2025/03/07

アッバース朝(9)

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概要

西暦750年から1258年ごろまで存在したとされる国家。ムハンマドの親族としてカリフとなったアッバース家の当主が、中東諸地域を統治したもの。つまり宗教上の教主と世俗の帝王が同一人物である教団国家である。先代のウマイヤ朝が、アラブ人の特権を前提に成立したのでアラブ帝国とも呼ばれるのに対し、イスラム教徒は平等であることを謳ったのでイスラム帝国とも呼ばれる。最大領土は現在の西アジア、北アフリカ、西南ヨーロッパにまで及んだ。

 

歴史

イスラム教の開祖、ムハンマドが西暦632年に世を去ったのち、イスラム教団ではカリフという代理人を置くことになった。カリフは預言者ムハンマドの代理人として行政を統括し、イスラム法学者(ウラマー)たちが、合議によって定めた教義を信者に順守させる権限を持つ。4代に渡って、このカリフがイスラム教団を治めて、これを正統カリフ時代とも呼ぶ。だが、暗殺された第3代ウスマーンの親族であったウマイヤ家が、第4代アリーを暗殺の黒幕とみなして戦いを挑み、ついには660年に自らカリフを称した。これがウマイヤ朝である。アリーはほどなく暗殺され、ウマイヤ朝がイスラム教団を率いるカリフとなった。しかし、このカリフ選出には異論が多かった。アリーの支持者はシーア派と呼ばれてウマイヤ朝と戦いを続け、またアラブ人としての特権を持たないイスラム教徒の反乱も起こった。

 

アッバース家のサッファーフはムハンマドの親族の血筋であり、749年にもろもろの反乱勢力を統合してカリフと認められ、ウマイヤ朝に挑む。この勢力統合には、非アラブ人のイスラム教徒であって、大きな勢力を有するペルシア人の協力が必須であり、アラブ人への年金停止と非アラブ人だけに課せられた人頭税の廃止が行われ、イスラム教徒間の平等が確保された。サッファーフは、750年のザーブ河畔の戦いでウマイヤ朝の軍勢を壊滅させ、ウマイヤ朝の首都ダマスカスを占領して、ウマイヤ家をほぼ皆殺しにした。ただし、残党の一部はスペインに逃れて、後ウマイヤ朝を創始した。

 

後ウマイヤ朝はアミール(総督)と名乗り、アッバース朝の権威は認めずカリフは空位と主張した。また、ウマイヤ朝滅亡後は、シーア派は厳しく弾圧されることになった。第2代カリフのマンスールは首都としてバグダッドを建設し、第5代ハールーン・アッ=ラシードの時代に全盛期を迎えた。バグダッドは、人口150万人ともいう世界最大の都市となり、全ユーラシア経済の中枢ともなった。この当時に、アラビア・ペルシャ各地の伝承がまとめられて生まれた説話集が、『アラビアンナイト(千夜一夜物語)』である。

 

ハールーン・アッ=ラシードの死後は、カリフ位をめぐる後継者争いが深刻化し、地方の武将が自立して独立王権を築くようになって、アッバース朝の領域は縮小していく。909年にはチュニジアにシーア派のファーティマ朝が建国され、アリーの子孫としてカリフを名乗った上でエジプトにまで領土を広げた。929年には、後ウマイヤ朝もカリフを称した為、アッバース朝カリフの権威は大きく損なわれた。さらに945年に、シーア派のブワイフ朝がバグダッドを占拠して世俗上の支配権を奪い、カリフには宗教的な権限しかなくなってしまった。

 

アッバース朝カリフはセルジューク朝を利用してブワイフ朝を追い、さらにセルジューク朝やホラズムといった諸勢力とあるいは同盟して軍事力を利用し、あるいは対立して政治的支配権を取り戻そうと争う。1171年にファーティマ朝が断絶すると、その遺領を支配したアイユーブ朝のサラディンは、アッバース朝カリフの権威を認めると宣言した。しかし、それで失われた権威が取り戻されたわけではない。

 

アッバース朝の最期は1258年、モンゴル帝国のバグダッド征服による。アッバース家はほぼ皆殺しとなり、滅亡した。だがその親族がエジプトに逃れて、マムルーク朝のバイバルスによってカリフとして遇された。1517年、オスマン帝国に滅ぼされるまで、エジプトに名目上のカリフが存在し続けることとなった。

 

文化

イラン東部は正式な建国前の747年には、アッバース家側の総督が制圧していた。その部下、ズィヤード・イブン・サーリフは751年、唐の将軍高仙芝とタラス川の岸辺で戦った。当時の東西大国の決戦であり、これをタラス河畔の戦いと呼ぶ。戦はアッバース朝の勝利となり、西域のイスラム化が進んでいく。同時に唐軍の捕虜によって製紙法がイスラムに伝わり、後に欧州にも伝播して印刷技術発展の礎ともなった。

 

7代カリフのマアムーンは、「知恵の館」という図書館を建設してギリシャ語の科学文献を大量にアラビア語に翻訳させた。以後、アラビア人において科学研究が盛んになった。例えばアラビア数字は現代まで使われている数字記法となり、医学では患者の状態をよく観察し衛生や薬の処方を行う実践的な医術が発展した。イブン・アル=ハイサムは眼の機能を調べ、光を集めることでモノが見えるという原理を発見した。他に光が屈折することも発見し、「光学の父」と讃えられる。またイブン・アル=ハイサムが行った科学的な実験の方法は、のちの世界各国の科学者たちに大きな影響を与える。

2025/03/03

アッバース朝(8)

イスラームは9-10世紀に、法の体系化に伴いアッバース朝の支配領域の多様な文化、人種、生活習慣を飲み込む枠組みとして機能するようになった。住民の改宗・イスラーム化も進行したが、他方で改宗しない住民もイスラームの枠組みに沿った文化、社会を構築するように変容していった。「サービア教徒」もその後、魔術書を啓典とし、ヘルメスを預言者イドリースあるいはウフノフと同一視することで預言者を持ち、至高神として第一原因を観念するといった一神教化を遂げる。同時期に形成されつつあったイスマーイール派シーアは循環的歴史観を基本的理念のひとつとし、この点で占星術におけるヘルメス思想と共通する。

 

アッバース朝初期に頻発したシーア派の反乱のリーダーは、主にカイサーン派とザイド派のイマームであり、政治的静謐主義を貫いてマディーナで学究の日々を送ったフサイン家のムハンマド・バーキルとジャアファル・サーディクの支持者は当時、必ずしも多くなかったようである。しかし、イスマーイール派と十二イマーム派という、のちのシーア派の二大分派は、彼らの信奉者、イマーム派のなかから生まれた。

 

イマームがそなえるべき資質に関して、不正義に対して立ち上がる勇気や行動というものを重視したザイド派に対し、イマーム派は知識を重視した。バーキルとジャアファルの信奉者のなかには、イマームは全知の存在であると主張する者すらもいた。ジャアファル・サーディクは錬金術の分野でよく言及される名であり、イブン・ナディームによるとジャービル・イブン・ハイヤーンに隠された知の一部を教えたという。

 

5代カリフ、ハールーン・アッ=ラシードに仕えたジャービル・イブン=ハイヤーンは、近代化学の基礎を築いた人物である。彼は塩酸、硝酸、硫酸の精製と結晶化法を発明し、金を溶かすことができる王水を発明した。また、彼はクエン酸、酢酸、酒石酸の発見者であるとされる。アルカリの概念も彼が生み出した。

 

7代カリフ、マアムーンに仕えたフワーリズミーは、インドとギリシアの数学を総合して代数学を確立したことで知られ、アルゴリズムの語源となった人物である。

 

アルフラガヌスは、第7代カリフ・マアムーンが組織した科学者チームの一員として、地球の直径の測定に参加した。また、水位計測器ナイロメーターの建設に関わった。

 

知恵の館の主任翻訳官を務めたフナイン・イブン・イスハークは、プラトンの『国家論』やアリストテレスの『形而上学』、クラウディオス・プトレマイオスの『アルマゲスト』、ヒポクラテスやガレノスの医学書を翻訳した。

 

サービト・イブン=クッラは、ペルガのアポロニウス、アルキメデス、エウクレイデス、クラウディオス・プトレマイオスの著書を訳した。また、友愛数の発見者とされる。

 

シリアで活躍したバッターニーは球面幾何学、黄道傾斜角を発見した。月のクレーターなど多くの事物にバッターニーの名が残されている。

 

アル・ラーズィーは実用医学の基礎をつくった人物であり、エタノールを発見し、医療用のためにエタノールの精製も行った。コーヒーに関する最古の記録を残したことでも知られる。

 

イスラム神学 

初期アッバース朝時代に、公認の教義とされたイスラム神学にムータジラ学派がある。ギリシア哲学の影響を強く受けたムータジラ学派は、合理主義的な解釈に特徴がある。マアムーンはムータジラ派を公認とし、それ以外の宗派を弾圧するが、合理主義的過ぎるが故に人々には受け入れられず、廃れてしまった。

 

文学

アラビア語で書かれた千夜一夜物語

様々なジャンルの物語を集めた千夜一夜物語はカイロで完成されたが、その原型はバグダードで作られたといわれる。8世紀から9世紀のバグダードの繁栄ぶりと、バグダードに連なるネットワーク上で活躍した人々の姿を彷彿とさせる内容である。『ハールーン・アッ=ラシードの御名と光栄とが、中央アジアの丘々から北欧の森の奥まで、またマグレブからアンダルス、シナや韃靼の辺境にいたるまで鳴り渡った』と語られているように、ハールーン・アッ=ラシードの時代の物語というかたちになっている。

 

この物語の国際性は、帝国内各地の物語が寄せ集められたことによる。語り手のシェヘラザードはペルシア系、アリババがアラブ系、シンドバードがインド系の名前であるが、ルーミーというギリシア人、ファランジーというヨーロッパ人、ハバシーというエチオピア人、アフリカの黒人も登場する。

 

千夜一夜物語には、ユーラシアの大ネットワーク上で活躍する商人の話が多い。バスラから荒海に乗り出した船乗りシンドバードの話は有名であり、後のロビンソン・クルーソーの冒険、ガリバー旅行記などのモデルになっている。その話はアフリカ東岸、インド、東南アジア、中国への海路を開拓した勇敢な航海士、商人たちの苦難に満ちた航海が反映されている。

 

10世紀には、多くの文芸作品が生まれた。サアーリビーは、同時代の優れた詩人たちとその詩風を『ヤティーマ・アッ・ダフル』で紹介している。タヌーヒーは、バグダードを中心にみずからが見聞した説話を『座談の糧』にまとめた。また、豊富な説話はマカーマという文学ジャンルも生みだした。その才能から「バディー・ウッ・ザマーン」(時代の驚異)とも評されたアル・ハマザーニーがマカーマを創始し、アル・ハリーリーが大成した。百科全書的な書籍としては、アブル・ファラジュによるアラブ音楽についての大著『歌の書』があげられる。これらは、当時の社会や文化を伝える資料としても貴重な価値をもっている。

 

イスラム文明とヨーロッパ

アッバース朝では多くの物や情報が行き交い、物産の交流と共に文明の交流が進んだ。諸地域の文化、文明を差別なく取り入れたムスリムは、ユーラシア・アフリカ両大陸にわたるこれまでに見ないほど広範囲な世界文明を作り出した。そうした世界文明の痕跡は、アラビア語の広がりからうかがい知ることが出来る。イスラム文明の一部は貿易や戦争によってヨーロッパに輸入し、後の産業革命を間接的に花開かせた。