をはえさせた。

4日目 神は太陽と月と星をつくった。

5日目 神は魚と鳥をつくった。

6日目 神は獣と家畜をつくり、神に似せた人をつくった。

7日目 神は休んだ。

 

神が7日目に休んだ事に由来し、人間にも7日に一度何もしない日(安息日)が定められた。 これが週に一度の休みの日ができた理由であるが、この休みの日を日曜日とするのはキリスト教の習慣で、ユダヤ教では土曜日とされている。

なお聖書の記述から逆算すると、天地創造の日を求める事ができ、東ローマ帝国ではこれにもとづいた紀年法である世界創造紀元を使っていた。(この紀年法による元年の開始日は、西暦では紀元前55099月にあたる)。

 

失楽園

旧約聖書には、以下のように記されている(2-3)

神によって最初に作られた人類であるアダムは、エデンの園という楽園におかれた。そこにはあらゆる種類の木があり、それらの木は全て食用に適した実をならせたが、主なる神はアダムに対し善悪の知識の実だけは食べてはならないと命令した。さらに神はアダムの肋骨から人類最初の女(のちにエヴァと名付けられる)を作り、アダムと同じくエデンの園においた。

 

その後、狡猾な蛇が善悪の知識の木の実を食べるようエヴァをそそのかし、彼女はアダムとともにその実を食べた。 実を食べた2人は目が開けて自分達が裸であることに気付き、それを恥じてイチジクの葉で腰を覆った。

二人が実を食べた事を知った神は、女に妊娠と出産の苦痛を与える。さらに神はアダムに「あなたのために地が呪われたので、苦しんで地から食物を取らねばならぬ」ということと「最後は地に帰らねばならぬ」ということを告げる。神は蛇も罰し、それ以来蛇は腹這いの生物となった。そして神は二人をエデンの園から追放した(失楽園)。

 

なお「善悪の知識の実」は、よく絵画などにリンゴとして描かれているが、『創世記』には何の果実であるかという記述はない。

キリスト教、とくに西方教会では失楽園の物語は原罪として宗教的に重要な意味を与えられ、それは失楽園においてアダムとエヴァが犯した罪は、全人類に受け継がれるというものである。 しかし正教会では、原罪の概念から距離を置いている場合があり、この物語から神の像と肖という人間観を基礎づけている。

 

死生観と終末論

教派によって差があるものの、キリスト教ではおおよそ次のような死生観と終末論が信じられている。

人は死ぬとすぐに神により裁かれ(私審判)、世界の終末を待つ事になる。 そして終末が近付くと、以下が起こる;

 

    神が千年間直接地上を支配する千年王国の到来

    イエスが地上に再臨

    全ての死者の復活

    真のキリスト教徒が空中に挙げられ、神と会う携挙

    地上を大きな難いが襲う患難時代の到来

    天使と悪魔による天国の戦争(英語版)とハルマゲドン

    神が全人類を裁く最後の審判(公審判とも)

    神が世界を再創造し、素晴らしい新天新地が誕生

 

ただし、これらが起こる順番は教派による。またこれらの出来事にいくつか(例えば患難時代)はすでに起こった、もしくは起こっている最中であると解釈する教派もある。人が死んでから復活するまでの中間の状態に関する教義も教派によって異なる。

さらに死者は私審判や公審判の判決に従い、以下のいずれかに行くことが決まる(どちらの審判で、その判断が下されるのかは教派による)。

 

    天国:神の玉座のある場所であり、伝統的には、神が人間の知性を直接に引寄せる至福直観(英語版)が実現するとされる。

    地獄:悔い改めなかった罪人が行く場所で、彼らは消えない炎で焼かれ(マコ9:43)、体も魂も滅ぼされる(マタ10:28)。

天国ないし新天新地に入れる人は、いのちの書に記載されているという。

 

カトリックなどの教派では、死者は以下の場所に行く事もあるとされる。それ以外の多くの教派では、これらの場所は信じられていない。

 

    煉獄:審判において天国にも地獄にも行く事が決まらなかった多くの人は、死後ここで清められた後、天国に行くとされる。生者による死者への祈りは、この清めを助ける。

    辺獄:キリスト教徒として洗礼を受けなかったが、地獄に行くほどではない霊魂が行く場所。

 

ただし、辺獄はカトリックでも公教要理(カテキズム)に含まれていないので、いわば「神学上の仮説」の段階である。

地獄に関してキリストの地獄への降下が信じられている教派もあり、例えば正教会では、イエスが十字架で死んだ後、その霊魂が地獄を訪れ、地獄にいた義人を解放したとされている。

 

今日のキリスト教では、人間は死後永遠の生を受け、霊魂は不滅であるとする教派がほとんどであるが、少数の教派では霊魂が消滅したり、最後の審判まで霊魂が眠ったり、キリストを信じる事によってのみ永遠の生が得られたりする事を信じている場合もある。またキリスト教では、地獄に落ちて救われない霊魂も存在すると考えられているが、非主流派の教義には全ての霊魂がいつかは結局は救われるとするものもある(万人救済主義)

2023/06/29

キリスト教(1)

キリスト教(基督教、ギリシア語: Χριστιανισμός、ラテン語: Religio Christiana、英語: Christianity)は、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。その多く(正教会・東方諸教会・カトリック教会・聖公会・プロテスタントなど)は「父と子と聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。

世界における信者数は20億人を超えており、すべての宗教の中で最も多い。

 

キリスト教の成立

イエスの死後、弟子たちはイエスの教えを当時のローマ世界へと広めていった。こうした過程で初期の教団ができた。

なお、キリスト教側は、特に新たな宗教がこの時に造られたとは自認しないが、ユダヤ教側はこの教団を「ユダヤ教からの分派」と看做す。

 

キリスト教とユダヤ教の自己認識の差を示す図

 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a8/Explanation_about_identity_difference_between_Christianity_and_Judaism_jp.png/700px-Explanation_about_identity_difference_between_Christianity_and_Judaism_jp.png

 

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ここではキリスト教の主だった教派を紹介するに留める。キリスト教は、その歴史とともに様々な教派に分かれており、現在はおおむね次のように分類されている。

 

ü  初代教会 - 最初期の教会、下記の諸教会の前身

ü  西方教会 - 西ローマ帝国の旧領:西欧で発展した教会

ü  カトリック教会 - ローマ教皇を中心とする派聖公会(英国国教会) - カトリックとプロテスタントの中間に位置づけられる性格

 

プロテスタント - 16世紀の宗教改革運動によりカトリックから分離した諸教派。主な教派として次のようなものがある。

ü  ルーテル教会(ルター派)

ü  改革派教会(カルヴァン派、長老派教会、改革長老教会)

ü  会衆派教会

ü  メソジスト教会

ü  バプテスト教会

ü  アナバプテスト

ü  東方教会

ü  正教会(ギリシャ正教) - 東ローマ帝国・ギリシャ・東欧で発展した教会

ü  東方諸教会 - 非カルケドン派の諸教会とアッシリア東方教会

 

東方教会には、東方諸教会と正教会がある。東方諸教会は、キリスト論の理解が他の教派とは異なる。

 

聖書

キリスト教の聖典(聖書)には、ユダヤ教から受け継いだ旧約聖書と、キリスト教独自の聖典である新約聖書がある。 「旧約」、「新約」という名称は、前者が神と人間との間に結ばれた旧来の契約であり、それに対して後者がキリストにより神と新たに結ばれた契約であるとみなしている事による。

 

新約聖書は、以下の文書群を含んでいる

ü  福音書:イエスの伝記。全部で4つあり、内容には重複が見られる。

ü  パウロ書簡:精力的に布教をした弟子であるパウロが、各地の教徒に向かって書いたとされる手紙。

ü  公同書簡:キリスト教徒一般に向けて信仰のあり方を説いたとされる書簡。

ü  ヨハネの黙示録:ユダヤ教でいう黙示文学に属する文書で、終末論についてかかれている。

 

これらの文書群は、1世紀から2世紀頃にかけて書かれ、4世紀中頃にほぼ現在の形に編纂された。

 

正典、続編、外典、偽典など

聖書に属すると認められている文書群を聖書正典と呼ぶが、どこまでを正典とみなすかには教派毎に差がある。。

新約聖書に関しては、正典の範囲に教派毎の差がほとんどなく、カトリック、プロテスタント、東方正教会、ほとんどの東方諸教会が同一の27書を正典とする。

 

一方、旧約聖書に関しては教派ごとの異同が激しい。プロテスタント(39)よりもカトリック(46)の方が多くの文書を含み、カトリックよりも東方正教会(51)や東方諸教会の方が多くの文書を含む。プロテスタントがカトリックよりも文書数が少ないのは、カトリックが使っていた旧約の文書のうち、ヘブライ語で書かれたもののみを正典と認めたことによる。こうした理由により、プロテスタントの旧約聖書に含まれている文書は、ユダヤ教の正典であるタナハに含まれる文書と同じである。

 

各教派において、聖書正典に含まれなかった文書群を第二正典、続編、外典、偽典等と称するが、これらが示す範囲は言葉ごとに異なる。

 

教理や教義の源泉

教理や教義の源泉となるものとして、以下がある。ただし、これらのうちどれをどこまでを認めるかは教派による。

 

新旧聖書

ü  公会議の決定:教義・典礼・教会法などを決める会議。信条(信経)、信仰告白:教理・教義を神と人に示す成文箇条。公会議の決定をまとめたものもあるが、それに限らない。

ü  カテキズム:教理・教義をわかりやすく説明した要約ないし解説。文体は問答形式をとる事が多い。

ü  聖伝(聖伝承): 聖人伝、教会芸術、教会法といった伝承。上述の聖書や公会議も、ここに含む教派もある。

 

キリスト教における神

キリスト教は一神教であるので、信じる神は唯一である(申命6:4、マコ12:29、エフェ4:6)

ü  神はこの世界と、その中にある万物とを造った天地の主である(使徒17:24)。神は神聖(イザ6:3, 4:8)、神秘的(mistery)、不変 (ヤコ1:17)で永遠の存在であり、全てのものの摂理である。

 

ü  神は物質的な世界から独立した超越的な存在であり、同時に全てのものに内在している。また神は遍在(omnipresence)しており、詩139:8には神が天にも陰府にも存在するとある。

 

ü  神は物理的な肉体を持たない(incorporeality)。神の知恵は計りがたく(イザ40:28)、神を完全に認識するのは不可能である(incomprehensibility)

 

ü  神は人の手によって仕えられる必要もなく(使徒17:25)、それゆえ人の存在を必要としない独立したものである[21](神の自存性)

 

ü  神は義(righteousness)であり、神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる(ロマ1:17)。また神は善性の最終的な基準であり、神のなす事は肯定する価値のあるものであり、神は無制限にして無限の慈悲に満ちている(omnibenevolence)

 

Louis Berkhofによれば神の善性とは、親切、愛、恩寵、慈愛、忍耐を含み、一ヨハ4:16によれば「神は愛」である。なお「恩寵」はキリスト教の鍵となる概念でもあり、それは神が人間に与える愛や慈悲を意味し、人間がそれに値するかどうかによらず神自身の望みにより与えられる。しかし同時に「妬みの神」(出エ20:5)でもある。

 

ü  神は全能)(マタ19:26、使徒信条)にして全知である。さらに神は無過失(impeccability)であり、これは神が罪を犯しえないだけでなく、罪ではあるのは不可能な事を意味する。たとえばヘブ6:18には、神が嘘をつくのは不可能だとある。テト1:2に神は偽りがないとあるように、神は真実(veracity)のみを語る。

 

ü  神は部分に分割する事ができず(divine simplicity)、それゆえ遍在性や善性や永遠性と言った神の属性は、神の部分ではなく神そのものである。

 

ü  神は痛みや喜びを経験しないとされる(impassibility)が、これに関しては論争がある。実際、聖書には神の怒り(wrath)(英語版)について語られている。また神の福音宣教(Missio Dei)という概念が20世紀後半にポピュラーになり、今日では神の属性とみなす事もある。