2024/10/18

最澄(4)

大乗戒壇の設立

最澄の弟子で朝廷との交渉役であった光定が著した『伝述一心戒文』によれば、弘仁9年(818年)に最澄は天台法華宗を広めるために大乗寺を建て、光定に一乗の号を名乗らせると告げた。光定は、この事を藤原冬嗣を通じて天皇に上奏するが、南都の僧の反対にあって叶わなかった。『叡山大師伝』によると、同年3月に最澄が「今後声聞の利益を受けず、永く小乗の威儀にそむくべし」とし、具足戒を破棄したと記される。

 

続いて最澄は『山家学生式』などを著し、天台法華宗の僧育成制度について朝廷に裁可を要請する。

 

国宝とは何か。道心(悟りを求める心)を持つ人を名付けて国宝という。ゆえに古来の哲人は「径1寸の珠10枚は国宝ではない。世の一隅を照らす人が国宝である」と言う。

最澄、『天台法華宗年分学生式』

 

この中で最澄は大乗戒のみによる受戒と、十二年籠山行など革新的な受戒制度と育成制度を提唱する。弘仁10315日に『天台法華宗年分度者回小向大式』が提出されると、嵯峨天皇は「真理に叶ったものであれば取り計らうように、真理に叶わなければ取り計らってはならない」と返答。この件を玄蕃寮長官の真苑雑物は僧綱の護命へ告げ、護命は南都七大寺に意見を求めたうえで、最澄の主張には道理がないとして反対の意を上奏した。

 

この上奏文は天皇の勅により、1027日に最澄に渡された。これに対し、最澄は翌弘仁11年(821年)229日に『顕戒論』と『内証仏法相承血脈譜』を内裏に提出して反論。さらに弘仁123月に『顕戒論縁起』を朝廷に提出する。しかし最澄の提言は生前に叶う事は無かった。

 

天台宗独自の制度樹立を図った最澄の意図については、いくつか考えられる。第一は護国である。奈良時代の仏教は東大寺や国分寺の建立に見られるように護国を期待されていたが、災害や疫病は絶えなかった。最澄は、その原因を小乗戒(具足戒)を受けた僧に求め、これを大乗僧の純粋培養によって克服しようとした。

 

第二は時代である。釈迦が入滅して2000年近い年月が経って末法が近い世で悟りに至るには、長く時間のかかる方法ではなく大きく真っすぐな道によらなくてはならないとした。この二点を解決するために戒律制度の改革を提唱した。

 

鑑真が日本にもたらした戒律制度は唐の天台宗を含めて諸国の標準となっていたもので、僧になるためには具足戒を三師七証を前に受戒せねばならず、また菩薩戒は具足戒を受けた僧が補助的に受ける、あるいは在家信者が受ける戒としていた。それに対し、最澄は梵網経菩薩戒のみで僧になれるとし、あわせて受戒も釈迦仏、文殊師利菩薩、弥勒菩薩を三師とし、一切の仏を証師としたうえで一人の伝戒師が居ればよく、伝戒師が居なければ自誓受戒でもよいとした。また在家と出家は姿(剃髪と袈裟)で区別できるとする。このような大胆な戒律制度は日本独自の大乗仏教を育み、のちに延暦寺から輩出される鎌倉新仏教の礎となった。

 

最澄が意図した第三は、比叡山から僧の流出を防ぐことである。前述のように天台法華宗で受戒した僧が法相宗に度々奪われていた。第四は天台教団の独立である。南都六宗は僧綱を頂点とした管理機関を持ち、天台法華宗の年分度者であっても東大寺で受戒していた。また僧は治部省に属する玄蕃寮が掌握していた。この二点を克服する手立てが比叡山上での受戒と、続く12年に渡る籠山などであった。

 

天台法華宗に年分度者が与えられてから10年間で受戒した20名のうち、比叡山に住するものは僅か6名であった。これは南都の寺に所属する僧が、天台法華宗の割り当てを利用して受戒していたことも原因の一つと考えられる。最澄は得度を受けてから受戒を経て、その後の修学にいたるまで比叡山内で完結させることで、多くの天台僧を育成することを図ったと考えられる。それまでも籠山修行をする僧は居たが、これを制度化したのは最澄が初めてである。また籠山を終え学問修行共に満足であった者には、最高の僧位である大法師位を与えて欲しいと訴えている。最澄が大法師位を授かったのはこの後の事で、非常に高い要求であったことがわかる。

 

さらに大乗戒を受けた僧については、僧籍を治部省に移さず民部省に置いたままとしたうえで、受戒にあたって発給される度縁については具足戒と同様に官印を捺してもらうとしている。また官の派遣により俗別当(僧でない管理者)を置くことや他宗からの入門規定、あるいは官費の給付不要や破戒僧の処罰などを明文化している。これらは天台法華宗が既存の仏教政策から離脱し、太政官の直下に置かれて独自の管理組織を構築することを意図していると考えられる。

 

入滅と没後

最澄は弘仁13年(822年)214日、伝燈大法師位を授かる。この頃には体調を崩していたようで、桓武天皇の国忌である317日に光定は「最澄法師重病を受く。命緒幾ばくならず。伝戒を許されざれば先帝の御願成就せず。」と、戒壇設立の勅許を催促している。

 

64日の辰の刻に入滅。廟所は比叡山東塔の浄土院。

 

毎日諸大経を長講して、慇懃精進に法をして久住せしめよ。国家を利せんが為、群生を度せんが為なり。努めよ、努めよ。(中略)年月灌頂の時節護摩し、仏法を紹隆して以って国恩に答えよ。

最澄、遺言

 

最澄の死を受けて藤原冬嗣、良峰安世、伴国通らが『山修山学の表』を天皇に奏請し、死後7日後に大乗戒壇の設立と天台僧育成制度の樹立について勅許が下りた。弘仁14年(823年)226日には、勅により一乗止観院を延暦寺と改称。同年317日に最初の得度が行われ、ついで414日に光定らが受戒した。同年1017日に嵯峨天皇は『澄上人を哭す』の詩を賜う。

 

貞観8年(866年)712日に伝教大師の諡号が勅諡された。円仁の慈覚大師と共に日本史上の初の大師号である。

 

天台宗では開祖として現代に至るまで尊崇されており、2021年(令和3年)64日に延暦寺で、入寂後1200年の大遠忌法要が執り行われた。

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