2024/10/29

大宝律令(1)

大宝律令(たいほうりつりょう)は、701年(大宝元年)に制定された日本の律令。「律」6巻、「令」11巻の全17巻。唐の律令を参考にしたと考えられている。

 

概要

大宝律令の意義に挙げられるのは、中国(唐)の方式が基準の制度への転換にある。

 

冠位十二階の制度は、当初は徳目をあらわす漢字で個々の官位を示していたが、数値で上下関係を示す中国式に替わっている。また評も、中国で地方行政組織の名称に使われてきた郡に用字を替えている。

 

遣隋使の派遣以来、7世紀の間に100年ほどの歳月をかけて蓄積した中国文明への理解によって、朝鮮半島経由の中国文明ではない、同時代の中国に倣うための準備が可能になってきていたことを意味する。

 

内容

大宝律令は、日本の国情に合致した律令政治の実現を目指して編纂された。刑法にあたる6巻の「律(りつ)」はほぼ唐律をそのまま導入しているが、現代の行政法および民法などにあたる11巻の「令(りょう)」は唐令に倣いつつも、日本社会の実情に則して改変されている。

 

この律令の制定によって、天皇を中心とし、二官八省(神祇官、太政官 - 中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省)の官僚機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が成立した。役所で取り扱う文書には元号を使うこと、印鑑を押すこと、定められた形式に従って作成された文書以外は受理しないことなど、文書と手続きの形式を重視した文書主義が導入された。

 

また地方官制については、国・郡・里などの単位が定められ(国郡里制)、中央政府から派遣される国司には多大な権限を与える一方、地方豪族がその職を占めていた郡司にも一定の権限が認められていた。

 

大宝律令の原文は現存しておらず、一部が逸文として『続日本紀』や『令集解』古記などの他文献に残存している。

 

757年に施行された養老律令はおおむね大宝律令を継承しているとされており、養老律令を元にして大宝律令の復元が行われている。

 

復元大宝令

大宝令と養老令の編目の順序は異なっていたと考えられているが、大宝令の編目順序は明らかでない。以下は復元の一例である。

 

官位令

ü  官員令(養老令では職員令)

ü  後宮官員令(養老令では後宮職員令)

ü  東宮家令官員令(養老令では東宮職員令・家令職員令)

ü  神祇令

ü  僧尼令

ü  戸令

ü  田令

ü  賦役令

ü  学令

ü  選任令(養老令では選叙令)

ü  継嗣令

ü  考仕令(養老令では考課令)

ü  禄令

ü  軍防令(養老令では宮衛令・軍防令)

ü  儀制令

ü  衣服令

ü  公式令

ü  医疾令

ü  営繕令

ü  関市令

ü  倉庫令

ü  厩牧令

ü  仮寧令

ü  喪葬令

ü  捕亡令

ü  獄令

ü  雑令

※令名称の後ろのカッコ書きは、養老令とは異なっていたと考えられている編目名である。

2024/10/26

最澄(5)

事績と評価

日本天台宗の開宗

中国天台宗は6世紀に隋の智顗が開いた宗派であり、のちに日本に伝来した南都仏教よりも歴史が古い。最澄は自身が受け継いだ教えについて『内証仏法相承血脈譜』に、達磨大師付法・天台法華宗・天台円教菩薩戒・胎蔵金剛界両曼荼羅・雑曼荼羅の5つを挙げている。5つの教えのうち、天台法華宗のみに「宗」が付いている事について、伊吹敦は「受け継いだ思想的伝統を血脈と称し、それらを統合して新たに樹立した自らの思想的立場を宗と呼んだ」としたうえで、「中国天台宗とは異なる日本独自の天台宗が成立した」と評価している。

 

また新川哲雄は、南都六宗における宗派を「経典や論書の理解に関する枢要な教義及びそれを学ぶ「学派」を意味する」としたうえで、最澄の開宗によって「ある立場の教義を同じく尊崇する人々の一団を「宗」とし、さらにその一宗団の中で教義をめぐる解釈の違いなどから立場を異にする分派が生じた時に「派」とみる新しい宗派意識の原型が生まれた」と評価している。

 

顕密両学

前述のように、天台法華宗には止観業(天台)と遮那業(密教)の各1名の年分度者が認められた。これは最澄が顕(天台教学)と密(密教学)の合同を最終の理想としていた為と考えられる。

 

止観業とは、智顗が著した『摩訶止観』に由来する。『摩訶止観』は仏道修行の基礎的な規範を記したもので、実践と修行の立場から法華経を解釈したものとされる。最澄は『勧奨天台宗年分学生式』に「止観業は四種三昧を修習せしめ(後略)」と記すように、『摩訶止観』に記される実践行である四種三昧の実践を重視していた。そして実践の場として、最澄は四種三昧堂の建立を図ったが、この堂は『弘仁九年比叡山寺僧院之記』に一乗止観院に続いて記されていることから、延暦寺伽藍構想においても重要視されていたことが分かる。

 

四三昧院とは円観を学する者の住する所の院なり。文殊般若経に依りて常坐一行三昧院を建立し、般舟三昧経に依りて常行仏立三味院を建立し、法華経等に依りて半行半坐三昧院を建立し、大品経等に依りて非行非坐三味院を建立す。(中略)明らかに知りぬ、四三昧院とは行者の居する所なり。春秋は常行、冬夏は常坐、行者の楽欲に随いて、まさに半行半坐を修し、また非行非坐を修すべし。

最澄、『顕戒論』

 

東塔の半行半坐三味堂(法華三昧堂)は、最澄が弘仁3年(812年)に建立したとされるが、常坐一行三昧堂(文殊楼)、常行三昧堂、非行非坐三味堂(随自意堂)は最澄の没後に完成する。のちの天台宗では、法華堂は座禅道場として重視され、常行堂は浄土信仰の素地となった。しかし、それ以外の三昧堂はさほど重視されることがなかったと考えられる。

 

一方の遮那業は『摩訶毘盧遮那神変加持経業』に由来する。最澄が唐から伝えた密教は不十分なもので空海に助力を請うたが、教義の完成を果たせなかった。のちに天台密教は円仁と円珍の入唐により研究が盛んになり、安然によって完成され、その後100年あまりは天台密教が隆盛する。その一方で、円仁は空海の顕密二教判(密教が顕教より優れるとする説)を一部取り込み、最澄が掲げた顕密両学(円密一致)は崩れていく。止観業が見直されるのは、延暦寺中興の祖とされる良源が現れる10世紀中頃となる。

 

一切衆生悉有仏性

一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)とは、衆生はみな生まれながらにして仏となりうる素質(仏性)をもつということである。その根本となる一切皆成(一切衆生が成仏できる)は涅槃経に説かれるものであり、法相宗を含む南都仏教もこれを承認していたが、その解釈(仏性論)について最澄と法相宗は激しい論争(徳一との三一権実諍論)を行った。

 

徳一は一切皆成を認めつつ「仏性を顕かにするための行を成しえる因(行仏性)を持たない衆生がいる」とする五性各別説を支持する。この法相宗の立場について最澄は小乗義が含まれていると批判し、五性の別なく悉皆成仏できると説いた。その上で「修行の困難さから成仏できるのは釈迦のような特別な存在」とする一般的な仏教観を否定し、「一切衆生悉有仏性を信じ、利他行に励み成仏の道を進む者こそが菩薩」とし大乗の立場を明確にした。

 

大乗戒壇

前述のように、最澄は菩薩戒の受戒で比丘になれるとする大乗戒壇の設立に尽力し、日本独自の戒律制度が成立した。一方でこれにより、鑑真が日本に伝来した「具足戒での受戒で比丘となれる」とする東アジアの基準に当てはまらない比丘が生まれる事となる。後に明全が入宋した際には、比叡山の大乗戒壇で受戒していたにもかかわらず、東大寺戒壇で受戒した戒牒を作成している。また現在の日本仏教は戒律を軽視しているとされるが、沖本克己はその大きな転換点の一つとして最澄の大乗戒壇の設立を挙げている。

2024/10/24

インカ神話(2)

https://www.manabi.pref.aichi.jp/contents/10005011/0/index.html

神話と儀礼

太陽神に関わるインカの始祖神話はいわば国家宗教の頂点ですが、その他の神々の信仰はどのようなものだったのでしょうか。太陽神の他に重要なのは、大地の神パチャカマック、その妻であり大地母神である冥界の神パチャママ、雷などの天候の神イリャパです。太陽と雨は、ともどもに農作物の生長を促しました。雷(イリャパ)は種をまく時期に重要で、轟(聴覚的イメージ)と光(視覚的イメージ)という二つの意味を持っています。神話では雷は投石機と棍棒を持った戦士として描かれ、彼の妹の水差しに石を投げ、それがあたると雨が降ると信じられていました。

 

月の神(ママキーヤ)は太陽の妻であり、暦と祭礼、労働に関係がありました。月蝕の時は蛇やアメリカ豹が月の女神を食べようとするので、人々は大きな音を立てて追い払わねばなりませんでした。多くの星や星座には名前がつけられていて、恐ろしい力を持った神々と考えられていました。金星や昴が重要で、種まきや牧畜と関連づけられていました。大地と海の女神、パチャママとママコチャは、農業と漁業に関するものであり、山の神は山岳地帯に住む人々の農耕や牧畜、生活のサイクルに密接に関係づけられていました。これらの神々が人々を保護し、養う代わりに、人々は儀礼によってこれらの神々を崇め、養うという互酬的関係が成り立っていました。

 

儀礼において、特に重要であったのは死者儀礼です。近親者が亡くなると、人々は一定の期間、黒い喪服を身につけました。女は頭髪を切り、ショールで頭を覆いました。葬式の時には、参会した人すべてに、食物とチチャ(トウモロコシでできたアルコール飲料)が振舞われました。痛ましい音楽につれて、ゆるやかな踊りが続き、その後人々は死者の体と持ち物を葬りました。葬儀は約8日間続き、有力者の場合、追随者の殉死も見られました。喪に服す期間は一般的に貴族の場合一年、人民の場合二年でした。

 

山岳地方においては遺体は埋葬でなく、洞などへの安置が通常でした。彼らは共同体の起源となる偉大な祖先達の死体をミイラ化し、生きている者のように扱いました。王族の場合、死者は豪華な衣服を着せられ、飲食をさせられ、性生活まで行わされました。インカ帝国の代々の王達は、死後も、自分の財産や土地を保つことができたので、後継者は財産や土地を受け継ぐことができず、他民族と戦争し、領土を奪い、拡張することによって自分の財産や土地を獲得せねばなりませんでした。一族の結婚や戦争などについては、祭司が死者である祖先の託宣を聴き、個人や共同体の将来を決定しました。  

2024/10/19

藤原京(3)

阿波説

大和朝廷の前身としての邪馬台国は、奈良盆地の箸墓古墳やホケノ山古墳のルーツとなる墳墓が発掘され、弥生時代の大集落遺跡群があり、3世紀の丹(水銀朱:辰砂(硫化水銀))採掘遺跡が全国唯一発掘され、鉄器製作のための国内最古級の鍛冶炉を備えた竪穴建物が発掘された阿波で成立し、大和朝廷は710年(和銅3年)に奈良の平城京に遷都するまで阿波にあった、と解する阿波説では、藤原宮は二つ在って、最初の藤原宮の比定地は阿波(徳島県吉野川市鴨島町飯尾の呉郷団地南の山際、飯尾天神社辺り)であったとする。

 

その痕跡は飯尾天神社の境内には、藤原宮を造った棟梁と伝えられる「藤原役の君」の尊像が安置されていること、藤氏神社(飯尾天神社の麓に鎮座)という天皇の宮を造ったとの伝承を持つ「工藤氏」の氏神を祀る神社が比定地近くに鎮座していること、比定地近くに「国一八幡宮」(鴨島町山路)が鎮座し、神社前の由緒書きには、「ここは昔慶雲の宮と呼ばれていた」と書かれていることである。

 

また、藤原宮の藤乃井は、四国霊場第11番札所藤井寺境内に池(湧水)があって、現在水量はほとんどないものの大昔の面影を留め、藤棚には初夏には見事に咲き誇り、また境内を流れる小川の上流は藤の自生林として知られ、藤の自生林の間を流れる小川ゆえに藤乃井の名が付けられたとしている。

 

さらに万葉集にある藤原宮の役民(えのたみ)の作れる歌

 

『やすみしし わご大王 高照らす 日の皇子 荒栲(あらたへ)の 藤原がうへに 食(を)す國を 見し給はむと 都宮は 高知らさむと 神(かむ)ながら 思ほすなべに 天地(あめつち)も 寄りてあれこそ石走る 淡海(あふみ)の國の 衣手の田上山(たなかみやま)の 眞木さく檜の嬬手を もののふの八十氏河(やそうじがわ)に 玉藻なす 浮かべ流せれ 其を取ると さわく御民も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの水に浮きゐて わが作る 日の御門に 知らぬ國 寄し巨勢道(こせぢ)より わが國は 常世にならむ圖(ふみ)負へる 神しき亀も 新代と 泉の河に 持ち越せる 眞木の嬬手を 百足らず 筏に作り 泝(のぼ)すらむ 勤(いそ)はく見れば 神ながらならし』(万葉集巻一50番)

 

 

『天照す日神子命以来の我国の天皇が、安らけく居ます大宮を藤原に造るにあたり、我々が田上山の桧を切り出し八十川の水筋を利用、泉谷の入り江まで多くの民々が手助けして運び、この泉の入江で数多くの筏にしつらえ対岸の鴨島の入江まで引きのぼり、この木材をもって藤原宮を作ったのだ』

 

と誇った役の人々の宮ぼめ歌と解釈し、

 

「荒栲の藤原がうへに」とは、この地が旧麻植郡内で日継ぎの神事に皇祖の御衣としてこの藤原宮の後方の山上貢村から持ち来るあらたえを枕詞として使ったもの。

 

「食す國」とは、五穀豊穣の象徴大宜都比売を国名とした阿波のこと

 

「淡海の國の衣手の田上山」の「淡海(あふみ)」とは「阿波海(あわうみ)」の転化で、鳴門から南にかけての阿波の海のこと。通説は「淡海(あふみ)」を「近江」とし「淡海の海」を琵琶湖のこととしているが誤り。本居宣長も「あふみ」は「阿波宇美が切(つづ)ま」ったものと説いている。田上山とは伊太乃郡田上邑(現・徳島県鳴門市大麻町の旧郷名)の山で現在の大麻山のこと

 

「檜」は、大麻町桧は地名に付くほど檜の産地

 

「もののふの八十氏河」とは、吉野川北岸の田上邑を含めた伊太乃郡山下郷大津の辺りから上流の上板町泉谷川辺りまでの、クモの巣のように水路の入り交じる所

 

「鴨じも」とは、鴨島が上下島に分かれているので、鴨の下島のこと

 

「神しい亀」とは、速吸門(鳴門海峡)で海人の大人(うし)宇豆彦が亀に乗って現れて神武軍を案内したという神武東征[26]の伝説にもとり歌われたもの

 

「泉の河」とは板野郡上板町に流れる川

 

「筏に作り」など、大河吉野川は如何様にも運搬できるとしている。一方、通説の説く琵琶湖近くの滋賀の田上山から木材を筏に組んで、琵琶湖から宇治川へ、そして木津川へ運び、木津からは陸路や運河などで大和三山に囲まれた奈良藤原京(橿原市高殿町)まで運んだという檜の運搬経路は、あまりに非合理にして非現実的な経路であり、檜の産地は奈良藤原京の近辺にも多くあるとしている。

 

持統朝には34回もの吉野宮への行幸の記録が記載されており、奈良県で吉野宮跡といわれているところは吉野郡吉野町とされているが、明日香や橿原市に在る奈良藤原宮までは、地図上の直線距離で十数キロになり、しかも標高500メートル以上の山が連なっている。歩いて最短のコースをとったとしても20キロ余りの急峻な坂道を通らなければならず、かくまでして吉野に行かしめたものは何であったのか。

 

また、

『瀧の上の 三舟の山に ゐる雲の 常にかあらんと わが思はなくに』(万葉集巻三242

『み吉野の 瀧の白浪 知らねども かたりし継げば いにしへ思ほゆ』(同巻三313

と詠まれているように、吉野宮の近くには滝がなければならないし、柿本人麻呂の歌(同巻一36373839)に詠まれているように、吉野川は朝に夕に舟を並べて競い合って渡るほど川幅が広くなければならない。奈良県吉野郡吉野町の「宮滝」は明日香の浄御原宮や橿原市の藤原宮と同じ吉野川北岸にあり、吉野川を渡る必要がない。

 

一方、阿波説における吉野宮の推定地は三好市三野町加茂野宮字王地で、その北側裏山奥には「龍頭滝」と「金剛滝」の二瀑があり、柿本人麻呂の歌の

 

『やすみしし わご大君 の聞し食す 天の下に 国はしも 多(さは)にあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば 百磯城の 大宮人は 船並べて 朝川渡り 船競ひ 夕河渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らず 水激つ 瀧の都は 見れど飽かぬかも』(万葉集巻一36番)

 

の「水激(たぎ)つ滝の都」を正に彷彿とさせ、吉野川は持統天皇に随行した宮廷人が舟を浮かべて遊び、朝夕は舟を並べて対岸まで競うほど川幅は広く水量も豊かであり、三好市三野町加茂野宮の吉野宮は吉野川北岸にあり、吉野川市鴨島町の藤原宮や小松島市の飛鳥浄御原宮は吉野川の南側にあり、吉野川を渡る必要がある。

 

691年、藤原不比等は唐帝国の文明と軍事的圧力を目の当たりにして、列島全域の律令制統治が不可欠と考え、海をまたいで新益京(奈良県橿原市)の地鎮祭を行ったが、持統天皇は不比等の度重なる奈良への遷都の説得にも決心がつかず、倭(阿波国)に留まりたいと、692年に藤原宮(鴨島町)で地鎮祭を行い、二年後の694年に飛鳥(徳島県小松島市)から藤原宮(吉野川市鴨島町)へ遷ったとし、これが一度目の藤原京で二度目が奈良県橿原市の藤原京であったとしている。

 

702年(大宝2年)持統天皇が薨去し、喪が明けた704年(慶雲元年)、不比等は半ば中断していた新益京の本格的造営に着手し、宮名も藤原宮と改め造営を始めた。707年(慶雲4年)、初めて上級官僚を集めて遷都の議論をさせたが、その4か月後に遷都に乗り気でなかった文武天皇が25歳の若さで薨去、元明天皇は急ぐ必要はないと反対したが、不比等に押し切られ、遷都の詔を発したとしている。

 

特別史跡

藤原宮跡 - 1952年(昭和27年)329日指定。

1946年(昭和211121日に史跡に指定されたのち、1952年(昭和27年)に特別史跡に指定された。また10数度にわたり指定範囲の追加が行われている。

2024/10/18

最澄(4)

大乗戒壇の設立

最澄の弟子で朝廷との交渉役であった光定が著した『伝述一心戒文』によれば、弘仁9年(818年)に最澄は天台法華宗を広めるために大乗寺を建て、光定に一乗の号を名乗らせると告げた。光定は、この事を藤原冬嗣を通じて天皇に上奏するが、南都の僧の反対にあって叶わなかった。『叡山大師伝』によると、同年3月に最澄が「今後声聞の利益を受けず、永く小乗の威儀にそむくべし」とし、具足戒を破棄したと記される。

 

続いて最澄は『山家学生式』などを著し、天台法華宗の僧育成制度について朝廷に裁可を要請する。

 

国宝とは何か。道心(悟りを求める心)を持つ人を名付けて国宝という。ゆえに古来の哲人は「径1寸の珠10枚は国宝ではない。世の一隅を照らす人が国宝である」と言う。

最澄、『天台法華宗年分学生式』

 

この中で最澄は大乗戒のみによる受戒と、十二年籠山行など革新的な受戒制度と育成制度を提唱する。弘仁10315日に『天台法華宗年分度者回小向大式』が提出されると、嵯峨天皇は「真理に叶ったものであれば取り計らうように、真理に叶わなければ取り計らってはならない」と返答。この件を玄蕃寮長官の真苑雑物は僧綱の護命へ告げ、護命は南都七大寺に意見を求めたうえで、最澄の主張には道理がないとして反対の意を上奏した。

 

この上奏文は天皇の勅により、1027日に最澄に渡された。これに対し、最澄は翌弘仁11年(821年)229日に『顕戒論』と『内証仏法相承血脈譜』を内裏に提出して反論。さらに弘仁123月に『顕戒論縁起』を朝廷に提出する。しかし最澄の提言は生前に叶う事は無かった。

 

天台宗独自の制度樹立を図った最澄の意図については、いくつか考えられる。第一は護国である。奈良時代の仏教は東大寺や国分寺の建立に見られるように護国を期待されていたが、災害や疫病は絶えなかった。最澄は、その原因を小乗戒(具足戒)を受けた僧に求め、これを大乗僧の純粋培養によって克服しようとした。

 

第二は時代である。釈迦が入滅して2000年近い年月が経って末法が近い世で悟りに至るには、長く時間のかかる方法ではなく大きく真っすぐな道によらなくてはならないとした。この二点を解決するために戒律制度の改革を提唱した。

 

鑑真が日本にもたらした戒律制度は唐の天台宗を含めて諸国の標準となっていたもので、僧になるためには具足戒を三師七証を前に受戒せねばならず、また菩薩戒は具足戒を受けた僧が補助的に受ける、あるいは在家信者が受ける戒としていた。それに対し、最澄は梵網経菩薩戒のみで僧になれるとし、あわせて受戒も釈迦仏、文殊師利菩薩、弥勒菩薩を三師とし、一切の仏を証師としたうえで一人の伝戒師が居ればよく、伝戒師が居なければ自誓受戒でもよいとした。また在家と出家は姿(剃髪と袈裟)で区別できるとする。このような大胆な戒律制度は日本独自の大乗仏教を育み、のちに延暦寺から輩出される鎌倉新仏教の礎となった。

 

最澄が意図した第三は、比叡山から僧の流出を防ぐことである。前述のように天台法華宗で受戒した僧が法相宗に度々奪われていた。第四は天台教団の独立である。南都六宗は僧綱を頂点とした管理機関を持ち、天台法華宗の年分度者であっても東大寺で受戒していた。また僧は治部省に属する玄蕃寮が掌握していた。この二点を克服する手立てが比叡山上での受戒と、続く12年に渡る籠山などであった。

 

天台法華宗に年分度者が与えられてから10年間で受戒した20名のうち、比叡山に住するものは僅か6名であった。これは南都の寺に所属する僧が、天台法華宗の割り当てを利用して受戒していたことも原因の一つと考えられる。最澄は得度を受けてから受戒を経て、その後の修学にいたるまで比叡山内で完結させることで、多くの天台僧を育成することを図ったと考えられる。それまでも籠山修行をする僧は居たが、これを制度化したのは最澄が初めてである。また籠山を終え学問修行共に満足であった者には、最高の僧位である大法師位を与えて欲しいと訴えている。最澄が大法師位を授かったのはこの後の事で、非常に高い要求であったことがわかる。

 

さらに大乗戒を受けた僧については、僧籍を治部省に移さず民部省に置いたままとしたうえで、受戒にあたって発給される度縁については具足戒と同様に官印を捺してもらうとしている。また官の派遣により俗別当(僧でない管理者)を置くことや他宗からの入門規定、あるいは官費の給付不要や破戒僧の処罰などを明文化している。これらは天台法華宗が既存の仏教政策から離脱し、太政官の直下に置かれて独自の管理組織を構築することを意図していると考えられる。

 

入滅と没後

最澄は弘仁13年(822年)214日、伝燈大法師位を授かる。この頃には体調を崩していたようで、桓武天皇の国忌である317日に光定は「最澄法師重病を受く。命緒幾ばくならず。伝戒を許されざれば先帝の御願成就せず。」と、戒壇設立の勅許を催促している。

 

64日の辰の刻に入滅。廟所は比叡山東塔の浄土院。

 

毎日諸大経を長講して、慇懃精進に法をして久住せしめよ。国家を利せんが為、群生を度せんが為なり。努めよ、努めよ。(中略)年月灌頂の時節護摩し、仏法を紹隆して以って国恩に答えよ。

最澄、遺言

 

最澄の死を受けて藤原冬嗣、良峰安世、伴国通らが『山修山学の表』を天皇に奏請し、死後7日後に大乗戒壇の設立と天台僧育成制度の樹立について勅許が下りた。弘仁14年(823年)226日には、勅により一乗止観院を延暦寺と改称。同年317日に最初の得度が行われ、ついで414日に光定らが受戒した。同年1017日に嵯峨天皇は『澄上人を哭す』の詩を賜う。

 

貞観8年(866年)712日に伝教大師の諡号が勅諡された。円仁の慈覚大師と共に日本史上の初の大師号である。

 

天台宗では開祖として現代に至るまで尊崇されており、2021年(令和3年)64日に延暦寺で、入寂後1200年の大遠忌法要が執り行われた。

2024/10/13

藤原京(2)

藤原京の遺構

木簡約1200点が出土している。金石文や、後年になり日本書紀など潤色が疑われる史料とは異なり、木簡は現場の律令の実践で使用された潤色の必要性のなかった史料とされる。このため、大宝律令の内容の復元も期待されている。「大宝元年」という年号や「中務省」・「宮内省」などの官庁名も混じった文書、当時の高官の名前なども書かれており、書誌にはない史料を含んでいる。

 

郡評論争に決着を付けた木簡

「上捄国阿波評松里」の表記が見られる。奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示。

「郡評論争」とは、大化の改新の詔の記述の中に、政治改革の方針の中に、地方を「国」、「郡」、「里」を単位として組織する制度の施行が含まれており、大化年間に郡の制度ができたことになっている。この「郡」に対して、疑問を呈する説が出されていた。この「郡評論争」に決着をつけたのが、藤原宮跡から発見された木簡である。

 

1967年に藤原宮跡から発見された木簡には、「己亥年十月上捄国阿波評松里」とあり、「己亥年」は文武天皇3年(699年)、「上捄国阿波評」は、上総国安房郡(後の安房国安房郡)ことと考えられることから、7世紀末には、「郡」ではなく、「評」であったことを明らかにした。一方、701年(大宝元年)を境に、「評」は発見されなくなり、「郡」のみとなる。このことから、改新の詔によってではなく、大宝律令の施行後にその規定に従って、「評」が「郡」に変更されたということが立証された。

 

呪符木簡

災いの原因となる邪気や悪鬼を防いだり、駆逐するための呪文や符号を書いた木札を呪符木簡というが、7世紀に出現する。7世紀の例は全国で8例あるが、そのうち6例は藤原宮跡から出土している。

 

門号

藤原宮は、東西南北にそれぞれ3か所、全部で12か所に門が設置されていた。それぞれの門号は、古くから天皇に仕え、守ってきた氏族の名前をとったものと考えられる。まず、宮の正面にあたる南辺中央の門である朱雀門は、大伴門の別称があった。他にも分かっている門には、北辺中央の猪使門、北辺東の蝮王門と多治比門、東辺北の山部門、西辺に佐伯門と玉手門、東辺中央の建部門、北辺西の海犬養門がある。ただ、まだ実際に発掘調査が行われたのは朱雀門など一部にすぎず、早い調査が待たれる。

 

現状

奈良県橿原市高殿町に藤原宮の大極殿の土壇が残っており、周辺は史跡公園になっている。藤原宮跡の6割ほどが国の特別史跡に指定されており、藤原宮及び藤原京の発掘調査が続けられている。

 

1968年(昭和43年)913日、歴史的風土特別保存地区に指定されている。公共施設である橿原市斎場と橿原市昆虫館等の建設のために道路が作られて、香具山(歴史的風土特別保存地区)と分断されることになる。2005年(平成17年)、大和三山は国の名勝に指定された。

 

2007年(平成19年)1月、日本政府は世界遺産登録の前提となる暫定リストに「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」を登録した。

 

藤原宮跡をより多くの人々に認知ししてもらうことを目的に、2006年(平成18年)度より地元5町(醍醐町、木之本町、縄手町、別所町、高殿町)で構成された藤原宮跡整備協力委員会の協力により藤原宮跡花園植栽事業が行われ、春に醍醐池北側の約20,000 平方メートルに約250万本の菜の花、夏に、醍醐池西側の約7,000 平方メートルに約100万本のキバナコスモス、大極殿跡南東の約3,000 平方メートルに大賀蓮、唐招提寺蓮などの11種類のハス、秋に大極殿跡南側の約30,000 平方メートルに約300万本のコスモスが植栽されている。

 

白鳳文化

この都で華咲いたのが、おおらかな白鳳文化であった。白鳳文化は、天皇や貴族中心の文化でもあった。大官大寺(大安寺、高市大寺)や薬師寺などが造営されていた。白鳳文化を代表するものとしては興福寺仏頭などがある。

 

異説・俗説

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大宰府は、藤原京に先立って日本列島で最初に条坊制をしいた都城であり、日本古代史以外の「世界史」に倣えば、都城の出現を以って国家が確立したとみなすため、九州王朝(倭国)を日本最初の王朝とする主張がなされた(九州王朝説参照)。第一期大宰府政庁の条坊築造時期については、7世紀末との説が発表されたが、さらに観世音寺よりも条坊が先行する可能性も示されている。観世音寺創建が7世紀後半とされることを考え合わせると、大宰府条坊築造時期はそれ以前ということになり、藤原京と同時期あるいはさらに古くなる可能性が出てくる。

2024/10/12

最澄(3)

空海との関係

前述のように、唐から戻った最澄が伝えた密教は歓迎される。『叡山大師伝』は、桓武天皇の喜びを「真言の秘教等は未だ此の土に伝るを得ず。しかるに最澄はこの道を得、まことに国師たり」と伝える。最澄が唐から戻った翌大同元年(806年)、長安で密教を学んだ空海も帰朝する。まもなく最澄は空海に密教の習学を申し出ているが、その理由は天台法華宗の年分度者に遮那業(密教)1名が割り当てられていた事と関連があると考えられる。

 

ただ遮那の宗、天台と融通す。(中略)法華、金光明は先帝の御願。また一乗の旨、真言とことなることなし。伏して乞う、遮那の機を求めて、年年あい計りて伝通せしめん。

最澄、大同3819日に空海に宛てた手紙

 

『伝教大師消息』に記された書簡によると、最澄は弟子を空海の下に送り、借用した経典を写すといったことを、大同4年(809年)から弘仁7年(816年)頃まで繰り返した。

 

弘仁3年(812年)1027日には、乙訓寺にいた空海を最澄が訪ねた。この際に空海は最澄に伝法することを決めたという。神護寺に残る『灌頂記』によれば、最澄は1115日に金剛界灌頂を、1214日に胎蔵界灌頂を空海から受けた。しかし、この頃の最澄の手紙をみると灌頂を受ける日について混乱が見られる。この点について、最澄は灌頂が金剛界と胎蔵界の両部が独立して一対になっているということを知らなかったという説がある。のちに最澄は越州で学んだ密教について、両部の灌頂を受けたと『顕戒論』などに記しているが、おそらく最澄が学んだ密教は両部を合わせた亜流派であり、空海が長安で学び伝えた法門と比べて劣っている事に最澄も気が付いていたと考えられる。

 

灌頂を受けた最澄は、空海の弟子となったことを意味する。後に円澄が空海に宛てた書簡によれば、空海は最澄に大法儀軌を受ける為には3年間留まるように伝えていたが果たせなかったとある。空海の下での修行は、既に一宗の責任者となっていた最澄には叶わぬ事であり、最澄もまた空海に宛てた書簡に訪問できない事への詫びを繰り返し記している。なお、最澄が『理趣釈経』の借用を求めた事に対して、空海が「理趣は論じて心から心へ伝えるもので、未入壇の者には真言を伝えない」と断ったことが二人を分かつことになったとする説があるが、この根拠となった書簡にある「澄法師」は最澄ではなく円澄とする説もある。しかしその真偽は別としても、空海の下で最澄が修業できなかった事が両者を疎遠にした根本の理由であったと考えられる。もうひとつ両者に異なる点は、真言と天台の位置づけである。最澄は天台と真言は一致しており、同じ一乗であるとしている。一方で空海は天台を真言より低い教えと見ている。この教理の相違も、両者を分かつ理由と考えられる。

 

さらに両者の間に泰範の去就問題がある。元々、泰範は天台宗以外の僧であったが、比叡山に入って密教を学んでいたと考えられる。優秀な弟子であったようで、弘仁3年(812年)58日付けの最澄の遺書には、泰範を惣別当(比叡山の管理責任者)に指名している。しかし直後の629日、泰範は暇を請うて比叡山から降りる。その書簡を読んだ最澄は返信を送るが、そこから最澄の驚きと泰範が最澄の弟子から戒を破った事で批判を受けていたことが分かる。その後も最澄は泰範を慰留したようで、最澄と泰範は共に胎蔵界灌頂を受けている。しかし泰範は比叡山には戻らず、空海の元に身を寄せた。弘仁7年に最澄が泰範に宛てた書簡には、深刻な自己反省と泰範への期待が表明されている。しかし、その書簡への返信は空海の代筆によるもので「真言の教えが天台よりも優れる」と記されている。泰範は空海の十大弟子に数えられている。

 

六所宝塔

最澄は、天台法華宗を広めるために六所宝塔を建立する計画を立てる。六所宝塔とは『比叡山僧塔院等之記』に記される全国6箇所に法華経一千部を安置するための宝塔である。『叡山大師伝』によると、最澄は弘仁5年(814年)春に宇佐八幡と香春神宮寺に参詣し、入唐の無事に感謝し妙法蓮華経等を奉納。続いて弘仁8年(817年)春に東国へ向かう。この旅では、最澄が無名の頃に写経に助力した道忠の弟子らの寺々を訪問する。同年36日には大慈寺にて円仁と徳円に菩薩戒を授け、515日には緑野寺にて円澄と広智に両部灌頂を授けている。またこの際にも、法華大乗経二千部を写して宝塔に安置したと記されている。六所宝塔が全て完成するのは最澄の没後である。

 

天台法華宗批判と徳一

天台法華宗が広がりをみせると、法相宗を中心に批判が集まるようになる。研究者によると、論争の発端は最澄が弘仁4年(813年)に著した『依憑天台義集』などとされる。弘仁5年正月の御斎会にて、嵯峨天皇の希望で殿上にて最澄と南都僧の対論が行われた。弘仁68月には大安寺にて最澄が天台を講じ、南都僧らと大論争を行う。この際の主題は、いわゆる三一権実論争である。『叡山大師伝』によると、南都僧らは攻撃的な姿勢で議論に臨んだとある。

 

続いて弘仁8年(817年)2月に東国に赴いていた最澄は、恵日寺の法相宗の僧徳一が著した『仏性抄』への反論として『照権実鏡』を著す。これ以降、二人の論争は最澄の死去前年の弘仁12年(821年)に至るまで続けられた。なお最澄の著作の大半は、徳一との論争に関連するものである。二人の論争は2つの主題に分けることができ、一つは天台・法相の教学の違いについてである。その中に修業についての論争があるが、最澄は「徳一の示す修行は正法の時代(釈迦の時代)のもので、末法に近い時代に実践することはできない」とユニークな批判をする。この思想が後述する大乗戒壇設立に繋がる。いま一つは三一現実論争であるが、これは「天台の一乗」と「法相の三乗」のどちらが権実(仮と真実)の思想であるかをめぐる論争で、これに用いられた喩えが火宅の喩(三車火宅)である。

2024/10/11

インカ神話(1)

インカ神話はインカ民族(ケチュア族)に伝わる神話であるが、ここでは、『ペルーの神話』『アンデスの神話』などと呼ばれるアンデス山脈の諸民族の神話の総称と定義して解説する。

 

皇帝アタワルパ

アンデス山脈の高地や海岸の砂漠地帯に発展したアンデスの諸民族は、それぞれが民族固有の神話伝承を口承で語り継いでいた。しかしインカ帝国が15世紀末頃に、これら諸民族を統一すると、インカ民族の言語であるケチュア語を普及させるとともに、国家宗教である太陽の神殿祭祀を推し進めた。各地の伝承はインカ民族の伝承や神話が入り込んで変容し、さらに民族固有の伝統が変化したり、言語が失なわれたりすることもあった。

 

1532年から翌年にかけ、フランシスコ・ピサロらスペイン人の侵攻を受け、皇帝アタワルパを殺され首都クスコを奪われたインカ帝国は崩壊した。地元民は、戦乱だけでなくヨーロッパ大陸から入ってきた病気によって、地区によっては全滅した例もあった。さらにカトリック教会が従来の宗教に弾圧を加えた。アンデスでは文字を使用していなかったため、スペイン人に征服される前の神話伝承の記録は、こうした出来事の中で多くが失われたと考えられている。

 

アンデスに侵入してきたスペイン人のうちの少数や、読み書きができるメスティーソとインディオが、神話などの口承を記録した。これらは記録者の価値観によって内容が歪曲されている可能性がある。[独自研究?]

たとえばワマン・ポマの記録は貴重な内容であるものの、キリスト教の影響が濃く出ているとされている。また記録者によっては、神話を聖書に沿った内容に改変したり、聖書に伝えられた出来事を重ねようとして神話を歪めたりする例もあった。[要出典]

 

しかし、まだヨーロッパ文明の影響を受けていない征服間もない時期の記録には、インカの伝承、国家的な祭祀の様子が詳しく書かれている。

 

主な神話[編集]

創世神話[編集]

創造神ビラコチャ

ペルー南部高地の伝統的な創造神ビラコチャは、インカ民族に伝わる神であり、多くの記録者による異伝がある。海岸地域では、太陽と兄弟であるとされる創造神パチャカマックが活躍する。中部高地のワロチリ地方には4柱の創造神、ヤナムカ・トゥタニャムカ(ヤナムカ・インタナムカ)、ワリャリョ・カルウィンチョ、パリアカカ、コニラヤ・ビラコチャ(クニラヤ)の神話が伝えられている。このほか、北高地のワマチューコ地方にも独自の神話が残っている。

 

北高地南部では、4つの世界、すなわちワリウィラコチャルナ(人類が洞窟に住み、無心に暮らす)、ワリルナ(定住して農業をし、創造神を知る)、プルンルナ(王や戦士が生じ、また海岸低地に進出)、アウカルナ(王国間で戦争)が次々に交代したという伝承がある。また、南高地のチチカカ湖周辺にも、プルンパチャ、カリャックパチャ、プルンカチャ・ラカプティン、トナパ・ビラコチャという4つの世界が次々に現れたという伝承がある。

 

インカ民族を最初に支配したのはマンコ・カパックとされている。(詳細はインカ帝国#伝承を参照。)

なお、マンコ・カパックは4人兄弟の末っ子であるが、アメリカ大陸では一般的にこの「4」という数字が神聖視されている。

 

太陽の神話

インカ帝国の国教は太陽神信仰であったとされるが、創世神話において太陽は他の神に作られることはあっても太陽自体が主神の役割をすることはなかった。パチャクテクを皇帝とするインカ帝国が諸民族を征服、支配した後で、帝国の支配の正当性を示すべく、昔からの神話を解釈し直して新たな神話を作り出した。ユパンキ(パチャクテクの初名)の物語は、太陽を父とするパチャクテクによる征服を正当化するものである。

 

帝国崩壊後の神話

インカ帝国が崩壊した後、国家的祭祀と神話はじきに消滅してしまったが、アンデス各地に根強く伝わっていた神話、信仰、儀礼は残った。ワマニをはじめとする山上の神、地母神パチャママへの信仰は強固に残存した。また、神秘的な力を持った物や表象物や場所、神格、神像をさす『ワカ』という概念も信仰され続けた。雷や稲妻も天の神の姿の1つとされて信仰され、雨を降らせる力にも関連づけられた。

 

パチャママは神話にはあまり登場しないものの、近代になっても農民がトウモロコシで作った酒を大地に撒き、地下にあって大地の作物を増殖させると信じられているパチャママを讃えている。

2024/10/07

藤原京(1)

藤原京は、飛鳥京の西北部、奈良県橿原市と明日香村にかかる地域にあった飛鳥時代の都城。壬申の乱により即位した天武天皇の計画により、日本史上で初めて唐風の条坊制が用いられた。平城京に遷都されるまでの日本の首都とされた。

 

『日本書紀』などの正史には「新たに増した京」という意味の新益京(あらましのみやこ、あらましきょう、しんやくのみやこ、しんやくきょう)などの名で表記されている。藤原京という名は、大正2年(1913年)に藤原京研究の先駆となった喜田貞吉が『藤原京考証』という論文において使った仮称が、その後の論文などで多用され定着したもので、当時の皇居が『日本書紀』で藤原宮と呼ばれていることから飛鳥京と同様に名づけられた学術用語である。本項では、この藤原宮についても述べる。

 

概要

『日本書紀』の天武天皇5年(676年)に天武天皇が「新城(にいき)」の選定に着手し、その後も「京師」に巡行したという記述がある。これらの地が何処を指すのかは明確な結論は出ていないが、発掘調査で発見された規格の異なる条坊などから、藤原京の造営は天武天皇の時代から段階的に進められたという説が有力である。

 

天武天皇の死後に一旦頓挫した造営工事は、その皇后でもあった後継の持統天皇4年(690年)を境に再開され、4年後の694年に飛鳥浄御原宮(倭京)から宮を遷し藤原京は成立した。 以来、宮には持統・文武・元明の三代にわたって居住した。

 

それまで、天皇ごと、あるいは一代の天皇に数度の遷宮が行われていた慣例から、3代の天皇に続けて使用された宮となったことは大きな特徴としてあげられる。この時代は、刑罰規定の律、行政規定の令という日本における古代国家の基本法を、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)令、さらに大宝律令で初めて敷いた重要な時期と重なっている。政治機構の拡充とともに壮麗な都城の建設は、国の内外に律令国家の成立を宣するために必要だったと考えられ、この宮を中心に据え、条坊を備えた最初の宮都建設となった。 藤原京に居住した人口は、京域が不確定なため諸説あるが、小澤毅による推定では4 - 5万人と見られている。その多くは貴人や官人とその関係者や、夫役として徴集された人々、百姓だった。自給自足できる本拠地から切り離された彼らは、食料や生活物資を外界に依存する日本初の都市生活者となった。

 

708年(和銅元年)に元明天皇より遷都の勅が下り、710年(和銅3年)に平城京に遷都された。 藤原宮の遺構からは、平城遷都が決まる時期に至っても朝堂を囲む回廊区画の工事が続いていたことを示す木簡が出土しており、藤原京が未完成のまま放棄された可能性を示唆している。その翌年の711年(和銅4年)に、宮が焼けたとされている(『扶桑略記』、藤原宮焼亡説参照)。

 

藤原京の範囲・構造

藤原京は、岸俊男などによる研究初期の想定では、大和三山(北に耳成山、西に畝傍山、東に天香久山)の内側にあると想像され、128坊からなる東西2.1km、南北3.2km 程度の長方形で、藤原宮は中央よりやや北寄りにあったと考えられていた。しかし1990年代の東西の京極大路の発見により、規模は、5.3km10里)四方、少なくとも25km2はあり、平安京(23km2)や平城京(24km2)をしのぎ、古代最大の都となることがわかり、発見当時は「大藤原京」と呼んでいた。この広大な京域は、南側が旧来の飛鳥にかかっており、「倭京」の整備に伴って北西部に新たに造営された地域を加え、持統天皇期に条坊制の整備に伴う京極の確立とともに、倭京から独立した空間として認識されたとみられている。

 

特色として、以降に建設される、北に宮殿や政庁を配した北朝形式の太宰府、平城京や平安京とは異なり、京のほぼ中心に内裏・官衙のある藤原宮を配している。これは天武天皇の唐への対抗意識として、敢えて長安城や大興城に倣わず、『周礼』冬官考工記にある理想的な都城造りを基に設計されたと考えられている。 条坊制を採用し、東西5.3km20坊)、南北4.8km18条)の範囲内に碁盤目状に街路を配したとされる。

 

藤原宮から北・南方向にメインストリートである朱雀大路があり、これを境に東側に左京、西側に右京が置かれた。朱雀大路は、後の平城京や平安京のような幅70メートル以上の広いものではなく、幅24メートル強(側溝中心間)と非常に狭いものであった。想定される宮都域には「和田廃寺」「田中廃寺」「豊浦寺(向原寺)」の遺構などが確認され、宮都はこのような既存施設との兼ね合いで飛鳥川の南側の朱雀大路や羅城門が整備されなかったとする説もある。

 

東西を通る京極を除いて縦横9本ずつの大路が計画され、南北・東西に十坊の条坊制地割りが設定されている。左右京とも四坊ごとに一人の坊令(ぼうれい)を置き合わせて12人の坊令を置いたことが、大宝戸令(こりょう)と大宝官員令(かんいんりょう)にみえる。宮の北方に市が存在したことが明らかになっている。

 

大和三山にかかる部分は条坊が省略されたと考えられるが、右京の四条付近にあった古墳群は、神武陵、綏靖陵を除いて、このときに削平されてしまったと見られている。また広大な宮都の南東が高く北西が低い地形のまま造営されており、汚物を含む排水が南東部から宮の周辺へ流れていたとみられる。なお藤原京には外的防衛の機能はなく、都を囲む城壁や正門が存在しない。

 

藤原宮

藤原宮の調査の結果、宮城内に、宮城外の街路の延長線上で同じ規格の街路の痕跡が見つかっている。通常、宮城内には一般の人が通行する街路があるはずがないので、藤原京の建設予定地では、まず全域に格子状の街路を建設し、そののちに宮城の位置と範囲を決定して、その分の街路を廃止したと考えられる。そのことは、薬師寺跡の発掘でも立証されている。

 

藤原宮は、ほぼ1km四方の広さであった。周囲をおよそ5mほどの高さの塀で囲み、東西南北の塀にはそれぞれ3か所、全部で12か所に門が設置されていた。南の中央の門が正面玄関に当たる朱雀門である。塀の構造は、2.7m間隔に立つ柱と、それで支えた高さ5.5mの瓦屋根、太さ450cmの柱の間をうめる厚さ25cmの土壁が藤原宮の大垣である。平城宮の発掘調査で、藤原宮から再利用したものが発見されている。藤原宮は、南北約600m、東西約240mにおよぶ、日本で最大の規模を持つ朝堂院遺構である。大極殿(基壇は東西約52m、南北約27m[10])などの建物は礎石建築がなされ、中国風に日本の宮殿建築でははじめて瓦を葺いた建築がなされていた。

 

朝堂院南門

列柱は実際位置から北20メートルで標示。後背は耳成山。

 

朝堂院東門

列柱は実際位置から北10メートルで標示。後背は天香久山。

 

朝堂院西門

列柱は推定位置から北10メートルで標示。後背は畝傍山。

 

藤原宮焼亡説

『扶桑略記』に、藤原京と大官大寺が和銅4年(711年)に焼失したという記事がある。これが事実だとすると、遷都の翌年に焼けたことになる。しかし、藤原京跡での発掘で、火災の痕跡は発見されていない。一方、大官大寺は金堂や塔、回廊で焼け落ちた痕跡が見つかった。遺物から8世紀ごろのものとみられる。

2024/10/05

最澄(2)

入唐求法

『叡山大師伝』によれば、桓武天皇の詔問を受けた弘世は最澄に相談し、唐の天台山国清寺への還学生と留学生各1名を派遣の必要性を訴える上表文を記す。

 

(前略)天台独り、論宗を斥けて特に経宗に立つ。論は此れ経の末、経は此れ論の本なり。(中略)

伏して願わくは我が聖皇の御代に円宗の妙義を唐朝に学ばしめ、法華の宝車を日本に運らしめん。(後略)

和気弘世、『上表文』

 

論宗とは『中論』に基づく三論宗と『成唯識論』に基づく法相宗を指し、天台宗は釈尊の説いた経に基づく経宗であると主張している。この上表により円基と妙澄の唐への派遣が決まったものの、912日になると天皇は最澄本人が入唐するよう勅した。翌日、最澄は「天朝の命に答えん」と返答し還学生となり、さらに1020日に義真を訳語僧として同行することを願い出て許されている。この際に入唐費用として金銀数百両が与えられたが、遣唐大使が200両、副使が150両であった事と比べ非常に大きな額であったことが分かる。

 

延暦23年(804年)76日、最澄ら遣唐使は肥前国松浦郡田浦から出港。最澄が乗船した第2船は91日に明州鄮県に到着した。病にかかっていた最澄はしばらく休養し、915日に天台山へ出発し、926日に台州に到着する。刺史の陸淳に面会した最澄は、講演会に訪れていた天台山修禅寺の道邃を紹介される。

 

『叡山大師伝』によれば、道邃は最澄の求めに応じて写経の手筈を整えた。貞元20年(延暦23年・804年)10月には最澄は天台山に登る。『伝法偈』によれば107日に仏隴寺で行満に出会い、経典82巻と印信(弟子が授かる書状)を授かる。同年127日に沙弥であった義真は、天台山国清寺にて翰を戒師として具足戒を受ける。翌貞元21年(延暦24年・805年)32日に最澄と義真は道邃から菩薩戒を受けるが、これが最澄と天台法華の教旨による大乗戒との出会いとなった。天台山における求法の成果は『伝教大師将来台州録』によれば書物120345巻に及んだ。また、この明州滞在の間に禅林寺で牛頭禅、国清寺で密教を学んだほか、国清寺に一堂を建立している。

 

同年3月上旬、最澄一行は明州に戻る。同年1月に崩じた徳宗の一件を日本に伝える為に、遣唐使の帰国が決まったためと思われる。遣唐使船が順風を待つ間に、最澄は越州の龍興寺を目指す。『叡山大師伝』によれば、この越州行きは「真言を求めるため」とするが、『顕戒論』には「明州の刺史の勧めによって」と記されている。48日頃に明州を出発して、418日には峯山道場で順暁から灌頂を受けるという慌ただしい日程であった。

 

『内証仏法相承血脈譜』や『顕戒論』によれば、この灌頂は金剛界・胎蔵界両部であったと記されている。また『伝教大師将来越州録』によれば、これにより書物102115巻と密教供養道具5点を入手したとされる。この後の55日までに明州へ再び戻った最澄は、開元寺法華院の霊光などから密教儀軌を得るなどし、518日に明州から帰国の途に立った。

 

天台法華宗

延暦24年(805年)65日、対馬に着いた最澄は直ちに上京する。『叡山大師伝』によると、最澄が招来した天台法門は勅命により7通の書写が命じられ、三論宗や法相宗に学ばせた。この経典は弘仁6年(815年)、嵯峨天皇による題を書き付けて完成したとされる。一方で最澄がもたらした密教も歓迎される。繰り返し密教の灌頂や祈祷などが行われたことが伝記に記されているが、これらは桓武天皇が病に伏せていた事と関係があると考えられる。

 

延暦25年(806年)正月3日、最澄は年分度者に天台法華宗を加える改正を上奏する。

 

一目の羅(あみ)は鳥を得ることあたわず。一両の宗なんぞ普く汲むに足らん

最澄、『上奏文』

 

これ以前の年分度者は、三論宗と法相宗のみに認められていたが、最澄の提案は天台法華宗を含む5宗を加えるものであった。上奏文からは天台法華宗を公認させる意味以上に、新しい仏教界の秩序を作ろうとする意図がうかがえる。この上奏は直ちに僧綱に意見が求められ僧綱も同意し、126日の太政官符により制定された。官符には年分度者の学業や任用など具体的な規定を含んでいることが特徴で、天台法華宗には『大日経』を読ませる遮那業(密教)と『摩訶止観』を読ませる止観業(天台)、各一名が割り当てられた。しかし、この時点での公認はあくまで奈良仏教の僧綱の下で認められたものであった。

 

『天台法華宗年分得度学生名帳』によると、この制度によって天台法華宗では、弘仁9年(818年)までに24名が得度を受けた。しかし比叡山を去った者が14名おり、そのうち法相宗が奪った者6名と記録されている。この事について最澄は「天台学生は小儀にとらわれて京に馳散する。まさに円道を絶せんとす」と『顕戒論』に記し、危機感を露わにしている。

2024/10/01

天智天皇(2)

即位に関する諸説

この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。 問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(20205月)

中大兄皇子が長く即位しなかったことは、7世紀中葉の政治史における謎の一つである。これに関する説がいくつか存在する。

 

天武天皇を推す勢力への配慮。すなわち、従来定説とされてきた、天武天皇は天智天皇の弟であるというのは誤りで、皇極天皇が舒明天皇と結婚する前に生んだ漢皇子であり、彼は天智天皇の異父兄であるとする説に基づくものである。確かに、『日本書紀』の天智天皇と一部の歴史書に掲載される天武天皇の宝算をもとに生年を逆算すれば、天武が年長となってしまう。しかし、同一史料間には矛盾は見られず、89歳程度の年齢差を設けている史料が多い。

 

これに対しては「『父親が違うとはいえ、兄を差し置いて弟が』ということでは体裁が悪いので、意図的に天智の年齢を引き上げたのだ」との主張があるが、「『日本書紀』に見える、天智の年齢16歳は父の舒明天皇が即位した時の年齢だったのを間違えて崩御した時の年齢にしてしまった。だから、本当の生年は『本朝皇胤紹運録』などが採用している614年だ」との反論、「古代においては珍しくなかった空位(実際、天武の前後に在位していた天智・持統も称制をしき、ただちに即位しなかった)のために誤差が生じたのだ」との反論、また『日本書紀』と指摘されているその他歴史書は編纂された時代も性質も異なるため、同一には扱えないとの意見もある(「天武天皇#出生」の項も参照)。

 

乙巳の変は軽皇子(孝徳天皇)のクーデターであり、中大兄皇子は母親である皇極天皇と共に地位を追われたという説。近年、中大兄皇子と蘇我入鹿の関係が比較的良好であり、基本政策も似ていることが指摘されている。そうなると、中大兄皇子の変事の年齢は弱冠20と若く、皇極天皇以外に強力な後ろ盾がないことを考慮すると、親子ほど歳の差のある軽皇子と違い、皇位狙いであわてて入鹿を殺害する動機がなくなる。また、『日本書紀』の大化の改新の記述には改竄が認められることから、この説が唱えられるようになった。この説では皇極天皇の退位の理由や、入鹿以外の蘇我氏がクーデター後も追放されていない理由など、その他の疑問点も説明できるため注目を浴びている。

 

天智の女性関係に対しての反発から即位が遅れたとする説。これは、『日本書紀』に記載された孝徳天皇が妻の間人皇女(天智の同母妹)にあてた歌に、彼女と天智との不倫関係を示唆するものがあるとするものである。異母兄弟姉妹間での恋愛・婚姻は許されるが、同母兄弟姉妹間でのそれは許されなかったのが、当時の人々の恋愛事情だったとされる。

 

斉明天皇の崩御後に、間人皇女が先々代の天皇の妃として皇位を継いでいたのであるが、何らかの事情で記録が抹消されたという説。これは『万葉集』において「中皇命」なる人物を間人皇女とする説から来るもので、「中皇命」とは天智即位までの中継ぎの天皇であるという解釈出来るという主張である。もし間人皇女=「中皇命」とすれば、なぜ彼女だけが特別にこうした呼称で呼ばれる必要性があったのかを考えられるが、斉明天皇だとする説もあり、必ずしも確証はない。

 

天智は元々有力な皇位継承者ではなかったために、皇太子を長く務めることでその正当性を内外に認知させようとした説。舒明の后には、敏達・推古両天皇の皇女である田眼皇女がいるにもかかわらず、敏達の曾孫に過ぎない皇極が皇后とされている点を問題とするもので、『日本書紀』の皇極を皇后とする記事を後世の顕彰記事と考え、天智は皇族を母とするとしても皇極の出自では有力な継承者になりえず、皇極の在位も短期間でその優位性を確立出来なかったために、乙巳の変後にもただちに即位せず皇族の長老である孝徳を押し立てて、自らは皇太子として内外に皇位継承の正当性を認知させる期間を要したとする説。

 

乙巳の変の意義を、蘇我大臣家のみならず同家に支えられた実母・皇極天皇率いる体制打倒にあったとする観点から、孝徳天皇との対立→崩御の後に自らの皇位継承の正統性を確保するため、皇極天皇の重祚という、乙巳の変の否認とも取られかねない行為を行ったことで群臣たちの信用を失った中大兄が、信頼を回復するまでに相当の期間を必要としたとする説。

 

政治史という性質・史料の制約などもあり、証明は困難ではあるが、考古学的成果との連携などとも含め、今後の研究の進展が待たれる。

 

天智と蘇我氏

天智は、皇極4年(645年)の乙巳の変で蘇我蝦夷と蘇我入鹿を、大化元年(645年)9月に蘇我田口川堀を、大化5年(649年)3月に蘇我倉山田石川麻呂を政治的に、あるいは物理的に抹殺しているが、蘇我入鹿抹殺の際には蘇我倉山田石川麻呂を、蘇我倉山田石川麻呂抹殺の際には蘇我日向を、有間皇子抹殺の際には蘇我赤兄を頼り、大化2年(646年)に東国に派遣する国司として蘇我氏同族を6人も任命し、晩年には大友皇子の補佐役として蘇我赤兄(左大臣)と蘇我果安(御史大夫)を選び、自身や親族の后妃に蘇我氏の女性を選んでいるように、自身の勢力の地盤として、大化以前からの伝統的な雄族であった蘇我氏の権力に頼らざるを得なかった。それにもかかわらず、蘇我安麻呂によって大海人皇子を逃してしまっていることから、蘇我氏全体を権力に組み込むことはできなかったことがわかる。

 

諡号

和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。漢風諡号である天智天皇は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代に淡海三船が撰進した。森鴎外は『帝諡考』において、その典拠に『逸周書』世俘解、『淮南子』主術訓、『韓非子』解老篇を候補に挙げている。

 

陵・霊廟

天智天皇陵(京都市山科区)

陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市山科区御陵上御廟野町にある山科陵(やましなのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は上円下方(八角)。遺跡名は「御廟野古墳」。

 

また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。崩御の天智天皇10123日はグレゴリオ暦672110日に相当するので、110日に御陵で正辰祭が行われる(17日はユリウス暦)。

 

百人一首(天智天皇の読み札)

万葉集に4首の歌が伝わる万葉歌人でもある。百人一首でも平安王朝の太祖として敬意が払われ、冒頭に以下の歌が載せられている。

 

秋の田の かりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ

「屋根を葺いている苫が粗いので、私の袖は夜露にしっとり濡れてしまった」農民のことを思って読んだ歌百人一首の最初の歌。

 

万葉集からも以下の一首。大和三山を詠んだ歌といわれているが、原文は香具山でなく高山であり、大和の天香久山ではない、畝火や耳梨は山ではないなど多くの異論がある。

 

香具山は畝火雄々(を愛)しと耳梨と相争ひき神代よりかくなるらし古へもしかなれこそうつせみも嬬(妻)を争ふらしき

原文「高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍競伎神代従如此尓有良之古昔母然尓有許曽虚蝉毛嬬乎相挌良思吉」