2024/10/13

藤原京(2)

藤原京の遺構

木簡約1200点が出土している。金石文や、後年になり日本書紀など潤色が疑われる史料とは異なり、木簡は現場の律令の実践で使用された潤色の必要性のなかった史料とされる。このため、大宝律令の内容の復元も期待されている。「大宝元年」という年号や「中務省」・「宮内省」などの官庁名も混じった文書、当時の高官の名前なども書かれており、書誌にはない史料を含んでいる。

 

郡評論争に決着を付けた木簡

「上捄国阿波評松里」の表記が見られる。奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示。

「郡評論争」とは、大化の改新の詔の記述の中に、政治改革の方針の中に、地方を「国」、「郡」、「里」を単位として組織する制度の施行が含まれており、大化年間に郡の制度ができたことになっている。この「郡」に対して、疑問を呈する説が出されていた。この「郡評論争」に決着をつけたのが、藤原宮跡から発見された木簡である。

 

1967年に藤原宮跡から発見された木簡には、「己亥年十月上捄国阿波評松里」とあり、「己亥年」は文武天皇3年(699年)、「上捄国阿波評」は、上総国安房郡(後の安房国安房郡)ことと考えられることから、7世紀末には、「郡」ではなく、「評」であったことを明らかにした。一方、701年(大宝元年)を境に、「評」は発見されなくなり、「郡」のみとなる。このことから、改新の詔によってではなく、大宝律令の施行後にその規定に従って、「評」が「郡」に変更されたということが立証された。

 

呪符木簡

災いの原因となる邪気や悪鬼を防いだり、駆逐するための呪文や符号を書いた木札を呪符木簡というが、7世紀に出現する。7世紀の例は全国で8例あるが、そのうち6例は藤原宮跡から出土している。

 

門号

藤原宮は、東西南北にそれぞれ3か所、全部で12か所に門が設置されていた。それぞれの門号は、古くから天皇に仕え、守ってきた氏族の名前をとったものと考えられる。まず、宮の正面にあたる南辺中央の門である朱雀門は、大伴門の別称があった。他にも分かっている門には、北辺中央の猪使門、北辺東の蝮王門と多治比門、東辺北の山部門、西辺に佐伯門と玉手門、東辺中央の建部門、北辺西の海犬養門がある。ただ、まだ実際に発掘調査が行われたのは朱雀門など一部にすぎず、早い調査が待たれる。

 

現状

奈良県橿原市高殿町に藤原宮の大極殿の土壇が残っており、周辺は史跡公園になっている。藤原宮跡の6割ほどが国の特別史跡に指定されており、藤原宮及び藤原京の発掘調査が続けられている。

 

1968年(昭和43年)913日、歴史的風土特別保存地区に指定されている。公共施設である橿原市斎場と橿原市昆虫館等の建設のために道路が作られて、香具山(歴史的風土特別保存地区)と分断されることになる。2005年(平成17年)、大和三山は国の名勝に指定された。

 

2007年(平成19年)1月、日本政府は世界遺産登録の前提となる暫定リストに「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」を登録した。

 

藤原宮跡をより多くの人々に認知ししてもらうことを目的に、2006年(平成18年)度より地元5町(醍醐町、木之本町、縄手町、別所町、高殿町)で構成された藤原宮跡整備協力委員会の協力により藤原宮跡花園植栽事業が行われ、春に醍醐池北側の約20,000 平方メートルに約250万本の菜の花、夏に、醍醐池西側の約7,000 平方メートルに約100万本のキバナコスモス、大極殿跡南東の約3,000 平方メートルに大賀蓮、唐招提寺蓮などの11種類のハス、秋に大極殿跡南側の約30,000 平方メートルに約300万本のコスモスが植栽されている。

 

白鳳文化

この都で華咲いたのが、おおらかな白鳳文化であった。白鳳文化は、天皇や貴族中心の文化でもあった。大官大寺(大安寺、高市大寺)や薬師寺などが造営されていた。白鳳文化を代表するものとしては興福寺仏頭などがある。

 

異説・俗説

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大宰府は、藤原京に先立って日本列島で最初に条坊制をしいた都城であり、日本古代史以外の「世界史」に倣えば、都城の出現を以って国家が確立したとみなすため、九州王朝(倭国)を日本最初の王朝とする主張がなされた(九州王朝説参照)。第一期大宰府政庁の条坊築造時期については、7世紀末との説が発表されたが、さらに観世音寺よりも条坊が先行する可能性も示されている。観世音寺創建が7世紀後半とされることを考え合わせると、大宰府条坊築造時期はそれ以前ということになり、藤原京と同時期あるいはさらに古くなる可能性が出てくる。

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