2024/10/07

藤原京(1)

藤原京は、飛鳥京の西北部、奈良県橿原市と明日香村にかかる地域にあった飛鳥時代の都城。壬申の乱により即位した天武天皇の計画により、日本史上で初めて唐風の条坊制が用いられた。平城京に遷都されるまでの日本の首都とされた。

 

『日本書紀』などの正史には「新たに増した京」という意味の新益京(あらましのみやこ、あらましきょう、しんやくのみやこ、しんやくきょう)などの名で表記されている。藤原京という名は、大正2年(1913年)に藤原京研究の先駆となった喜田貞吉が『藤原京考証』という論文において使った仮称が、その後の論文などで多用され定着したもので、当時の皇居が『日本書紀』で藤原宮と呼ばれていることから飛鳥京と同様に名づけられた学術用語である。本項では、この藤原宮についても述べる。

 

概要

『日本書紀』の天武天皇5年(676年)に天武天皇が「新城(にいき)」の選定に着手し、その後も「京師」に巡行したという記述がある。これらの地が何処を指すのかは明確な結論は出ていないが、発掘調査で発見された規格の異なる条坊などから、藤原京の造営は天武天皇の時代から段階的に進められたという説が有力である。

 

天武天皇の死後に一旦頓挫した造営工事は、その皇后でもあった後継の持統天皇4年(690年)を境に再開され、4年後の694年に飛鳥浄御原宮(倭京)から宮を遷し藤原京は成立した。 以来、宮には持統・文武・元明の三代にわたって居住した。

 

それまで、天皇ごと、あるいは一代の天皇に数度の遷宮が行われていた慣例から、3代の天皇に続けて使用された宮となったことは大きな特徴としてあげられる。この時代は、刑罰規定の律、行政規定の令という日本における古代国家の基本法を、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)令、さらに大宝律令で初めて敷いた重要な時期と重なっている。政治機構の拡充とともに壮麗な都城の建設は、国の内外に律令国家の成立を宣するために必要だったと考えられ、この宮を中心に据え、条坊を備えた最初の宮都建設となった。 藤原京に居住した人口は、京域が不確定なため諸説あるが、小澤毅による推定では4 - 5万人と見られている。その多くは貴人や官人とその関係者や、夫役として徴集された人々、百姓だった。自給自足できる本拠地から切り離された彼らは、食料や生活物資を外界に依存する日本初の都市生活者となった。

 

708年(和銅元年)に元明天皇より遷都の勅が下り、710年(和銅3年)に平城京に遷都された。 藤原宮の遺構からは、平城遷都が決まる時期に至っても朝堂を囲む回廊区画の工事が続いていたことを示す木簡が出土しており、藤原京が未完成のまま放棄された可能性を示唆している。その翌年の711年(和銅4年)に、宮が焼けたとされている(『扶桑略記』、藤原宮焼亡説参照)。

 

藤原京の範囲・構造

藤原京は、岸俊男などによる研究初期の想定では、大和三山(北に耳成山、西に畝傍山、東に天香久山)の内側にあると想像され、128坊からなる東西2.1km、南北3.2km 程度の長方形で、藤原宮は中央よりやや北寄りにあったと考えられていた。しかし1990年代の東西の京極大路の発見により、規模は、5.3km10里)四方、少なくとも25km2はあり、平安京(23km2)や平城京(24km2)をしのぎ、古代最大の都となることがわかり、発見当時は「大藤原京」と呼んでいた。この広大な京域は、南側が旧来の飛鳥にかかっており、「倭京」の整備に伴って北西部に新たに造営された地域を加え、持統天皇期に条坊制の整備に伴う京極の確立とともに、倭京から独立した空間として認識されたとみられている。

 

特色として、以降に建設される、北に宮殿や政庁を配した北朝形式の太宰府、平城京や平安京とは異なり、京のほぼ中心に内裏・官衙のある藤原宮を配している。これは天武天皇の唐への対抗意識として、敢えて長安城や大興城に倣わず、『周礼』冬官考工記にある理想的な都城造りを基に設計されたと考えられている。 条坊制を採用し、東西5.3km20坊)、南北4.8km18条)の範囲内に碁盤目状に街路を配したとされる。

 

藤原宮から北・南方向にメインストリートである朱雀大路があり、これを境に東側に左京、西側に右京が置かれた。朱雀大路は、後の平城京や平安京のような幅70メートル以上の広いものではなく、幅24メートル強(側溝中心間)と非常に狭いものであった。想定される宮都域には「和田廃寺」「田中廃寺」「豊浦寺(向原寺)」の遺構などが確認され、宮都はこのような既存施設との兼ね合いで飛鳥川の南側の朱雀大路や羅城門が整備されなかったとする説もある。

 

東西を通る京極を除いて縦横9本ずつの大路が計画され、南北・東西に十坊の条坊制地割りが設定されている。左右京とも四坊ごとに一人の坊令(ぼうれい)を置き合わせて12人の坊令を置いたことが、大宝戸令(こりょう)と大宝官員令(かんいんりょう)にみえる。宮の北方に市が存在したことが明らかになっている。

 

大和三山にかかる部分は条坊が省略されたと考えられるが、右京の四条付近にあった古墳群は、神武陵、綏靖陵を除いて、このときに削平されてしまったと見られている。また広大な宮都の南東が高く北西が低い地形のまま造営されており、汚物を含む排水が南東部から宮の周辺へ流れていたとみられる。なお藤原京には外的防衛の機能はなく、都を囲む城壁や正門が存在しない。

 

藤原宮

藤原宮の調査の結果、宮城内に、宮城外の街路の延長線上で同じ規格の街路の痕跡が見つかっている。通常、宮城内には一般の人が通行する街路があるはずがないので、藤原京の建設予定地では、まず全域に格子状の街路を建設し、そののちに宮城の位置と範囲を決定して、その分の街路を廃止したと考えられる。そのことは、薬師寺跡の発掘でも立証されている。

 

藤原宮は、ほぼ1km四方の広さであった。周囲をおよそ5mほどの高さの塀で囲み、東西南北の塀にはそれぞれ3か所、全部で12か所に門が設置されていた。南の中央の門が正面玄関に当たる朱雀門である。塀の構造は、2.7m間隔に立つ柱と、それで支えた高さ5.5mの瓦屋根、太さ450cmの柱の間をうめる厚さ25cmの土壁が藤原宮の大垣である。平城宮の発掘調査で、藤原宮から再利用したものが発見されている。藤原宮は、南北約600m、東西約240mにおよぶ、日本で最大の規模を持つ朝堂院遺構である。大極殿(基壇は東西約52m、南北約27m[10])などの建物は礎石建築がなされ、中国風に日本の宮殿建築でははじめて瓦を葺いた建築がなされていた。

 

朝堂院南門

列柱は実際位置から北20メートルで標示。後背は耳成山。

 

朝堂院東門

列柱は実際位置から北10メートルで標示。後背は天香久山。

 

朝堂院西門

列柱は推定位置から北10メートルで標示。後背は畝傍山。

 

藤原宮焼亡説

『扶桑略記』に、藤原京と大官大寺が和銅4年(711年)に焼失したという記事がある。これが事実だとすると、遷都の翌年に焼けたことになる。しかし、藤原京跡での発掘で、火災の痕跡は発見されていない。一方、大官大寺は金堂や塔、回廊で焼け落ちた痕跡が見つかった。遺物から8世紀ごろのものとみられる。

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