阿波説
大和朝廷の前身としての邪馬台国は、奈良盆地の箸墓古墳やホケノ山古墳のルーツとなる墳墓が発掘され、弥生時代の大集落遺跡群があり、3世紀の丹(水銀朱:辰砂(硫化水銀))採掘遺跡が全国唯一発掘され、鉄器製作のための国内最古級の鍛冶炉を備えた竪穴建物が発掘された阿波で成立し、大和朝廷は710年(和銅3年)に奈良の平城京に遷都するまで阿波にあった、と解する阿波説では、藤原宮は二つ在って、最初の藤原宮の比定地は阿波(徳島県吉野川市鴨島町飯尾の呉郷団地南の山際、飯尾天神社辺り)であったとする。
その痕跡は飯尾天神社の境内には、藤原宮を造った棟梁と伝えられる「藤原役の君」の尊像が安置されていること、藤氏神社(飯尾天神社の麓に鎮座)という天皇の宮を造ったとの伝承を持つ「工藤氏」の氏神を祀る神社が比定地近くに鎮座していること、比定地近くに「国一八幡宮」(鴨島町山路)が鎮座し、神社前の由緒書きには、「ここは昔慶雲の宮と呼ばれていた」と書かれていることである。
また、藤原宮の藤乃井は、四国霊場第11番札所藤井寺境内に池(湧水)があって、現在水量はほとんどないものの大昔の面影を留め、藤棚には初夏には見事に咲き誇り、また境内を流れる小川の上流は藤の自生林として知られ、藤の自生林の間を流れる小川ゆえに藤乃井の名が付けられたとしている。
さらに万葉集にある藤原宮の役民(えのたみ)の作れる歌
『やすみしし
わご大王 高照らす 日の皇子 荒栲(あらたへ)の 藤原がうへに 食(を)す國を 見し給はむと 都宮は 高知らさむと 神(かむ)ながら 思ほすなべに 天地(あめつち)も
寄りてあれこそ石走る 淡海(あふみ)の國の 衣手の田上山(たなかみやま)の 眞木さく檜の嬬手を もののふの八十氏河(やそうじがわ)に 玉藻なす 浮かべ流せれ 其を取ると
さわく御民も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの水に浮きゐて わが作る 日の御門に 知らぬ國 寄し巨勢道(こせぢ)より わが國は 常世にならむ圖(ふみ)負へる 神しき亀も
新代と 泉の河に 持ち越せる 眞木の嬬手を 百足らず 筏に作り 泝(のぼ)すらむ 勤(いそ)はく見れば 神ながらならし』(万葉集巻一50番)
を
『天照す日神子命以来の我国の天皇が、安らけく居ます大宮を藤原に造るにあたり、我々が田上山の桧を切り出し八十川の水筋を利用、泉谷の入り江まで多くの民々が手助けして運び、この泉の入江で数多くの筏にしつらえ対岸の鴨島の入江まで引きのぼり、この木材をもって藤原宮を作ったのだ』
と誇った役の人々の宮ぼめ歌と解釈し、
①「荒栲の藤原がうへに」とは、この地が旧麻植郡内で日継ぎの神事に皇祖の御衣としてこの藤原宮の後方の山上貢村から持ち来るあらたえを枕詞として使ったもの。
②「食す國」とは、五穀豊穣の象徴大宜都比売を国名とした阿波のこと
③「淡海の國の衣手の田上山」の「淡海(あふみ)」とは「阿波海(あわうみ)」の転化で、鳴門から南にかけての阿波の海のこと。通説は「淡海(あふみ)」を「近江」とし「淡海の海」を琵琶湖のこととしているが誤り。本居宣長も「あふみ」は「阿波宇美が切(つづ)ま」ったものと説いている。田上山とは伊太乃郡田上邑(現・徳島県鳴門市大麻町の旧郷名)の山で現在の大麻山のこと
④「檜」は、大麻町桧は地名に付くほど檜の産地
⑤「もののふの八十氏河」とは、吉野川北岸の田上邑を含めた伊太乃郡山下郷大津の辺りから上流の上板町泉谷川辺りまでの、クモの巣のように水路の入り交じる所
⑥「鴨じも」とは、鴨島が上下島に分かれているので、鴨の下島のこと
⑦「神しい亀」とは、速吸門(鳴門海峡)で海人の大人(うし)宇豆彦が亀に乗って現れて神武軍を案内したという神武東征[26]の伝説にもとり歌われたもの
⑧「泉の河」とは板野郡上板町に流れる川
⑨「筏に作り」など、大河吉野川は如何様にも運搬できるとしている。一方、通説の説く琵琶湖近くの滋賀の田上山から木材を筏に組んで、琵琶湖から宇治川へ、そして木津川へ運び、木津からは陸路や運河などで大和三山に囲まれた奈良藤原京(橿原市高殿町)まで運んだという檜の運搬経路は、あまりに非合理にして非現実的な経路であり、檜の産地は奈良藤原京の近辺にも多くあるとしている。
持統朝には34回もの吉野宮への行幸の記録が記載されており、奈良県で吉野宮跡といわれているところは吉野郡吉野町とされているが、明日香や橿原市に在る奈良藤原宮までは、地図上の直線距離で十数キロになり、しかも標高500メートル以上の山が連なっている。歩いて最短のコースをとったとしても20キロ余りの急峻な坂道を通らなければならず、かくまでして吉野に行かしめたものは何であったのか。
また、
『瀧の上の
三舟の山に ゐる雲の 常にかあらんと わが思はなくに』(万葉集巻三242)
や
『み吉野の
瀧の白浪 知らねども かたりし継げば いにしへ思ほゆ』(同巻三313)
と詠まれているように、吉野宮の近くには滝がなければならないし、柿本人麻呂の歌(同巻一36、37、38、39)に詠まれているように、吉野川は朝に夕に舟を並べて競い合って渡るほど川幅が広くなければならない。奈良県吉野郡吉野町の「宮滝」は明日香の浄御原宮や橿原市の藤原宮と同じ吉野川北岸にあり、吉野川を渡る必要がない。
一方、阿波説における吉野宮の推定地は三好市三野町加茂野宮字王地で、その北側裏山奥には「龍頭滝」と「金剛滝」の二瀑があり、柿本人麻呂の歌の
『やすみしし
わご大君 の聞し食す 天の下に 国はしも 多(さは)にあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば 百磯城の 大宮人は
船並べて 朝川渡り 船競ひ 夕河渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らず 水激つ 瀧の都は 見れど飽かぬかも』(万葉集巻一36番)
の「水激(たぎ)つ滝の都」を正に彷彿とさせ、吉野川は持統天皇に随行した宮廷人が舟を浮かべて遊び、朝夕は舟を並べて対岸まで競うほど川幅は広く水量も豊かであり、三好市三野町加茂野宮の吉野宮は吉野川北岸にあり、吉野川市鴨島町の藤原宮や小松島市の飛鳥浄御原宮は吉野川の南側にあり、吉野川を渡る必要がある。
691年、藤原不比等は唐帝国の文明と軍事的圧力を目の当たりにして、列島全域の律令制統治が不可欠と考え、海をまたいで新益京(奈良県橿原市)の地鎮祭を行ったが、持統天皇は不比等の度重なる奈良への遷都の説得にも決心がつかず、倭(阿波国)に留まりたいと、692年に藤原宮(鴨島町)で地鎮祭を行い、二年後の694年に飛鳥(徳島県小松島市)から藤原宮(吉野川市鴨島町)へ遷ったとし、これが一度目の藤原京で二度目が奈良県橿原市の藤原京であったとしている。
702年(大宝2年)持統天皇が薨去し、喪が明けた704年(慶雲元年)、不比等は半ば中断していた新益京の本格的造営に着手し、宮名も藤原宮と改め造営を始めた。707年(慶雲4年)、初めて上級官僚を集めて遷都の議論をさせたが、その4か月後に遷都に乗り気でなかった文武天皇が25歳の若さで薨去、元明天皇は急ぐ必要はないと反対したが、不比等に押し切られ、遷都の詔を発したとしている。
特別史跡
藤原宮跡 - 1952年(昭和27年)3月29日指定。
1946年(昭和21)11月21日に史跡に指定されたのち、1952年(昭和27年)に特別史跡に指定された。また10数度にわたり指定範囲の追加が行われている。
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