空海との関係
前述のように、唐から戻った最澄が伝えた密教は歓迎される。『叡山大師伝』は、桓武天皇の喜びを「真言の秘教等は未だ此の土に伝るを得ず。しかるに最澄はこの道を得、まことに国師たり」と伝える。最澄が唐から戻った翌大同元年(806年)、長安で密教を学んだ空海も帰朝する。まもなく最澄は空海に密教の習学を申し出ているが、その理由は天台法華宗の年分度者に遮那業(密教)1名が割り当てられていた事と関連があると考えられる。
ただ遮那の宗、天台と融通す。(中略)法華、金光明は先帝の御願。また一乗の旨、真言とことなることなし。伏して乞う、遮那の機を求めて、年年あい計りて伝通せしめん。
— 最澄、大同3年8月19日に空海に宛てた手紙
『伝教大師消息』に記された書簡によると、最澄は弟子を空海の下に送り、借用した経典を写すといったことを、大同4年(809年)から弘仁7年(816年)頃まで繰り返した。
弘仁3年(812年)10月27日には、乙訓寺にいた空海を最澄が訪ねた。この際に空海は最澄に伝法することを決めたという。神護寺に残る『灌頂記』によれば、最澄は11月15日に金剛界灌頂を、12月14日に胎蔵界灌頂を空海から受けた。しかし、この頃の最澄の手紙をみると灌頂を受ける日について混乱が見られる。この点について、最澄は灌頂が金剛界と胎蔵界の両部が独立して一対になっているということを知らなかったという説がある。のちに最澄は越州で学んだ密教について、両部の灌頂を受けたと『顕戒論』などに記しているが、おそらく最澄が学んだ密教は両部を合わせた亜流派であり、空海が長安で学び伝えた法門と比べて劣っている事に最澄も気が付いていたと考えられる。
灌頂を受けた最澄は、空海の弟子となったことを意味する。後に円澄が空海に宛てた書簡によれば、空海は最澄に大法儀軌を受ける為には3年間留まるように伝えていたが果たせなかったとある。空海の下での修行は、既に一宗の責任者となっていた最澄には叶わぬ事であり、最澄もまた空海に宛てた書簡に訪問できない事への詫びを繰り返し記している。なお、最澄が『理趣釈経』の借用を求めた事に対して、空海が「理趣は論じて心から心へ伝えるもので、未入壇の者には真言を伝えない」と断ったことが二人を分かつことになったとする説があるが、この根拠となった書簡にある「澄法師」は最澄ではなく円澄とする説もある。しかしその真偽は別としても、空海の下で最澄が修業できなかった事が両者を疎遠にした根本の理由であったと考えられる。もうひとつ両者に異なる点は、真言と天台の位置づけである。最澄は天台と真言は一致しており、同じ一乗であるとしている。一方で空海は天台を真言より低い教えと見ている。この教理の相違も、両者を分かつ理由と考えられる。
さらに両者の間に泰範の去就問題がある。元々、泰範は天台宗以外の僧であったが、比叡山に入って密教を学んでいたと考えられる。優秀な弟子であったようで、弘仁3年(812年)5月8日付けの最澄の遺書には、泰範を惣別当(比叡山の管理責任者)に指名している。しかし直後の6月29日、泰範は暇を請うて比叡山から降りる。その書簡を読んだ最澄は返信を送るが、そこから最澄の驚きと泰範が最澄の弟子から戒を破った事で批判を受けていたことが分かる。その後も最澄は泰範を慰留したようで、最澄と泰範は共に胎蔵界灌頂を受けている。しかし泰範は比叡山には戻らず、空海の元に身を寄せた。弘仁7年に最澄が泰範に宛てた書簡には、深刻な自己反省と泰範への期待が表明されている。しかし、その書簡への返信は空海の代筆によるもので「真言の教えが天台よりも優れる」と記されている。泰範は空海の十大弟子に数えられている。
六所宝塔
最澄は、天台法華宗を広めるために六所宝塔を建立する計画を立てる。六所宝塔とは『比叡山僧塔院等之記』に記される全国6箇所に法華経一千部を安置するための宝塔である。『叡山大師伝』によると、最澄は弘仁5年(814年)春に宇佐八幡と香春神宮寺に参詣し、入唐の無事に感謝し妙法蓮華経等を奉納。続いて弘仁8年(817年)春に東国へ向かう。この旅では、最澄が無名の頃に写経に助力した道忠の弟子らの寺々を訪問する。同年3月6日には大慈寺にて円仁と徳円に菩薩戒を授け、5月15日には緑野寺にて円澄と広智に両部灌頂を授けている。またこの際にも、法華大乗経二千部を写して宝塔に安置したと記されている。六所宝塔が全て完成するのは最澄の没後である。
天台法華宗批判と徳一
天台法華宗が広がりをみせると、法相宗を中心に批判が集まるようになる。研究者によると、論争の発端は最澄が弘仁4年(813年)に著した『依憑天台義集』などとされる。弘仁5年正月の御斎会にて、嵯峨天皇の希望で殿上にて最澄と南都僧の対論が行われた。弘仁6年8月には大安寺にて最澄が天台を講じ、南都僧らと大論争を行う。この際の主題は、いわゆる三一権実論争である。『叡山大師伝』によると、南都僧らは攻撃的な姿勢で議論に臨んだとある。
続いて弘仁8年(817年)2月に東国に赴いていた最澄は、恵日寺の法相宗の僧徳一が著した『仏性抄』への反論として『照権実鏡』を著す。これ以降、二人の論争は最澄の死去前年の弘仁12年(821年)に至るまで続けられた。なお最澄の著作の大半は、徳一との論争に関連するものである。二人の論争は2つの主題に分けることができ、一つは天台・法相の教学の違いについてである。その中に修業についての論争があるが、最澄は「徳一の示す修行は正法の時代(釈迦の時代)のもので、末法に近い時代に実践することはできない」とユニークな批判をする。この思想が後述する大乗戒壇設立に繋がる。いま一つは三一現実論争であるが、これは「天台の一乗」と「法相の三乗」のどちらが権実(仮と真実)の思想であるかをめぐる論争で、これに用いられた喩えが火宅の喩(三車火宅)である。
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