神の名前
神の名前はYHWHであるとされるが、旧約聖書では他にもEl, Elohim,Eloah,
Elohai, El Shaddai、Tzevaotと呼ばれている。しかし 神の名をみだりに呼ばないよう定められている(モーセの十戒)ので神の名を直接呼ばず、日本語では主と呼ぶことが多い。英語ではLOADと呼ぶ。
新約聖書では神の名を直接呼ぶ事は避け、ギリシャ語でTheos (θεός, 神)、Kyrios
(Κύριος, 主)、もしくはPateras
(πατέρας, 父)[30][31]と呼び、アラム語でAbba
(אבא, 父)と呼んでいる場所もある(マコ14:36,ロマ8:15、ガラ4:6)。
なお、ヘブライ語では母音を表記しないので、YHWHに適切な母音を補って読んだ物が神の名であるが、前述のように神の名をみだりに呼ぶのが禁止されている関係で、YHWHをどのように発音すればよいのか分からなくなってしまった。
従来は「エホバ」と読むのだと考えられてきたが、[誰によって?]
神の位格
神には父と子と聖霊という3つの位格がある。
三位一体
初期のキリスト教会では、キリストや聖霊が神なのか、神だとすれば一神教の教義と矛盾しないのか、という問題が盛んに議論された。
三位一体は、この問題に対する今日のキリスト教会の公式見解である。
三位一体:父なる神と子なる神(キリスト)と聖霊なる神という区別された三つの位格があり、それら3つは同一の本質を持ちつつも互いに混同し得ない。
今日ではキリスト教の主だった教派である正教会、東方諸教会、カトリック教会、聖公会、プロテスタント諸派の全てが、この教義・教理を共有している。
三位一体の教義が公会議で定まると、それに反する教派(アリウス派等)は異端とされた。
キリストの神性と人性
父と子と聖霊という3つの位格の関係は三位一体によって解決を見たが、もう一つ問題になったのは、神の位格の一つであるキリストが人としての生涯を送った事である。キリストの神としての性質(神性)と、人としての性質(人性)とがどのような関係にあるのかが問題となったのである。
これに対し、今日の主流派のキリスト教会の多くは「両性説」に基づいた「位格的結合」という立場を取っている。(東方諸教会を除く。後述)。
東方諸教会は、キリスト論の理解が他の諸派とは異なる。
ネストリウス派はChurch of the Eastとして東方に広がり、そこからの分派であるアッシリア東方教会が今日でも存続している。中国においても景教として長く歴史を保った。
世界観
キリスト教では、以下のような世界観を抱いている。
ただし、今日のキリスト教(特にリベラル派)では、これらの世界観を文字どおりの意味に解釈しているとは限らず、これらはあくまで比喩や象徴であるとするものもいる。
天地創造
旧約聖書の冒頭によれば、神は6日でこの世界を作り上げ、7日目に休みを入れた(創1);
1日目 暗闇がある中、神は光を作り、昼と夜が出来た。
2日目 神は空(天)をつくった。
3日目 神は大地を作り、海が生まれ、地に植物をはえさせた。
4日目 神は太陽と月と星をつくった。
5日目 神は魚と鳥をつくった。
6日目 神は獣と家畜をつくり、神に似せた人をつくった。
7日目 神は休んだ。
神が7日目に休んだ事に由来し、人間にも7日に一度何もしない日(安息日)が定められた。 これが週に一度の休みの日ができた理由であるが、この休みの日を日曜日とするのはキリスト教の習慣で、ユダヤ教では土曜日とされている。
なお聖書の記述から逆算すると、天地創造の日を求める事ができ、東ローマ帝国ではこれにもとづいた紀年法である世界創造紀元を使っていた。(この紀年法による元年の開始日は、西暦では紀元前5509年9月にあたる)。
失楽園
旧約聖書には、以下のように記されている(創2-3)。
神によって最初に作られた人類であるアダムは、エデンの園という楽園におかれた。そこにはあらゆる種類の木があり、それらの木は全て食用に適した実をならせたが、主なる神はアダムに対し善悪の知識の実だけは食べてはならないと命令した。さらに神はアダムの肋骨から人類最初の女(のちにエヴァと名付けられる)を作り、アダムと同じくエデンの園においた。
その後、狡猾な蛇が善悪の知識の木の実を食べるようエヴァをそそのかし、彼女はアダムとともにその実を食べた。
実を食べた2人は目が開けて自分達が裸であることに気付き、それを恥じてイチジクの葉で腰を覆った。
二人が実を食べた事を知った神は、女に妊娠と出産の苦痛を与える。さらに神はアダムに「あなたのために地が呪われたので、苦しんで地から食物を取らねばならぬ」ということと「最後は地に帰らねばならぬ」ということを告げる。神は蛇も罰し、それ以来蛇は腹這いの生物となった。そして神は二人をエデンの園から追放した(失楽園)。
なお「善悪の知識の実」は、よく絵画などにリンゴとして描かれているが、『創世記』には何の果実であるかという記述はない。
キリスト教、とくに西方教会では失楽園の物語は原罪として宗教的に重要な意味を与えられ、それは失楽園においてアダムとエヴァが犯した罪は、全人類に受け継がれるというものである。
しかし正教会では、原罪の概念から距離を置いている場合があり、この物語から神の像と肖という人間観を基礎づけている。
死生観と終末論
教派によって差があるものの、キリスト教ではおおよそ次のような死生観と終末論が信じられている。
人は死ぬとすぐに神により裁かれ(私審判)、世界の終末を待つ事になる。 そして終末が近付くと、以下が起こる;
神が千年間直接地上を支配する千年王国の到来
イエスが地上に再臨
全ての死者の復活
真のキリスト教徒が空中に挙げられ、神と会う携挙
地上を大きな難いが襲う患難時代の到来
天使と悪魔による天国の戦争(英語版)とハルマゲドン
神が全人類を裁く最後の審判(公審判とも)
神が世界を再創造し、素晴らしい新天新地が誕生
ただし、これらが起こる順番は教派による。またこれらの出来事にいくつか(例えば患難時代)はすでに起こった、もしくは起こっている最中であると解釈する教派もある。人が死んでから復活するまでの中間の状態に関する教義も教派によって異なる。
さらに死者は私審判や公審判の判決に従い、以下のいずれかに行くことが決まる(どちらの審判で、その判断が下されるのかは教派による)。
天国:神の玉座のある場所であり、伝統的には、神が人間の知性を直接に引寄せる至福直観(英語版)が実現するとされる。
地獄:悔い改めなかった罪人が行く場所で、彼らは消えない炎で焼かれ(マコ9:43)、体も魂も滅ぼされる(マタ10:28)。
天国ないし新天新地に入れる人は、いのちの書に記載されているという。
カトリックなどの教派では、死者は以下の場所に行く事もあるとされる。それ以外の多くの教派では、これらの場所は信じられていない。
煉獄:審判において天国にも地獄にも行く事が決まらなかった多くの人は、死後ここで清められた後、天国に行くとされる。生者による死者への祈りは、この清めを助ける。
辺獄:キリスト教徒として洗礼を受けなかったが、地獄に行くほどではない霊魂が行く場所。
ただし、辺獄はカトリックでも公教要理(カテキズム)に含まれていないので、いわば「神学上の仮説」の段階である。
地獄に関してキリストの地獄への降下が信じられている教派もあり、例えば正教会では、イエスが十字架で死んだ後、その霊魂が地獄を訪れ、地獄にいた義人を解放したとされている。
今日のキリスト教では、人間は死後永遠の生を受け、霊魂は不滅であるとする教派がほとんどであるが、少数の教派では霊魂が消滅したり、最後の審判まで霊魂が眠ったり、キリストを信じる事によってのみ永遠の生が得られたりする事を信じている場合もある。またキリスト教では、地獄に落ちて救われない霊魂も存在すると考えられているが、非主流派の教義には全ての霊魂がいつかは結局は救われるとするものもある(万人救済主義)。