2025/03/31

カロリング朝(3)

教皇からの帝冠

教皇レオ3世は、800年のクリスマスにカール大帝にローマ皇帝としての帝冠を授け、西ローマ帝国の地に「ローマ皇帝」が復活した。ローマ教皇との結びつきが強くになるにつれ、帝権は神の恩寵によるものという観念が強まり、宗教的権威を持つようになった。

 

教皇レオ3世のカール大帝への外交文書は東ローマ皇帝への書式に従い、教皇文書はカールの帝位在位年を紀年とするようになった。カール大帝は、教会や修道院を厚く保護する一方、このような聖界領主から軍事力を供出させた。司教が世俗の仕事に関わる典拠とされたのは『旧約聖書』「サムエル記」であった。サムエルは人民を裁き、人民の罪を贖うために犠牲を捧げ、戦争においては従軍し、国王に塗油の儀式を行った。一方で『新約聖書』において、パウロは「主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました」(新共同訳、「コリントの信徒への手紙 一」9.14)と述べていた。

 

当時の聖職者の中には、この言葉は司教が世俗の職務に関わるべきではないことを述べていると考えた者もいた。そのためカール大帝は、この問題を教会会議に諮り、司教が世俗の義務を引き受けるべきであるという決定を得た。世俗の領主と違って、聖界領主は世襲される心配がなかったからである。

 

またカール大帝は伯の地方行政を監察し、中央の権力を地方に浸透させるために国王巡察使を設けたが、これは一つの巡察管区に聖俗各1名の巡察使を置くものであった。カール大帝の「帝国」はさまざまな民族を包含し、さらにそれらの民族それぞれが独自の部族法を持っている多元的な世界であったが、キリスト教信仰とその教会組織をよりどころとして、カロリング家の帝権がそれらを覆い、緩やかな統合を実現していた。君主のキリスト教化と教会組織の国家的役割の増大は、カロリング朝の帝国を1つの普遍的な「教会」、「神の国」としているかのようであった。

 

分割

広大な帝国は、カール大帝自身の個人的な資質に支えられるところも大きく、またフランク人の伝統に従って分割される危険をはらんでいた。すなわちフランク王国では、兄弟間による分割相続が慣習となり強固な法意識となっていたので、806年カール大帝は「王国分割令」を発布し、長子カールにアーヘンなど帝国中枢であるフランキアの、ピピンにイタリアの、ルートヴィヒにアキテーヌの支配権を確認し、帝権と王権をカール大帝が掌握するという形式をとった。その後カールとピピンは早逝し、813年東ローマ皇帝がカールの帝権に承認を与えてのち、ルートヴィヒを共治帝とした。

 

ヴェルダン条約によるフランク王国の分割

西フランク王シャルル2世・・・アキテーヌ|ガスコーニュ|ラングドック|ブルゴーニュ|イスパニア辺境

中フランク王ロタール1世・・・ロレーヌ|イタリア|ブルゴーニュ|アルザス|ロンバルディア|プロヴァンス|ネーデルランデン|コルシカ

東フランク王ルートヴィヒ2世・・・ザクセン|フランケン|テューリンゲン|バイエルン|ケルンテン|シュヴァーベン

 

3分割

814年カール大帝が亡くなると、ルートヴィヒ1世は帝位と王権を継承した。817年に「帝国整序令」を出して長子ロタール1世を共治帝とし、次子ピピンにアキテーヌの、末子ルートヴィヒ2世にバイエルンの支配権を確認した。この時点では、ロタール1世にイタリアの支配権も認められており、彼は後継者として尊重されていた。

 

しかしシャルル2世が生まれると、ルートヴィヒ1世はこの末子のために829年フリースラント・ブルグント・エルザス・アレマニアに及ぶ広大な領土を与えることとし、長兄であるロタール1世もこれを承認した。内心これを不満に思っていたロタール1世は830年反乱し、ルートヴィヒ1世を退位させて単独帝となったが、ピピンとルートヴィヒ2世がこれに対抗してルートヴィヒ1世を復位させた。その後、840年のルートヴィヒ1世の死後も兄弟たちは激しい抗争を繰り広げた。

 

841年、ロタール1世とシャルル2世、ルートヴィヒ2世はオセール近郊で戦い(フォントノワの戦い)、ロタール1世は敗北し、842年兄弟は平和協定を結び、帝国分割で合意することとなった。843年ヴェルダンで最終的な分割が決定され、帝国はほぼ均等に三分(西フランス王国、中フランス王国、東フランス王国)されることとなった(ヴェルダン条約)。

 

4王国

帝権は中フランス王国のロタール1世が保持し、さらに850年ロタール1世は子息ロドヴィコ2世にローマで戴冠させることに成功した。ロタール1世は855年、帝位とイタリア王国をロドヴィコ2世に、次子ロタール2世にロートリンゲン、三男のシャルルにブルグントの南部とプロヴァンスの支配を認めた。863年にプロヴァンス王・シャルルが死ぬと、遺領はルートヴィヒ2世とロタール2世の間で分割され、帝国はイタリア・東フランク・西フランク・ロートリンゲンの4王国で構成されることとなった。

 

869年にロタール2世も没すると、西フランク王シャルル2世がロートリンゲンを継承したが、翌870年東フランク王ルートヴィヒ2世がこれに異を唱え、両者はメルセンで条約を結び、ロートリンゲンを分割した(メルセン条約)。

 

西フランク王シャルル2世は875年のロドヴィコ2世の死後、イタリア王国と帝位を確保した。876年の東フランク王ルートヴィヒ2世の死に際して、シャルル2世は東フランクにも支配権を及ぼそうとしたが、アンデルナハ近郊でルートヴィヒ2世の息子たちと戦って敗れ、翌877年失意のうちに没した。

2025/03/30

「第二の師」ファーラービー(1)

アリストテレスが「第一の師」とイスラム世界で仰がれてアリストテレスの哲学解釈が興隆していく中、それに続く「第二の師」と呼ばれたファーラービー(870年頃 - 950年)は、キンディーが開いた道に基礎を固めた人物として知られている。キンディーのように彼も著作が多く、殊にアリストテレスの注釈書は多く、アヴェロエスを凌ぐものであった。キンディーと比べ、ファーラービーはアリストテレスの理解も正確であった。彼も、キンディー同様に真理を追究する情熱は確かなものであり、彼ももちろんムスリムであったが真理に反対するものであれば服従すべきはずのクルアーンでさえも、許されるものではないと考えていた。

 

ファーラービーは、哲学は真理を求める学問であって、人はこれに専念さえすれば最高の精神の境地へと到達することができると考えた。ファーラービーはイスラム的であるよりも、哲学的であるべきだと考えていた。しかし、イスラームを始めとする宗教に対して敵意を抱いていたわけではない。彼はイスラームに哲学の概念を導入することによって、イスラームの国家、政治、社会が安定するように考えていた。また、ファーラービーによると、イスラームにとって重要な概念である啓示は、本来哲学者が直接的に形而上学的認識として把握すべきものとし、預言者ムハンマドはこれを形象的、詩的に表現した天才ではあるが、哲学者よりは一段下と考えざるをえないとまで考えていた。

 

また論理学にも長けており、後のヨーロッパのスコラ哲学で大論争となったいわゆる普遍論争は、ファラービーに端を発しているともいわれている。他にも、世界の存在をネオプラトニズム的な流出論からの説明を行ったり、形而上学やキンディーも論じていた知性論を踏まえ、10の知性流出説など深い論及をし、イスラーム哲学においては偉大な存在の人物であったことはもちろんであるが、ファーラービーの論及した問題は後のヨーロッパの中世哲学の要になるようなものばかりであった。

 

アル=ファーラービー(アラビア語 ابو نصر محمد ابن محمد الفارابي ペルシア語 محمد فارابی Abū Nar Muhammad ibn Muhammad al-Fārābī870? - 950年)は、中世イスラームの哲学者・数学者・科学者・音楽家。トルコ系のアラブ人。イスラーム哲学の確立に多大な功績を上げ、イスラム哲学者たちの間で尊敬されていた哲学者アリストテレスに次ぐ、二番目の偉大な師という意味で「第二の師」という敬称を持つ。ヨーロッパ語圏では、ラテン語化されたアルファラビウス(Alpharabius)の名でも知られている。特に、ネオプラトニズムの影響を受けたアリストテレス研究で名高かった。

カザフスタンで発行されている複数のテンゲ紙幣に肖像が使用されている。

 

著作も多岐にわたり、現在でもファーラービーの著作はイスラム圏のみならず、ヨーロッパやアメリカ、日本などでも読む事が出来る。著作『有徳都市の住民がもつ見解の諸原理』と『知性に関する書簡』が<中世思想原典集成.11 イスラーム哲学>(平凡社、2000年)に日本語訳されている。

 

生涯

出生については異説もあるが、中央アジアのファーラーブ(現在のカザフスタン共和国オトラル)といわれている。若くして中央アジアの都市ブハラで学ぶ。901年にバグダードへ。当地でファーラービーの秀逸ぶりは広く知られ、当代きっての大学者となっていった。950年にダマスクスで80歳で死去。

 

彼は特にアリストテレスの研究に力を注ぎ、その研究書は後の世にも多くの影響を与えた。彼は、イスラームに哲学の概念を導入させる事により、イスラム理解をより深められると考えていた。そのためには、イスラームでは真理を獲得することこそが真の目的で、人はこれにより真の幸福を得られると説いた。彼は論理学にも優れており、彼の哲学は後のヨーロッパで大いに論じられた諸問題(普遍論争など)提起の下地を作った。また、スーフィズムの信奉者でもあった。

 

アル・ファーラービーの様々な出自の由来の記述は、それが彼自身が生きている間には、具体的な情報を持つ誰かによって記録されなかったことを示し、伝聞や推測に基づいている。彼の生涯はほとんど知られておらず、初期の情報源として彼自身の論理学と哲学の歴史をたどる中での自伝的な文章と、アル・マスウーディー、イブン・アン・ナディーム、イブン・ハウカルなどによって簡潔に述べられているだけである。サイード・アル・アンダルスィーは、彼の伝記を書いた。12-13世紀のアラビアの伝記作家は、このような手近に事実を持たず、彼の生涯について既存の叙述を利用した。

 

ある付帯的な記録から、彼は人生の大半をバグダードでキリスト教徒の教師であったユハンナー・イブン・ハイラーン、ヤフヤー・イブン・アディー・、アブー・イスハーク・イブラヒーム・アル・バグダーディーなどと過ごしたとが知られている。その後、ダマスカスやエジプトで過ごし、再びダマスカスへ戻り950-951年頃に死去した。

 

彼の名前であるアブー・ナスル・ムハンマド・ブン・ムハンマド・ファーラービーに、時々家族姓であるアル・タルカーニーというニスバが付く。

彼の生地は中央アジア~大ホラーサーンのいずれかの地である可能性がある。

 

より古いペルシャ語の"Pārāb"or"Fāryāb"は「川の流水で灌漑された土地」を意味する一般的な地名である。従って、この地名に当たる場所には多くの候補がある。例えば、現在カザフスタンのヤクサルテスにあるファーラーブ、現在トルクメニスタンのオクサス・アムー・ダルヤーにあるファーラーブ、さらにアフガニスタンの大ホラーサーンにファールヤーブなど。13世紀にはヤクサルテスのファーラーブは、オトラールとして知られた。

2025/03/29

ミクロネシアの神話伝説(7)

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【魔法のパンの木】

ラオミキアクの孫、ミラッドはバベルダオプ島沖にあるンジブタル島に住んでいました。彼女の家の庭には魔法のパンの木があり、空洞になったその幹は礁湖まで通じており、海で大きな波が起きると、自動的に幹から魚が降って来たのです。優しいミラッドは、そうして手に入れた魚を都度都度、村人にも分けていました。

ところが、彼女のパンの木を羨ましがった村人達は悔しさのあまりに、ある日のことシャコ貝の斧で、その木を切り倒してしまったのです。その瞬間、幹の中からは大量の海水があふれ出てきました。水はとまらず、とうとう島は海の底に沈んでしまったのです。今でも、透明な礁湖を覗くと、その幹が見えるということです。

 

【亀の時間】

パラオでは、女性達は亀の甲羅から作った特別な貨幣を使っていました。昔は亀の習性が あまりよく知られておらず、この貨幣は大変貴重なものでした。

 

とある新月の夜のこと、ペリリュー島の青年とアラカベサン島の少女が、ンゲルミス島で逢い引きをしていました。彼らは、そこで夜を明かしていたのです。ところが朝、少女が気が付いて見ると彼女のスカートの一部が引きちぎられており、また彼女が寝ていた場所から浜の方に向かって亀の這った跡がついていました。とりあえず、その日は椰子の葉で新しいスカートを作り、彼氏とはまた満月の夜に遭う約束をして別れました。

 

二度目の約束の日、彼らは大きな亀が浜を上がってくるのを目撃しました。よく見ると、亀の足に絡まっているのは、この前ちぎられたスカートではありませんか!

このことがきっかけで、パラオの人々は亀が卵を産んだ後、大体二週間で元の場所に戻ってくるという亀の習性を知ったのです。

 

【石になった婦人】

コロール島のンゲルミド村に、バイと呼ばれる男性だけの集会所で夜通しいったい何が行われているのか、大変に興味を持った女性がいました。女性がこういうことに興味を持ったり、あまつさえバイに近づいたり中に入ったりすることはタブーとされていましたが、だめだと言われれば言われるほどに我慢ができなくなり、とうとうある日の深夜、子どもを連れ灯りをかざして森を抜け、こっそりとバイの側までやって来たのです。そして、そうっと中をのぞき込んだその瞬間、彼女は子どももろとも石になってしまったのでした。その石は、現在でもコロールに残っているそうです。

 

【パラオの起源】

太古の昔、とある島に住む夫婦に一人の息子が生まれました。その子は驚くべき速さで成長し、またもの凄い量の食べ物を食べたため夫婦二人ではとうてい養いきれず、 村中で養っていました。彼の成長は止まらず、村では彼の身体を覆って雨露をしのぐための特別なバイまで建てました。ところが、彼はどんどんどんどん大きくなり続けて、バイよりも大きくなってしまい、やがて島中の全ての食料を食べ尽くしてしまったのです。

 

困り果てた村人達は相談し、彼を殺してしまうことに決めました。母親は泣きましたが、このままでは村中の人々が死んでしまうことを考えて村人達に従いました。そして、村人達は大きな斧で彼の身体を斬りつけました。その切り離された体のそれぞれが、今のパラオの起源なのです。彼の脚はアンガウル島になり、かかとはペリリュー島に、胴体はバベルダオプ島、頭はカヤンゲル島という具合です。そして腕や手足の指が、残りの小さな島々になったということです。

 

【テバングの伝説】

レケシワルは、妻メルデラドと暮らすために故郷ンジワルを出て、ンゲルンゲサンに出てきました。2人にはテバングという息子がいましたが、メルデラドは若くして死んでしまったために、レケシワルは男手1つで息子を育てました。テバングは成長し、やがてンゲルンゲサンで妻を見付けます。ところが、この妻は義父のレケシワルと折り合いが悪く 、テバングに父親を追い出してしまうよう頼んだのです。レケシワルは故郷のンジワルに戻りますが、昔の知り合いはもうおらず年老いた身では自分を養うのもままならないため、「バイ」に身を寄せて近所の人達に養ってもらいました。

 

その頃、テバングはテバングで困った問題を抱えていました。友人と協力して、森から大きな木を切り出してカヌーを作ったものの、カヌーがタロ田にはまりこんでしまい、押しても引いても動かなくなってしまったのです。テバングは神官のところに相談に行きましたが、神官は「これは父レケシワルを追い出した報いである」と言ったきり取り合ってくれません。テバングは妻に、「俺は、これから父さんを迎えに行って来る」と言い、ンジワルに行って父親に詫びをし、家に戻ってくれるよう頼みます。

 

レケシワルは戻ってくると男達に言いつけて、カヌーを取り出すためのチャントを詠わせました。するとカヌーはするすると滑り出し、浜まで運ぶことができたのです。それ以来、人々は老人を敬い、みんな仲良く暮らすようになったということです。

 

【ヤップの石貨】

大昔、カロリン諸島のヤップ島の人々は航海を得意とし、遠距離航海も平気でした。そんな船乗り達が、パラオの南250キロの「ロックアイランド」の洞窟の中に、加工するのに最適な石灰岩質の岩脈を発見したのです。 彼らはこの岩を用いて、大きな円形の貨幣を作成しました。有名なヤップの石貨です。何世紀にもわたってヤップの人々はカヌーに乗った男達をこの島まで運び、石貨を切り出してヤップまで運んで帰ったのです。

 

石貨の価値は、石灰岩の模様の美しさだけでなく、1つ1つの石貨が無事にヤップに持ち帰られるまでの並々ならぬ苦労の度合いで量られました。実際、運搬中に嵐に出会うとしばしば人々は命を落としましたし、苦労して作り上げた石貨は一瞬のうちに海の底に沈んでしまったのです。今でもロックアイランド沖には、こうした不慮の事故で海底に沈んだ多くの石貨が見られるそうです。

2025/03/27

カロリング朝(2)

イスラム勢力との戦いと名声獲得

トゥール・ポワティエ間の戦い

アキテーヌを支配していたウードはイスラム教徒の国境司令官ウスマンに娘を嫁がせたが、イベリア総督アブドゥル・ラフマーンは反乱分子として夫を殺し、嫁がせた娘(ランペジア)をカリフのハレムへ送った。732年、アブドゥル・ラフマーンはピレネー山脈を越え南フランスに侵攻し、ウードの軍を破った。カール・マルテルは、アウストラシアの軍勢を率いてウードの援軍に駆けつけ、トゥールとポワティエの間の平原でこれを撃退した。この勝利でカール・マルテルの声望は内外に大いに高まった。

 

このころ、イスラム教徒が北アフリカからジブラルタル海峡を越えてヨーロッパに侵入し、711年には西ゴート王国を滅ぼし、イベリア半島を支配するようになった。720年には、イスラム教徒の軍がピレネー山脈を越えてナルボンヌを略奪し、トゥールーズを包囲した。ウードは、イスラムの総督に自分の娘を嫁がせるなど融和を図る一方、732年にイスラム教徒が大規模な北上を企てた際にはカール・マルテルに援軍を求め、これを撃退した(トゥール・ポワティエ間の戦い)。

 

735年にウードが死ぬと、カール・マルテルはただちにアキテーヌを攻撃したが、征服には失敗し、ウードの息子ウナールに臣従の誓いを立てさせることで満足するにとどまった。軍を転じたカール・マルテルは南フランスに影響を拡大しようとし、マルセイユを占領した。このことが南フランスの豪族に危機感を抱かせ、おそらく彼らの示唆によって、737年にはアヴィニョンがイスラム教徒に占領された。カール・マルテルはすかさずこれを取り返し、ナルボンヌを攻撃したが奪回はできなかった。カール・マルテルは、このような軍事的成功によってカロリング家の覇権を確立した。737年にテウデリク4世が死んでから、カール・マルテルは国王を立てず実質的に王国を統治していた。

 

教会政策

カール・マルテルは、フリースラントへのカトリック布教で活躍していたボニファティウスによる、テューリンゲン・ヘッセンなど王国の北・東部地域での教会組織整備を積極的に支援した。722年、教皇グレゴリウス2世により司教に叙任されたボニファティウスは、723年にカール・マルテルの保護状を得て、当時ほとんど豪族の私有となっていたこの地域の教会を教皇の下に再構成しようと試みた。ボニファティウスの努力によって、747年にカロリング家のカールマンが引退する頃には、この地域の教区編成と司教座創設はほぼ完成された。また、これらの地域でローマ式典礼が積極的に取り入れられた。

 

一方、カール・マルテルはイスラム勢力に対抗するため軍事力の増強を図り、自らの臣下に封土を与えるためネウストリアの教会財産を封臣に貸与した(「教会領の還俗」)。これにより、鉄甲で武装した騎兵軍を養うことが可能となった。カール・マルテルの後継者カールマンは、アウストラシアの教会財産においても「還俗」をおこなった。封臣は貸与された教会領の収入の一部を地代として教会に支払ったが、地代の支払いはしばしば滞った。この教会財産の「還俗」を容易にするため、修道院長や司教にカロリング家配下の俗人が多く任命された。

 

ピピン3世、カロリング朝の成立

741年のカール・マルテルの死後、王国の実権は2人の嫡出子カールマンとピピン3世、庶子グリフォによって分割されることとなっていたが、カールマンとピピン3世はグリフォを幽閉して王国を二分した。743年、2人は空位であった王位にキルデリク3世を推戴した。747年、カールマンはモンテ・カッシーノ修道院に引退し、ピピン3世が単独で王国の実権を握った。750年頃には、アキテーヌを除く王国全土がピピンの支配に服していた。

 

教会政策

カロリング家の君主たちが進めた教会領の「還俗」は、カロリング家とローマ教皇との間に疎隔をもたらしていたが、ボニファティウスを仲立ちとして両者は徐々に歩み寄った。739年頃からボニファティウスを通じて、カール・マルテルと教皇は親密にやりとりしていた。742年、カールマンはアウストラシアで数十年間途絶えていた教会会議を召集した。745年にはボニファティウスを議長として、フランク王国全土を対象とする教会会議がローマ教皇の召集で開かれた。

 

751年、ピピンはあらかじめ教皇ザカリアスの意向を伺い、その支持を取り付けた上でソワソンに貴族会議を召集し、豪族たちから国王に選出された。さらに司教たちからも国王として推戴され、ボニファティウスによって塗油の儀式を受けた。754年には、教皇ステファヌス2世によって息子カールとカールマンも塗油を授けられ、王位の世襲を根拠づけた。この時イタリア情勢への積極的な関与を求められ、756年にはランゴバルド王国を討伐して、ラヴェンナからローマに至る土地を教皇に献上した(「ピピンの寄進」)。

 

ピピン3世の時代には、キリスト教と王国組織の結びつきが強まった。おそらく763年ないし764年に改訂された「100章版」サリカ法典の序文では、キリスト教倫理を王国の法意識の中心に据え、フランク人を選ばれた民、フランク王国を「神の国」とするような観念が見られる。またピピン3世は、王国集会に司教や修道院長を参加させることとし、さらにこれらの聖界領主に一定の裁判権を認めた。一方でこれらの司教や修道院長の任命権は、カロリング朝君主が掌握していた。

 

カール大帝の時代、キリスト教帝国の成立

東方世界・・・東ローマ帝国|ブルガリア王国

西方世界・・・カール大帝の帝国|イングランド|ベネヴェント公国|アストゥリアス王国|ボヘミア

イスラーム・・・アッバース朝|後ウマイヤ朝

周辺諸民族・・・ノルマン人|フィン人|ピクト人|ウェールズ|アイルランド|スウェーデン人|ゴート人|デーン人|プロイセン人|バシュキル人|ヴォルガブルガル人|モルドヴィン人|ポーランド人|ハザール人|アヴァール人|マジャール人|セルビア

 

カール大帝は、イタリア支配を巡って対立していた東ローマ帝国を牽制するため、時のアッバース朝カリフ、ハールーン・アッラシードに使者を派遣した。

768年にピピン3世が没すると、王国はカール大帝とカールマンによって分割された。その後、771年にカールマンが早逝したので、以降カール大帝が単独で王国を支配した。

 

773年にランゴバルド王デシデリウスがローマ占領を企てると、教皇ハドリアヌス1世はカール大帝に救援を求め、774年これに応じてデシデリウスを討伐し、支配地を併合して「ランゴバルドの国王」を称した。

 

781年には、ランゴバルド王の娘を娶ってフランク王国から離反的な態度を取っていたバイエルン大公タシロ3世に改めて臣従の宣誓をさせたが、788年にはバイエルン大公を廃して王国に併合した。また772年から王国北方のザクセン人に対して征服を開始し、30年以上の断続的な戦争の末に、804年併合した。

 

イスラム教徒に対しては、778年ピレネー山脈を越えてイベリア半島へ親征したが、撤退を余儀なくされた(ロンスヴォーの戦い)。801年にはアキテーヌで副王とされていた嫡子ルートヴィヒによってピレネーの南側にスペイン辺境伯領が成立し、イスラム教徒への防波堤となった。このようにカール大帝の支配領域はイベリア半島とブリテン島を除いて、今日の西ヨーロッパをほぼ包含する広大なものとなった。

2025/03/26

「アラブの哲学者」キンディー

最初にイスラーム哲学史に登場する人物は、アラブ人哲学者ヤアクーブ・イブン・イスハーク・アル=キンディー(801年頃 - 866年頃)ある。彼は別称として「アラブの哲学者」と呼ばれている。いちいち、アラブ人であることを言及されるのは、前述のように長らく哲学などの思想関係ではシリア系やイラン系といった人々の活躍が目立ち、純粋にアラブ系の出身者はむしろ稀なケースであったからである。

 

その名前が示す通り、彼はジャーヒリーヤ時代にあたる5世紀後半にアラビア半島中央部のナジュド高原に大勢力を誇り、キンダ王国を築いたアラブ遊牧民キンダ族の血筋であった。彼は前項の翻訳時代にバグダードを活動の中心にして莫大な量の翻訳や著作を手がけ、その数は250を超えたといわれている(しかし、現存するものは40作品程度である)。

 

キンディーは、哲学者は経験界のあらゆるものの本質を究めなくてはならないという百科全書的な考えを持っており、地理・歴史・数学・音楽・医学・政治など広範なジャンルに渡り知識を持ち合わせていた。彼自身はギリシア語を解さなかったようだが、ギリシア語文献からの翻訳の依頼や、生粋のアラブの名族のひとりとして豊富なアラビア語の知識を生かし、その翻訳指導にあたっていた。特に、アラビア語による哲学語彙の確立に多大な貢献をしている。アリストテレス関連で言えば、『形而上学』や『神学』(しかし実際これは、アリストテレスの著作ではなくプロティノスの「エネアデス」である)から、プトレマイオスの『地理学』など重要なものが多かった。

 

キンディーは人間の知性を4つにわけ、能動的知性、可能態における知性、獲得された知性、現実態における知性と後のイスラーム哲学の基礎になる知性論を展開した(すでに、この時点でアリストテレスではなく、ネオプラトニズムの考え方になっている)。

 

彼は、神を真理(ハック)と認識し、哲学独自の目標を「人間の能力の限界内において、可能な限り事物に真にあるがままに認識すること」であるとし、このように獲得した真理(これはイスラーム信者のみに保証されるものではないという)こそ普遍であると主張した。また、神による無からの創造や啓示の優位性など、「完全なる一者」から創造がはじまったとするプロティノス系の流出論が優位となる、後世の哲学者たちには見られない思想的特徴を持つ。このように、キンディーはイスラーム哲学に独自の道を開いた人物であるといえる。

 

アブー・ユースフ・ヤアクーブ・イブン・イスハーク・アル=キンディー(アラビア語: أبو يوسف يعقوب ابن إسحاق الكندي; Abū-Yūsuf Yaʿqūb ibn Isāq al-Kindī, 801 - 873?)は中世イスラームの哲学者、科学者、数学者、音楽家。広範な分野の著作のアラビア語訳を行い、諸分野、特にイスラーム哲学の基礎を作った人物である。数学を基礎として、天文学、医学、光学、政治学、弁論術、音楽論などから哲学に及ぶ広範囲にわたる著作二百数十点を著わした。ヨーロッパ語圏では、ラテン語化されたアルキンドゥス(Alkindus)の名でも知られている。 また、ペルシア人やユダヤ人の学者の多い中で、数少ないアラブ系の部族にルーツを持つ偉大な哲学者の1人であったので、「アラブの哲学者」という敬称も持つ。

 

生涯

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イラク・クーファの生まれ。5世紀から6世紀かけて、アラビア半島の北部から中央部のナジュド高原のアラブ遊牧民を統合してキンダ朝を築いた名族キンダ族にルーツを持つ。父親は、クーファの役人であった。

 

キンディーは、クーファのほかバスラやバグダードで学んだ。彼の知識は抜群であり、アッバース朝の時のカリフ、マアムーンの目に止まり、キンディーはバクダードの知恵の館に呼ばれた。知恵の館は、ギリシア哲学やギリシア科学の著作をアラビア語に翻訳をする中心的な施設で、キンディーは当地でアリストテレスの哲学書やプトレマイオスの『地理学』などを翻訳した。

 

彼自身はギリシア語を解さなかったようだが、ギリシア語文献からの翻訳の依頼や、生粋のアラブの名族のひとりとして豊富なアラビア語の知識を生かし、それらの翻訳指導にあたっていた。特に、アラビア語による哲学語彙の確立に多大な貢献をしている。翻訳した範囲も哲学・地理学・論理学・医学・物理学・数学・天文学にも及び、その翻訳書数も260に及ぶという(しかし翻訳の大半は散逸してしまい、わずかに40程の作品が現存する)。

 

百科全書的に広範な分野に知識を持っており、当時は一級の学者としてその名が知られていた。特にキンディーはこの翻訳活動を通じて、イスラム世界にギリシア哲学、特にアリストテレスの哲学を移入させた功績は大きい。ギリシア思想などの外来の学問の浸透に批判的なアラブの保守層に対抗して、真理の探究とその普遍性について説いた。

 

また彼の思想的特徴としては、神による無からの創造や啓示の優位性など、「完全なる一者」から創造がはじまったとするプロティノス系の流出説が優位となる後世の哲学者たちには見られないものがある。マアムーンに続くカリフ・ムウタスィムのもとでも活躍し、当時のヨーロッパのキリスト教文明圏で哲学が表舞台から退いていったのと対照的に、イスラームが哲学を継承していく機縁を作った。

 

特にキンディーの知性論の考え方は、後のイスラームの哲学者たちに引き継がれ、それは後のヨーロッパの中世哲学にも影響を与えたものになる。 また彼はフワーリズミーに先駆けて数学に暗号論を初めて導入した

 

しかし、やがてカリフが変わりワースィク、ムタワッキルの代になると、キンディーとの不和が生じた。さらに知恵の館に多くのライバルができ、さらには合理主義的なムウタズィラ派神学との親和性を持つキンディーの哲学は、正統派イスラーム神学者たちから激しい迫害を受け、一時期著作も没収された。こうして不遇のうちに873年(866年という説もある)に没した。

 

著書「知性に関する書簡」が、『中世思想原典集成.11 イスラーム哲学』(平凡社、2000年)に日本語訳されている。

2025/03/23

カロリング朝(1)

カロリング朝(独: Karolinger、仏: Carolingiens)は、メロヴィング朝に次ぐフランク王国2番目の王朝。宮宰ピピン3世がメロヴィング朝を倒して開いた。名称は同家で最も著名なカール大帝(ピピン3世の子)にちなむ。なお、「カロリング」は姓ではなく「カールの」という意味である。当時のフランク人には姓はなかった。

 

フランク族のカロリング家は代々フランク王国のメロヴィング朝に仕え、宮宰(宰相)を輩出してきた家系であった。はじめ、ピピン1世(大ピピン)はフランク王国の分国(アウストラシア)の宮宰であったが、ピピン2世(中ピピン)においてはフランク王国全体の宮宰を務め、ピピン3世(小ピピン)に至っては、遂にメロヴィング朝を廃しカロリング朝を開いた。

 

751年から987年まで、フランク王国やそれが分裂した後の東フランク王国・西フランク王国・中フランク王国の王を輩出した。987年、西フランク王国の王家断絶をもって消滅した。

 

ピピン3世の子カール大帝の時代には、その版図はイベリア半島とブリテン島を除く今日の西ヨーロッパのほぼ全体を占めるに至った。ローマ教皇はカール大帝に帝冠を授け、西ヨーロッパに東ローマ帝国から独立した新しいカトリックの帝国を築いた。カール大帝の帝国は、現実的には後継者ルートヴィヒ1世の死後3つに分割され、今日のイタリア・フランス・ドイツのもととなったが、理念上は中世を通じて西ヨーロッパ世界全体を覆っているものと観念されていた。

 

歴史

フランク王国では、7世紀半ばになると各分王国で豪族が台頭し、メロヴィング家の王権は著しく衰退した。このような中、アウストラシアの宮宰を世襲していたカロリング家は、ピピン2世の時代に全分王国の宮宰を占め、王家を超える権力を持つようになった。

 

ピピン2世の子カール・マルテルはイベリア半島から侵入してきたイスラム教徒を撃退し、カロリング家の声望を高めた。

 

つづくピピン3世は、ローマ教皇の承認のもとで王位を簒奪し、カロリング朝を開いた。

 

メロヴィング王権の衰退

パリ勅令で各分王国での宮宰の影響力が増大したことは、ただちにメロヴィング王権の衰退に結びついたわけではなかった。宮宰は一面では豪族支配を統制し、王権の擁護者として振る舞った。ネウストリアでは特にそうであった。それに対してアウストラシアでは、7世紀半ばにカロリング家による宮宰職の世襲がほぼ確立し、王権の影響の排除が進んだ。

 

659年、アウストラシアの宮宰でカロリング家のグリモアルド1世は王位簒奪を謀ったが、失敗し処刑された。673年、ネウストリアでクロタール3世が没した際に宮宰エブロインは王権を擁護する立場から、テウデリク3世を擁立しようとしたが、豪族たちは自らが国王選挙に参加する権利があるとして、この決定を覆し、新たにキルデリク2世を擁立した。

 

680年ないし683年にはエブロインは暗殺され、王権に対する豪族の優位が確立された。アンリ・ピレンヌによると、豪族たちはこのころ司教職を通じて地方支配に浸透していたと思われる。ネウストリアにおける反エブロインの先頭に立ったのはオータンの司教レジェーであったが、彼は豪族の出身であった。また、反エブロインの豪族たちをカロリング家は支援していた。一方でエブロインは王国全体に対するネウストリアの支配を強化するために、アウストラシアの分国王タゴベルト2世をおそらく暗殺した。これ以降、アウストラシアでは分国王はほぼ無力となり、カロリング家の影響が一段と高まった。

 

このころ、アキテーヌはほとんど独立した状態となり、王権の支配を離れた。ブルグントでは宮宰職は空位同然であり、エブロイン死後のネウストリアの宮宰職も混乱し、影響力を低下させた。エブロインは673年以降、豪族たちの反発によって影響力を大幅に低下させていたが、675年ごろ豪族による国王キルデリク2世暗殺で豪族勢力に対する反発が強まると、権力を回復しレジェーを処刑して人事を一新した。しかし、その暗殺後はウァラトがネウストリアの宮宰となったが息子のギスレマールによって追放され、ピピン2世の軍を破るなど一時強勢となるが、おそらく暗殺された。ウァラトが再び宮宰となり、686年のその死後は女婿であったベルカールが跡を継いだが、豪族たちがすぐさま反乱した。

 

ピピン2世、全フランク王国宮宰

ネウストリアで国王と宮宰に対する豪族の反乱が起こると、ピピン2世はこれに介入し、687年テルトリーの戦いでネウストリア軍を破って、688年全王国の宮宰職を認められた。

 

カール・マルテル

71412月ピピン2世が死ぬと、カロリング家の支配に対する反動が起こった。ピピン2世の死後、6歳のテウドアルド(暗殺されたピピン2世の子グリモアルド2世の子)が宮宰の位を継ぐと、ピピンの妃プレクトルディスが後見したが、ネウストリアではこれに対する豪族の反乱が起こった。豪族たちはラガンフレッドなる人物を宮宰に推戴したが、カール・マルテルにうち破られた。

 

ピピン2世の庶子カール・マルテルによって717年にはクロタール4世が擁立され、カール・マルテルはアウストラシアの支配を確立した。

 

724年ごろにはおそらくネウストリアを平定し、アキテーヌを支配していたウードと和平を結んだ。ウードは719年からネウストリアの豪族と結んでカール・マルテルと敵対していたが、これ以降ウードの生きている間はカール・マルテルの有力な同盟者となった。

 

カール・マルテルは730年にアレマン人を、734年にフリース人を征服し領土を拡大した。また733年にはブルグントを制圧した。

2025/03/22

イスラーム哲学(2)

832年、アッバース朝第7代カリフ・マアムーンは、バグダードに翻訳を行う官庁をおいた。これが、いわゆる知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)であり、ギリシア語やシリア語、パフラヴィー語に加え、インドからもたらされたサンスクリット語などさまざまな文献が集められ、これらを相互に翻訳・研究が行われた。特に医学の他、天文学・占星術関係の文献の翻訳が盛んで、天文台や図書館などの施設も併設されていた。日常の礼拝や農事暦に関わるなど、暦の制定にも天文学や占星術の知識は欠かせない存在であったため、この時代の翻訳業や観測の事蹟は後世のイスラム社会や諸政権にも多大な恩恵を与えている。

 

また同時にアッバース朝は、クーデターによってウマイヤ朝を打倒して誕生した政権であったため、自らの政権の正統性を立証するため論理学的な知識を欲していた面もある。これによってアリストテレスをはじめ、ギリシアの諸著作およびアリストテレス註解書がアラビア語圏に紹介されたが、ただの知的欲求というよりも『オルガノン』や『トピカ』などに代表される、アリストテレスによって確立された論理学の方法論を体制側が学ぶため、という現実的な要求もあった。同時にこれによって、古代後期の新プラトン主義の影響が濃いアリストテレス解釈が紹介されることになる。

 

またさらに、このシリア語(中には、ギリシア語からの翻訳もあったが)が、キリスト教徒らによってアラビア語に翻訳されていた。これにより、ムスリムたちにもギリシア哲学の研究が可能であった。この翻訳は、現在みても高水準の正確さのものもあった。ムスリムたちも、ネオプラトニズム、アリストテレス、プラトン、プロティノスなどを翻訳することができるようになった。ただし、ムスリムたちがアリストテレスの著作と考えていた著作が、実際はプロティノスのものだというように、若干の誤伝があった。またムスリムの哲学者たちは医者や数学者でもあったので、アルキメデスやガレノスなどの著作も翻訳された。

 

イスラム法の解釈と哲学の発展

このような翻訳活動は確かにイスラムに哲学をもたらしたが、これだけではイスラーム哲学の成立の契機とは見なせない。彼らが本当に哲学的方法を必要としたのは、イスラム法(シャリーア)の解釈が多様化してきたためであった。すでにムハンマドの頃とは違い、異民族のムスリムたちを抱えた世界帝国になっていたイスラム帝国は、もはやクルアーンとハディースだけでは、収まりきれないものとなった。収まりきれない場合は、学者たちの合意によって決定されるものとされ、孤立した推論は忌避されていた。柔軟に制定されているイスラム法に対しての正確な解釈が必要とされてきたし、多くの学者が他者の異説よりも、自説が正しいと考えていた。このようなまちまちな解釈では合意にも支障がでるので、客観的妥当的な立場からの見解を持つために、哲学的方法が歓迎されたのである。

 

これにより、イスラム法議論とその正当性を主張する際に、神学(カラーム)との対立が発生した。神学は一般的に受け入れられていれば、論証することは必要とされない前提(つまり宗教的な教義)で議論されて、法解釈の正しさを証明しようとしていたが、哲学は確実に疑い得ない前提が求められており、たとえイスラム教における宗教的な教義でも、論理的に正しくない限り、決して受け入れられないし、それを前提とした議論や推論は断じて証明されるものとはされず、忌避されるべきとした。

 

このことは、哲学と神学との間に不和が発生し、哲学者と神学者の間で激しい罵りあいにまで発展した。哲学者たちは、神学を「矛盾点を嘲り、敵対者や異端を論駁するだけの発展性のない学問」とまで評したが、実際は単なる観点の違い(テクスト解釈(神学)と論証する際の前提(哲学))であり、双方ともに帰結する点では結局のところ、大差はなかったといわれている。いずれにせよ、多様化され混沌としてきたイスラムの法解釈の打開策として哲学が歓迎されたのも、イスラーム哲学発展の要因の一つである。

 

東方イスラーム哲学

イスラーム哲学の世界は、紅海を境に東西に分けられる。東方イスラム世界と西方イスラム世界では、それぞれ違った特徴の哲学が展開された。東方イスラーム哲学の世界は、アラビア半島のみならず、ペルシアや中央アジア一帯にまで及ぶ。東方イスラームの哲学者たちは、多くのペルシアや中央アジア出身など、非アラブ圏の人物が多かったのが特徴である。これはイスラームにとって、哲学が外来の学問であることを物語る特徴といえるかもしれない。

別名、アラビア哲学とも言われているが、これはアラビア人が手がけたという意味合いではなく、アラビア語で哲学が展開されたという意味合いである。アラビア語はムスリム以外にも、近辺のユダヤ教徒・キリスト教徒などにも広く知られていたものであった。

2025/03/21

ミクロネシアの神話伝説(6)

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【ナンマドールとは】

ミクロネシア連邦の主島、ポンペイ(ポナペ)島の東南に、ナン・マドール(現地語でナンマトル)という古代の巨石海上遺跡があります。その広さは70haにも及び(東京ディズニーランドが84ha)、玄武岩で作られた大小92の人工島で構成されています。

 

1931年、J・チャーチワードは彼の著書「失われたムー大陸」の中で、ナンマトルこそが、12000年前に水没した巨大王国の聖都であると主張したことから、その名前は一躍有名になりました。

 

さすがに現在では、ムー大陸説を考古学的に支持している人はいないようですが、西暦1000年~1600年頃、ポンペイはシャウテレウル王朝の時代、ナンマトルはこの時代の首都として機能していたのは確かなようです。

 

【ナンマトル建造の伝説】

この海上遺跡は推定数百万本に及ぶ、玄武岩の六角柱が精密に組み合わされてできています。この驚異的な事業については、次のような伝説が残っています。

 

ある日、2人の兄弟オロシーバとオロショーバが、大勢の家来を引き連れて西の島カチャウベイティ(太陽の沈むところ)からカヌーでやってきた。これは、シャカレンワイオからサブキニイをリーダーとする16人がやってきて、小さな陸地に石を積み上げてポンペイ(石の祭壇の上、という意味)島を作ってから数えて7回目の航海であった。

 

ポンペイには政治のシステムが無いことを知った兄弟は、政治・信仰の中心地を作ろうと決意した。どこにするか考えた末、最初は北の端ソケース半島に作り始めた。(実際に石組みが残っている)が、工事が進むにつれて北西風の荒波のため、適地でないことがわかってきた。

 

その後、Nett地区、U(ウー)地区、と場所を変えるがうまくいかず、4番目にやっと現在のマトレニーム地区に理想的な地形を発見した。チェムエン島と沖の珊瑚礁との間の、いくつかの砂州を含んだ波の弱い礁湖(ラグーン)こそが、巨大工事に最も適していたのだ。

 

それでも工事は潮流に阻まれたりして難航したが、神々の力を借りて工事は続行された。「オロシーバが呪文を唱えると次々に岩が空を飛んできて、自ら決められた場所に落ちていった」と言われている。計画が大きすぎて兄弟の家来だけでは手に負えなかったが、やがてポンペイ中の人々もみんな協力するようになった。

 

残念ながら兄のオロシーバは、ナンマトルの完成を待たずして亡くなってしまった。彼の没後、弟のオロショーバは我こそが全ポンペイの王なりと宣言し、シャウテレウルの称号を受けて本島にマトレニーム、ソケース、キチの3州を設定してこれに君臨した。そして王位継承の系統が定められ、16代のシャウテレウルたちが全ポンペイを治め続けた。

 

最後の王、シャウテ・モイの時代、ポンペイの神のナン・シャブエが幽閉され、コスラエに逃げる。悪政を知ったナン・シャブエの息子イショケレケルは打倒シャウテ・モイに立ち上がり、333人の兵士と共にナンマトルに攻め込み、ここにシャウテレウル王朝は滅亡したことが知られている。

 

【シャウテレウル王朝の崩壊後】

勝利したイショケレケルは、ナンマトルと全ポンペイを支配する大酋長となり、ナンマルキと呼ばれました。イショケレケルの死後はカリスマがいなくなった結果、マトレニームの他ウー、キチの2地区にもナンマルキが立ち、さらにドイツ統治時代にソケースとネットの2地区も追加されて、21世紀の現在、ポンペイには5人のナンマルキがいます。

 

しかし、なかでもマトレニームのナンマルキはイショケレケル直系のナンマルキとして一番力が強く、イシバウと尊称されています。「ニンニンナンマルキ」と呼ばれる貝製の、古代から引き継がれた首飾りを付けることができるのも、マトレニームのナンマルキに限られているのです。

 

このように、ナンマトルは代々マトレニームのナンマルキの住居でしたが、200年ほど前からは生活上の不便からか、放棄されて現在に至っています。ただ、ナンマトルはあくまでナンマルキの私有地であるため、現在私たちがここを訪れる際には、かならずナンマルキの代理人宛に直接、入場料を支払わなくてはいけません。

 

【ジュゴンの由来】

大昔のパラオでは、月が不吉な欠けかたをしているときに生まれた子供は必ず不幸をもたらすので、もし万一そんな子供が生まれたときには、事件が起きる前に子供を殺してしまわなければならない、と信じられていました。

 

あるとき、そういう子供が生まれてしまったことがありました。しかしこのとき母親は子供を殺すのをよしとせず、子供を連れて村を立ち去ることにしたのです。村を出た親子を村人は執拗に追いかけ、岸壁まで追い込んでしまいました。母子は迷うことなく海に飛び込み、やがて2人はジュゴンに姿を変えて幸せに暮らしたということです。

 

【ある老婆の願い】

バベルダオプ島に小さな女の子と、その母親が住んでいました。母親はずいぶん年をとっており、 同年代の子供の母親達と並ぶといつも引け目を感じていました。ある日のこと、村の長老から「若返りの泉」の話を聞き、母親は早速その泉を探し当てて飛び込みました。泉から上がると肌も若返り、とても美しい姿に変わっていました。

 

けれども家に帰ってみると、女の子は「こんな人は私の母さんじゃない。母さんはどこにいったの?」 と泣きじゃくったのです。 母親は、てっきり喜んでくれると思った娘が泣くのを見て落胆し、再び泉に入りもとの姿に戻りました。娘は母親が帰ってきたと大喜びし、それ以来、母親は現実をきちんと受け入れるようになった、ということです。

 

【光の鳥】

ンゲサルの村の近くに、夜になると小さな灯りをともすことのできる鳥が住んでいました。たくさんの人々が、暗くなるとこの鳥たちを見ることができました。言い伝えによると、人々がジャングルで道に迷ったときには村までの道案内をしてくれたり、夜に漁に出て沖合でカヌーが転覆したときに浜まで誘導してくれたり、あるいは夕食の後、子ども達が遊びに行くときには道を照らして先導してくれたりしたそうです。

 

【オルレイのふくろう】

オルレイという村に、はじめてふくろうに出会った人々の伝説が残っています。 ある日、1羽のふくろうがやしの木の梢にとまりました。そして、次々とふくろうがやってきました。村人は、はじめて見る奇妙な形をした鳥に驚き、これは悪い前兆ではないかと考えてカヌーで逃げ出しました。沖に出てみると、近在の村のカヌーがいます。彼らも同じことが起きて逃げてきたとのことです。

 

「さてこれからどうしよう。どこに行ったらいいのか」と村人が頭を抱えていたところに、一人の老人がカヌーに乗って現れ「一体何が問題なのか?」と訊ねます。村人が事情を説明すると、老人曰く、「わはははは。それはふくろうじゃ。 そもそもふくろうが現れるというのは吉兆じゃ。」とのこと。みんな安心して村に戻り、以来、村ではふくろうは大切にされたとのことです。

2025/03/18

鑑真

鑑真(がんじん、旧字体:鑑眞、中国語繁字体:鑑真、中国語簡字体:真、Jiàn zhēn688年〈持統天皇2年〉 - 763625日〈天平宝字756日〉)は、奈良時代の帰化僧。日本における律宗の開祖。俗姓は淳于。

 

鑑真と戒律

唐の揚州江陽県の生まれ。14歳で智満について得度し、大雲寺に住む。18歳で道岸から菩薩戒を受け、20歳で長安に入る。翌年、弘景について登壇受具し、律宗・天台宗を学ぶ。律宗とは、仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え研究する宗派であるが、鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者であり、4万人以上の人々に授戒を行ったとされている。揚州の大明寺の住職であった742年、日本から唐に渡った僧・栄叡、普照らから戒律を日本へ伝えるよう懇請された。当時、奈良には私度僧(自分で出家を宣言した僧侶)が多かった。私度僧に対して差別的な勢力が、伝戒師(僧侶に位を与える人)制度を普及させようと画策、聖武天皇に取り入り聖武天皇は適当な僧侶を捜していた。

 

仏教では、新たに僧尼となる者は、戒律を遵守することを誓う。戒律のうち自分で自分に誓うものを「戒」といい、サンガ内での集団の規則を「律」という。戒を誓う為に、10人以上の僧尼の前で儀式(これが授戒である)を行う宗派もある。日本では仏教が伝来した当初は自分で自分に授戒する自誓授戒が盛んであった。しかし、奈良時代に入ると自誓授戒を蔑ろにする者たちが徐々に幅を利かせ、10人以上の僧尼の前で儀式を行う方式の授戒の制度化を主張する声が強まった。栄叡と普照は、授戒できる僧10人を招請するため渡し、戒律の僧として高名だった鑑真のもとを訪れた。

 

栄叡と普照の要請を受けた鑑真は、渡日したい者はいないかと弟子に問いかけたが、危険を冒してまで渡日を希望する者はいなかった。そこで鑑真自ら渡日することを決意し、それを聞いた弟子21人も随行することとなった。その後、日本への渡海を5回にわたり試みたが、ことごとく失敗した。

 

日本への渡海

最初の渡海企図は743年夏のことで、このときは渡海を嫌った弟子が、港の役人へ「日本僧は実は海賊だ」と偽の密告をしたため、日本僧は追放された。鑑真は留め置かれた。

 

2回目の試みは7441月、周到な準備の上で出航したが激しい暴風に遭い、一旦、明州の余姚へ戻らざるを得なくなってしまった。

再度、出航を企てたが、鑑真の渡日を惜しむ者の密告により栄叡が逮捕をされ、3回目も失敗に終わる。

その後、栄叡は病死を装って出獄に成功し、江蘇・浙江からの出航は困難だとして、鑑真一行は福州から出発する計画を立て、福州へ向かった。しかし、この時も鑑真弟子の霊佑が鑑真の安否を気遣って渡航阻止を役人へ訴えた。そのため、官吏に出航を差し止めされ、4回目も失敗する。

 

748年、栄叡が再び大明寺の鑑真を訪れた。懇願すると、鑑真は5回目の渡日を決意する。6月に出航し、舟山諸島で数ヶ月風待ちした後、11月に日本へ向かい出航したが激しい暴風に遭い、14日間の漂流の末、遥か南方の海南島へ漂着した。鑑真は当地の大雲寺に1年滞留し、海南島に数々の医薬の知識を伝えた。そのため、現代でも鑑真を顕彰する遺跡が残されている。

 

751年、鑑真は揚州に戻るため海南島を離れた。その途上、端州の地で栄叡が死去する。動揺した鑑真は広州から天竺へ向かおうとしたが、周囲に慰留された。この揚州までの帰上の間、鑑真は南方の気候や激しい疲労などにより、両眼を失明してしまう。

 

753年、大使・藤原清河らが鑑真のもとに訪れ渡日を約束した。しかし、明州当局の知るところとなり、遣唐大使の藤原清河は鑑真の同乗を拒否した。それを聞いた副使の大伴古麻呂は、大使の藤原清河に内密に第二舟に鑑真を乗船させた。天平勝宝5年11月16日(753.12.15)に四舟が同時に出航する。第一舟と第二舟は12月21日に阿児奈波嶋(沖縄)到着、第三舟はすでに前日20日に到着していた。

 

754年、約半月間、沖縄に滞在する。12月6日(754.1.3)に南風を得て、第一舟・第二舟・第三舟は、同時に沖縄を発して多禰嶋()に向けて就航する。出港直後に大使・藤原清河と阿倍仲麻呂の乗った第一舟は岩に乗り上げ座礁したが、第二舟・第三舟はそのまま日本(多禰嶋)を目指した。七日後(七日去)の、天平勝宝5年12月12日(754.1.9)に屋久島(益救嶋)に到着、鑑真は晴れて日本への渡航に成功した。

 

朝廷や大宰府の受け入れ態勢を待つこと6日後の12月18日に大宰府を目指し出港する。翌19日に遭難するも、20日(754.1.17)に秋目(秋妻屋浦)に漂着。その後12日26日に、大安寺の延慶に迎えられながら大宰府に到着。奈良の朝廷への到着は、翌天平勝宝6年2月4日(754.3.2)である。 (参照『唐大和上東征伝』『続日本紀』)

 

日本での戒律の確立

天平勝宝5年12月26日(754.1.23)大宰府に到着、鑑真は大宰府観世音寺に隣接する戒壇院で初の授戒を行い、天平勝宝6年2月4日に平城京に到着して聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することとなった。4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けた。これが日本の登壇授戒の嚆矢である。併せて、常設の東大寺戒壇院が建立され、その後、天平宝字5年には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていった。

 

758年(天平宝字2年)、淳仁天皇の勅により大和上に任じられ、政治にとらわれる労苦から解放するため僧綱の任が解かれ、自由に戒律を伝えられる配慮がなされた。

 

759年(天平宝字3年)、新田部親王の旧邸宅跡が与えられ唐招提寺を創建し、戒壇を設置した。鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、日本にこれらの知識も伝えた。また、悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ。

 

763年(天平宝字7年)、唐招提寺で死去(遷化)した。76歳。死去を惜しんだ弟子の忍基は鑑真の彫像(脱活乾漆 彩色 麻布を漆で張り合わせて骨格を作る手法 両手先は木彫)を造り、現代まで唐招提寺に伝わっている(国宝唐招提寺鑑真像)が、これが日本最古の肖像彫刻とされている。また、779年(宝亀10年)、淡海三船により鑑真の伝記『唐大和上東征伝』が記され、鑑真の事績を知る貴重な史料となっている。

2025/03/17

イスラーム哲学(1)

イスラーム哲学(英語: Islamic philosophy)は、哲学の中でもイスラム文化圏を中心に発達した哲学である。アラビア哲学とも言われる。

 

起源

イスラムにおける「哲学」の始まりを広く定義すれば、イスラム教が成立した時点と捉えることも可能であろう。イスラムの教えもそもそも「哲学的」であるし、クルアーンの解釈をめぐる論争・カリフの後継者争い(シーア派とスンナ派)の対立などは代表的)など、広い意味での「哲学的」な論争はイスラム教成立当初から続いていたことであるが、ギリシア哲学がイスラム世界に移入されたのをもって、独立したひとつの学問としての「イスラーム哲学」を始原とみるのが通常である。(本項ではこれを述べる)

 

イスラム世界にギリシア哲学が伝わったのは、シリアを介してであった。イスラーム哲学は、ファルサファ(falsafah)と呼ばれた。これは、アラビア語ではなくギリシア語(φιλοσοφια)に由来するもので、英語などで哲学を意味するphilosophyと同語源である。しかし、ファルサファと呼ばれるイスラーム哲学は、当時としてはそのような学問としての認識や名称は、存在していなかった。これは後世の哲学史研究によって、その存在が初めて認められたという特徴のものであった。

 

特徴

古代ギリシャ哲学や近代の西洋哲学と比して、宗教(イスラム教)と密接に関わっているのが特徴である。起源は、アラビア語への翻訳を通じて移入された、新プラトン主義的な変容をうけたアリストテレスの古代ギリシア哲学であった。異文化に源する考え方であったゆえ、コーランに基づく唯一神アッラーフの教えとの齟齬は避けられず、11世紀頃まではイスラム神学(カラーム)と対立することも珍しくなかった。

 

11世紀から14世紀頃は、イスラム哲学の全盛期だとされる。中世後期から近代までの間のヨーロッパ哲学史を考える上においても、イスラーム哲学による影響は無視できない。影響の大きさの評価は諸説があるが、少なくともアリストテレス主義の導入の初期においては、アヴィセンナの独創的な著作『治癒』のラテン語訳などからであり、また中世の後半期を通じてラテン・アヴェロエス主義の影響は小さくなかった。

 

かつては翻訳活動に端を発し、アヴィセンナを経てアヴェロエスでもってイスラーム哲学(ファルサファ)は終わりであるという見方がされたが、現在ではピークをそれ以降におく見方が主流である。現在は、近代化と共に西洋の哲学も移入されて研究されている。イランにおいては、今でもイスラーム哲学が盛んに研究されている。

 

イスラーム哲学の萌芽

イスラム世界へのギリシア文化の移入(翻訳時代)

7世紀にイスラム世界が成立すると、ムハンマドの死後、正統カリフ時代を経て、アラブ人至上主義を取っていたウマイヤ朝が750年に滅んだ後、アッバース朝が成立した。アッバース朝は、非アラブ系であったペルシア人からの支持もあって、アラブ人以外のムスリムたちにも道を開いた世界帝国へと変わっていった。この支配下には、ペルシアやエジプトといったギリシア文化の影響が色濃く残っている地域も含まれており、そこには哲学をはじめとする医学・数学・天文学などの諸学問が、ギリシア時代のものからエジプトやシリアなどの東地中海沿岸の各地に残っていた。アッバース朝は、バグダードにシリア人学者を招いて、シリア語のギリシア文献をアラビア語に翻訳させた。イスラーム哲学の起源のひとつとして、アラビア語への翻訳活動があるというのは、見逃せない事である。

 

哲学に関していえば、キリスト教とギリシア哲学の対峙において、反駁のため、あるいは哲学的方法によるキリスト教の思想的展開を探るため、ギリシア哲学の接受が行われた。シリアのキリスト教徒は、神学に正当性を持たせるため哲学的な方法を用いていたので、アッバース朝の支配下にあっても哲学の文献が残っており、イスラム教徒たちも利用することができた。

 

5世紀から10世紀にかけて、シリアのキリスト教徒はアリストテレスの文献、ポリュフュリオス、偽ディオニュシオス・ホ・アレオパギテースの著作をギリシア語からシリア語に翻訳した。これは主にエデッサのネストリウス派、またレサイナとカルキスの非カルケドン派に担われた。

2025/03/13

アッバース朝(10)

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アッバース朝

 預言者ムハンマドの近親者で、アブル=アッバースという男がいた。この人はムハンマドの叔父さんの家系で、イスラム教の指導者層の一人なわけだ。だから、自分もカリフになる資格があると思っていて、機会を狙っていた。

 かれはイラン人シーア派の反ウマイヤ運動を利用して反乱を起こし、ウマイヤ朝を倒すのに成功した(750)。この新王朝をアッバース朝という。首都はバグダードです。

 

 アッバース朝は、アラブ人至上主義を批判する勢力の協力で建てられたので、民族差別をやめる。すべてイスラム教徒は同じ扱いにします。

 

 具体的にはアラブ人の特権を廃止して、それまで払わなくてもよかった土地税を課税する。政府の要職にイラン人を登用する。イラン人とはペルシア人のことです。かれらはアケメネス朝、ササン朝という大帝国を作ってきた民族でしょ。行政手腕を含めて、非常に高い文化を持っているわけです。

 かれらイラン人の力も加わってアッバース朝は中央集権化、官僚制度の整備をおこなっていきました。

 

 アラブ帝国と呼ばれたウマイヤ朝と対比して、アッバース朝のことをイスラム帝国ということもあります。アラブ人の国からイスラム教徒の国になったというニュアンスです。

 正統カリフ時代、ウマイヤ朝と発展してきたイスラムの総まとめの国です。アッバース朝以後、現代までイスラムの国は無数にあるのですが、イスラム世界がほぼ一つにまとまっていた最後の時代です。

 アッバース朝以後、イスラム世界は政治的に多様化していくのです。

 ムハンマドが無くなって百数十年、ムハンマドを直接知る人はいなくなったけれど、イスラム共同体=ウンマの理念が実体として感じられた最後の時代だと思います。

 

 最盛期は8世紀後半、第五代カリフ、ハールーン=アッラシードの時代です。

 アッバース朝は10世紀以降は衰退して、名目だけの存在になるのですがアッバース朝のカリフは、宗教的な権威としてイスラム教徒の中で特別な存在でありつづけるのです。

 

 首都バグダードを建設したのは第二代カリフ、マンスール。

 バグダードには「知恵の館」という総合学術機関が作られて、イスラム世界の学問芸術の中心となった。

 対外関係として751年のタラス河畔の戦い。中央アジアでアッバース朝が唐の軍隊を破った。この時の中国人捕虜から製紙法が西アジアに伝わった。

 

 アッバース朝は軍事力として、中央アジアのトルコ系遊牧民を導入した。かれらは騎馬戦術に優れていて兵士として有能だったのですね。

 8世紀くらいから中国でもトルコ系軍人は大活躍で、安史の乱の安禄山もトルコ系ですし、それを鎮圧したウイグル人もトルコ系、五代十国時代の皇帝や軍人の中にもトルコ系の人がかなりいる。

 

 アッバース朝は奴隷としてトルコ系遊牧民を買って軍人としました。この、奴隷軍人のことをマムルークという。身分は奴隷ですが、功績があれば富も軍人としての地位も手に入れることができる。古代ローマの奴隷のように、鞭でびしびし打たれている人たちではありません。

 これ以降、マムルークはイスラムの歴史の中でどんどん活躍する。

 

 アッバース朝は領土が広すぎたので、10世紀以降は地方の総督、軍人や周辺民族などが自立して王朝としての実体はなくなっていきますが、宗教的権威だけで生き延びる。このアッバース朝を最終的に滅ぼすのが、カリフの宗教的権威に全然無頓着なモンゴルのフラグでした(1258)。

2025/03/11

ミクロネシアの神話伝説(5)

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【ギルバート諸島(キリバス)】

昔、世界に「テ・ボマテマキ」と呼ばれる闇しかなかった頃、創造主であり蜘蛛の神でもあるナレアウが水と土をこね合わせてナ・アチブという最初の半神と、ネイ・テウケという最初の人間を創り出しました。面白いのは、ネイ・テウケという「人間の祖先」が、鮹の神とか波の神とか海蛇の神などの神を創り出したそうです。

 

また創造主ナレアウは、原初の木から花を摘み、その花びらをサモアの北の海に撒いたところ、花びらからタラワ島、ベル島、タビテウエア島など、ギルバートの島々ができあがった、という伝説もあります。

 

【グアム】

かつて世界は水しかなく、その中を巨人プンタンと、妹のフウナが歩き回っていました。ある日のこと、プンタンは自分の死後のことについて、フウナに次のような遺言を残しておくことにしました。

 

自分の2つの目をそれぞれ太陽と月にすること、眉で虹を作ること、背中で空を、からだでグアムの島を作ること、そして砂利から人間を作ること。

フウナは忠実に言いつけを守り、グアムの赤い土を海の水と混ぜて大きな岩も作りました。

その岩を小さな石と砂利に割り、その砂利がグアムの人々になったということです。

 

【マーシャル諸島】

その昔、最初の人間ウエリップは、妻と共に「ウプ島」というところに住んでいました。ある日、彼の頭に木が生えてきて、彼の頭に大きな裂け目ができました。その裂け目から生まれてきたのがエタオとジェメリウットの兄弟です。ある日、エタオは父親と喧嘩してしまい、大きな袋に土を詰めて外界に向けて家出します。ところが、この袋には穴が空いていて、土がいろんなところでこぼれた結果、今のマーシャル諸島の島々ができあがった、ということです。

 

【クワジェリン環礁(マーシャル諸島)】

現在のクワジェリン環礁は、世界最大の環礁と呼ばれるように、大小97の島々が300kmにも及ぶ巨大な環礁をかたちづくっています。ところが大昔、この環礁はもっと小さく、島々は互いに相手の島が見えるくらい近くにあったそうです。

 

ある日のこと、クワジェリンに絶世の美女「リエン」が、どこからともなく現れました。それぞれの島の領主達は、我こそがリエンの心を射止めようとやっきになりましたが、またある日、彼女は忽然と姿を消してしまいます。

 

彼女を巡る戦いに疲れ果てていた領主達は話し合い、今度彼女がどこかの島に現れたとしても、互いに見えないくらいに離れた場所にいれば、それに気がつくこともないし争いが起こることもないだろう、と衆議一決します。その結果、それぞれの島は、お互いに思い思いの方向に離れていくことになり、現在の環礁の姿になったのだということです。

 

ミクロネシア各地には、恋人達にまつわる伝説が多く残っています。ここでとりあげるのは、パラウで広く伝えられる、ひょっとするとどこかで聞いたような話ですが、こういったモチーフは世界共通なのかもしれません。

 

昔、パラウにオレングという美しい娘が住んでいました。彼女の家は貧しくて、母親は常々、オレングを金持ちと結婚させて、楽な暮らしをしたいと考えていました。彼女には、ウギラマリアという恋人がいました。彼もまた、亀を捕ってべっこうの加工で生計を立てる、という貧しい暮らしでしたが、ハンサムで優しい若者でした。彼は、いつの日にか正式に彼女に結婚を申し込みたいと思い、一生懸命働いていました。

 

そんなある日、ゴシレクという極めて羽振りの良い男が、オレングの住む村にやってきます。彼はカヌーの船団を所有する酋長で、財産だけは人一倍持っていたのですが、たいへん醜い顔をしていたために、中年を過ぎてもまだ独身でした。

 

彼はたまたま漁の帰りに村に立ち寄っただけでしたが、話をききつけたオレングの母親が早速彼に娘を紹介します。ゴシレクは美しいオレングを見て一目惚れ。2人の結婚の話は、オレングを抜きにしてトントン拍子に進みます。

 

オレングは母親に

「私は愛し合って結婚したい。あんな醜い年寄りと結婚するのは嫌!」

と懇願しますが

「何をばかなことを言ってるの。私らのような貧しい女は愛で結婚するもんじゃないよ」

と、全く取り合ってくれません。

オレングは、ウギラマリアに相談しに行きました。彼は「僕にもっと年齢と財産があれば」と、悲しみに暮れますが、何も打つ手が見つからず、結局オレングは父親ほども年の離れたゴシレクと結婚することになってしまいました。

 

盛大な宴会も終わり、ゴシレクは花嫁を自宅に連れて帰ります。しかし、オレングは実家の村のほうを見やって、ため息をつきながら日に日にやせ細っていきます。ゴシレクは、また優しい男でしたので、彼女がホームシックにかかっているのだと気遣って「1回実家に戻ってみるかい?」と声をかけます。

 

オレングは、ゴシレクには悪いと思いながらも、実家のある村に戻るやいなや、こっそりとウギラマリアに会いに行きますが、2人の逢い引きはこれといって打開策のない悲しいものでした。彼女は再びゴシレクの家に戻り、ウギラマリアが漁に出ているはずの海を見ながら暮らしていました。

 

ある日、彼女はウギラマリアに何か贈りたいと思いつき、日頃つけていたココナツオイルをココナツの殻に詰め、ウギラマリアに届くよう祈って海に流します。ココナツは、ほどなくして亀を捕っていたウギラマリアのところに届きました。彼は、実は死にもの狂いで働くことで彼女のことを忘れようとしていたのですが、ココナツを手に取るやその場で倒れてしまい、病の床についてしまいました。

 

オレングはもう一度実家に戻らせてくれないか、とゴシレクに頼みます。ゴシレクは可愛い花嫁のためならと快諾し、従者をつけて送り出しました。その途上、ウギラマリアがとうとう死んでしまった、というニュースが彼女の元に届きます。彼女は、従者に「私を1人でウギラマリアのところに行かせてほしい」と頼み、みんなを戻らせました。従者から「ウギラマリア」という名前を聞いたゴシレクは「親族の誰かだったかな」と、あまり深く考えず、ウギラマリアの家宛に、盛大な葬式の贈り物を届けようとさえします。

 

オレングは青白い顔をしながらも、身体を清め精一杯の化粧をし、精一杯のおしゃれをしてウギラマリアの実家を訪ねます。そこでは多くの弔問客が、食べ物を供えたり悲しみの歌を歌ったりしていましたが、オレングは飲まず、食べず、歌わず、死に花に埋もれた彼の側をかたときも離れようとはしませんでした。

 

やがて弔問の期間も終わり、遺体にカバーがかけられるときになって、オレングは突然「私も一緒に埋葬して!」と彼の身体に重なるように身体を投げ出し、そこで息絶えてしまったのです。

 

その直後、ゴシレクからの贈答品を持った従者が来訪し、一切のできごとが知れてしまいました。従者は大急ぎでゴシレクのもとに帰り、これまたオレングの帰りを楽しみに、崖に立って海のほうを眺めていたゴシレクのところに走ります。

「えらく早かったじゃないか、どうしたんだ?」

「実は、美しい奥様がお亡くなりになったのです。それに・・・・」

ゴシレクは、大変な衝撃を受けました。彼は、彼なりにオレングのことを深く愛していたのです。彼は、あまりの悲しみに、そのまま崖から身を投げてしまいました。

 

オレングは、愛する人と自分自身のために、べっこう細工のイヤリングを作っていました。彼女のは半月形、彼のは盾の形をしたものです。パラウの恋人達のあいだでは、このべっこう細工のイヤリングの交換と共に、オレングとウギラマリアとゴシレクの物語を歌った歌が、長い間歌い継がれてきたということです。

2025/03/07

アッバース朝(9)

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概要

西暦750年から1258年ごろまで存在したとされる国家。ムハンマドの親族としてカリフとなったアッバース家の当主が、中東諸地域を統治したもの。つまり宗教上の教主と世俗の帝王が同一人物である教団国家である。先代のウマイヤ朝が、アラブ人の特権を前提に成立したのでアラブ帝国とも呼ばれるのに対し、イスラム教徒は平等であることを謳ったのでイスラム帝国とも呼ばれる。最大領土は現在の西アジア、北アフリカ、西南ヨーロッパにまで及んだ。

 

歴史

イスラム教の開祖、ムハンマドが西暦632年に世を去ったのち、イスラム教団ではカリフという代理人を置くことになった。カリフは預言者ムハンマドの代理人として行政を統括し、イスラム法学者(ウラマー)たちが、合議によって定めた教義を信者に順守させる権限を持つ。4代に渡って、このカリフがイスラム教団を治めて、これを正統カリフ時代とも呼ぶ。だが、暗殺された第3代ウスマーンの親族であったウマイヤ家が、第4代アリーを暗殺の黒幕とみなして戦いを挑み、ついには660年に自らカリフを称した。これがウマイヤ朝である。アリーはほどなく暗殺され、ウマイヤ朝がイスラム教団を率いるカリフとなった。しかし、このカリフ選出には異論が多かった。アリーの支持者はシーア派と呼ばれてウマイヤ朝と戦いを続け、またアラブ人としての特権を持たないイスラム教徒の反乱も起こった。

 

アッバース家のサッファーフはムハンマドの親族の血筋であり、749年にもろもろの反乱勢力を統合してカリフと認められ、ウマイヤ朝に挑む。この勢力統合には、非アラブ人のイスラム教徒であって、大きな勢力を有するペルシア人の協力が必須であり、アラブ人への年金停止と非アラブ人だけに課せられた人頭税の廃止が行われ、イスラム教徒間の平等が確保された。サッファーフは、750年のザーブ河畔の戦いでウマイヤ朝の軍勢を壊滅させ、ウマイヤ朝の首都ダマスカスを占領して、ウマイヤ家をほぼ皆殺しにした。ただし、残党の一部はスペインに逃れて、後ウマイヤ朝を創始した。

 

後ウマイヤ朝はアミール(総督)と名乗り、アッバース朝の権威は認めずカリフは空位と主張した。また、ウマイヤ朝滅亡後は、シーア派は厳しく弾圧されることになった。第2代カリフのマンスールは首都としてバグダッドを建設し、第5代ハールーン・アッ=ラシードの時代に全盛期を迎えた。バグダッドは、人口150万人ともいう世界最大の都市となり、全ユーラシア経済の中枢ともなった。この当時に、アラビア・ペルシャ各地の伝承がまとめられて生まれた説話集が、『アラビアンナイト(千夜一夜物語)』である。

 

ハールーン・アッ=ラシードの死後は、カリフ位をめぐる後継者争いが深刻化し、地方の武将が自立して独立王権を築くようになって、アッバース朝の領域は縮小していく。909年にはチュニジアにシーア派のファーティマ朝が建国され、アリーの子孫としてカリフを名乗った上でエジプトにまで領土を広げた。929年には、後ウマイヤ朝もカリフを称した為、アッバース朝カリフの権威は大きく損なわれた。さらに945年に、シーア派のブワイフ朝がバグダッドを占拠して世俗上の支配権を奪い、カリフには宗教的な権限しかなくなってしまった。

 

アッバース朝カリフはセルジューク朝を利用してブワイフ朝を追い、さらにセルジューク朝やホラズムといった諸勢力とあるいは同盟して軍事力を利用し、あるいは対立して政治的支配権を取り戻そうと争う。1171年にファーティマ朝が断絶すると、その遺領を支配したアイユーブ朝のサラディンは、アッバース朝カリフの権威を認めると宣言した。しかし、それで失われた権威が取り戻されたわけではない。

 

アッバース朝の最期は1258年、モンゴル帝国のバグダッド征服による。アッバース家はほぼ皆殺しとなり、滅亡した。だがその親族がエジプトに逃れて、マムルーク朝のバイバルスによってカリフとして遇された。1517年、オスマン帝国に滅ぼされるまで、エジプトに名目上のカリフが存在し続けることとなった。

 

文化

イラン東部は正式な建国前の747年には、アッバース家側の総督が制圧していた。その部下、ズィヤード・イブン・サーリフは751年、唐の将軍高仙芝とタラス川の岸辺で戦った。当時の東西大国の決戦であり、これをタラス河畔の戦いと呼ぶ。戦はアッバース朝の勝利となり、西域のイスラム化が進んでいく。同時に唐軍の捕虜によって製紙法がイスラムに伝わり、後に欧州にも伝播して印刷技術発展の礎ともなった。

 

7代カリフのマアムーンは、「知恵の館」という図書館を建設してギリシャ語の科学文献を大量にアラビア語に翻訳させた。以後、アラビア人において科学研究が盛んになった。例えばアラビア数字は現代まで使われている数字記法となり、医学では患者の状態をよく観察し衛生や薬の処方を行う実践的な医術が発展した。イブン・アル=ハイサムは眼の機能を調べ、光を集めることでモノが見えるという原理を発見した。他に光が屈折することも発見し、「光学の父」と讃えられる。またイブン・アル=ハイサムが行った科学的な実験の方法は、のちの世界各国の科学者たちに大きな影響を与える。

2025/03/03

アッバース朝(8)

イスラームは9-10世紀に、法の体系化に伴いアッバース朝の支配領域の多様な文化、人種、生活習慣を飲み込む枠組みとして機能するようになった。住民の改宗・イスラーム化も進行したが、他方で改宗しない住民もイスラームの枠組みに沿った文化、社会を構築するように変容していった。「サービア教徒」もその後、魔術書を啓典とし、ヘルメスを預言者イドリースあるいはウフノフと同一視することで預言者を持ち、至高神として第一原因を観念するといった一神教化を遂げる。同時期に形成されつつあったイスマーイール派シーアは循環的歴史観を基本的理念のひとつとし、この点で占星術におけるヘルメス思想と共通する。

 

アッバース朝初期に頻発したシーア派の反乱のリーダーは、主にカイサーン派とザイド派のイマームであり、政治的静謐主義を貫いてマディーナで学究の日々を送ったフサイン家のムハンマド・バーキルとジャアファル・サーディクの支持者は当時、必ずしも多くなかったようである。しかし、イスマーイール派と十二イマーム派という、のちのシーア派の二大分派は、彼らの信奉者、イマーム派のなかから生まれた。

 

イマームがそなえるべき資質に関して、不正義に対して立ち上がる勇気や行動というものを重視したザイド派に対し、イマーム派は知識を重視した。バーキルとジャアファルの信奉者のなかには、イマームは全知の存在であると主張する者すらもいた。ジャアファル・サーディクは錬金術の分野でよく言及される名であり、イブン・ナディームによるとジャービル・イブン・ハイヤーンに隠された知の一部を教えたという。

 

5代カリフ、ハールーン・アッ=ラシードに仕えたジャービル・イブン=ハイヤーンは、近代化学の基礎を築いた人物である。彼は塩酸、硝酸、硫酸の精製と結晶化法を発明し、金を溶かすことができる王水を発明した。また、彼はクエン酸、酢酸、酒石酸の発見者であるとされる。アルカリの概念も彼が生み出した。

 

7代カリフ、マアムーンに仕えたフワーリズミーは、インドとギリシアの数学を総合して代数学を確立したことで知られ、アルゴリズムの語源となった人物である。

 

アルフラガヌスは、第7代カリフ・マアムーンが組織した科学者チームの一員として、地球の直径の測定に参加した。また、水位計測器ナイロメーターの建設に関わった。

 

知恵の館の主任翻訳官を務めたフナイン・イブン・イスハークは、プラトンの『国家論』やアリストテレスの『形而上学』、クラウディオス・プトレマイオスの『アルマゲスト』、ヒポクラテスやガレノスの医学書を翻訳した。

 

サービト・イブン=クッラは、ペルガのアポロニウス、アルキメデス、エウクレイデス、クラウディオス・プトレマイオスの著書を訳した。また、友愛数の発見者とされる。

 

シリアで活躍したバッターニーは球面幾何学、黄道傾斜角を発見した。月のクレーターなど多くの事物にバッターニーの名が残されている。

 

アル・ラーズィーは実用医学の基礎をつくった人物であり、エタノールを発見し、医療用のためにエタノールの精製も行った。コーヒーに関する最古の記録を残したことでも知られる。

 

イスラム神学 

初期アッバース朝時代に、公認の教義とされたイスラム神学にムータジラ学派がある。ギリシア哲学の影響を強く受けたムータジラ学派は、合理主義的な解釈に特徴がある。マアムーンはムータジラ派を公認とし、それ以外の宗派を弾圧するが、合理主義的過ぎるが故に人々には受け入れられず、廃れてしまった。

 

文学

アラビア語で書かれた千夜一夜物語

様々なジャンルの物語を集めた千夜一夜物語はカイロで完成されたが、その原型はバグダードで作られたといわれる。8世紀から9世紀のバグダードの繁栄ぶりと、バグダードに連なるネットワーク上で活躍した人々の姿を彷彿とさせる内容である。『ハールーン・アッ=ラシードの御名と光栄とが、中央アジアの丘々から北欧の森の奥まで、またマグレブからアンダルス、シナや韃靼の辺境にいたるまで鳴り渡った』と語られているように、ハールーン・アッ=ラシードの時代の物語というかたちになっている。

 

この物語の国際性は、帝国内各地の物語が寄せ集められたことによる。語り手のシェヘラザードはペルシア系、アリババがアラブ系、シンドバードがインド系の名前であるが、ルーミーというギリシア人、ファランジーというヨーロッパ人、ハバシーというエチオピア人、アフリカの黒人も登場する。

 

千夜一夜物語には、ユーラシアの大ネットワーク上で活躍する商人の話が多い。バスラから荒海に乗り出した船乗りシンドバードの話は有名であり、後のロビンソン・クルーソーの冒険、ガリバー旅行記などのモデルになっている。その話はアフリカ東岸、インド、東南アジア、中国への海路を開拓した勇敢な航海士、商人たちの苦難に満ちた航海が反映されている。

 

10世紀には、多くの文芸作品が生まれた。サアーリビーは、同時代の優れた詩人たちとその詩風を『ヤティーマ・アッ・ダフル』で紹介している。タヌーヒーは、バグダードを中心にみずからが見聞した説話を『座談の糧』にまとめた。また、豊富な説話はマカーマという文学ジャンルも生みだした。その才能から「バディー・ウッ・ザマーン」(時代の驚異)とも評されたアル・ハマザーニーがマカーマを創始し、アル・ハリーリーが大成した。百科全書的な書籍としては、アブル・ファラジュによるアラブ音楽についての大著『歌の書』があげられる。これらは、当時の社会や文化を伝える資料としても貴重な価値をもっている。

 

イスラム文明とヨーロッパ

アッバース朝では多くの物や情報が行き交い、物産の交流と共に文明の交流が進んだ。諸地域の文化、文明を差別なく取り入れたムスリムは、ユーラシア・アフリカ両大陸にわたるこれまでに見ないほど広範囲な世界文明を作り出した。そうした世界文明の痕跡は、アラビア語の広がりからうかがい知ることが出来る。イスラム文明の一部は貿易や戦争によってヨーロッパに輸入し、後の産業革命を間接的に花開かせた。