教皇からの帝冠
教皇レオ3世は、800年のクリスマスにカール大帝にローマ皇帝としての帝冠を授け、西ローマ帝国の地に「ローマ皇帝」が復活した。ローマ教皇との結びつきが強くになるにつれ、帝権は神の恩寵によるものという観念が強まり、宗教的権威を持つようになった。
教皇レオ3世のカール大帝への外交文書は東ローマ皇帝への書式に従い、教皇文書はカールの帝位在位年を紀年とするようになった。カール大帝は、教会や修道院を厚く保護する一方、このような聖界領主から軍事力を供出させた。司教が世俗の仕事に関わる典拠とされたのは『旧約聖書』「サムエル記」であった。サムエルは人民を裁き、人民の罪を贖うために犠牲を捧げ、戦争においては従軍し、国王に塗油の儀式を行った。一方で『新約聖書』において、パウロは「主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました」(新共同訳、「コリントの信徒への手紙
一」9.14)と述べていた。
当時の聖職者の中には、この言葉は司教が世俗の職務に関わるべきではないことを述べていると考えた者もいた。そのためカール大帝は、この問題を教会会議に諮り、司教が世俗の義務を引き受けるべきであるという決定を得た。世俗の領主と違って、聖界領主は世襲される心配がなかったからである。
またカール大帝は伯の地方行政を監察し、中央の権力を地方に浸透させるために国王巡察使を設けたが、これは一つの巡察管区に聖俗各1名の巡察使を置くものであった。カール大帝の「帝国」はさまざまな民族を包含し、さらにそれらの民族それぞれが独自の部族法を持っている多元的な世界であったが、キリスト教信仰とその教会組織をよりどころとして、カロリング家の帝権がそれらを覆い、緩やかな統合を実現していた。君主のキリスト教化と教会組織の国家的役割の増大は、カロリング朝の帝国を1つの普遍的な「教会」、「神の国」としているかのようであった。
分割
広大な帝国は、カール大帝自身の個人的な資質に支えられるところも大きく、またフランク人の伝統に従って分割される危険をはらんでいた。すなわちフランク王国では、兄弟間による分割相続が慣習となり強固な法意識となっていたので、806年カール大帝は「王国分割令」を発布し、長子カールにアーヘンなど帝国中枢であるフランキアの、ピピンにイタリアの、ルートヴィヒにアキテーヌの支配権を確認し、帝権と王権をカール大帝が掌握するという形式をとった。その後カールとピピンは早逝し、813年東ローマ皇帝がカールの帝権に承認を与えてのち、ルートヴィヒを共治帝とした。
ヴェルダン条約によるフランク王国の分割
西フランク王シャルル2世・・・アキテーヌ|ガスコーニュ|ラングドック|ブルゴーニュ|イスパニア辺境
中フランク王ロタール1世・・・ロレーヌ|イタリア|ブルゴーニュ|アルザス|ロンバルディア|プロヴァンス|ネーデルランデン|コルシカ
東フランク王ルートヴィヒ2世・・・ザクセン|フランケン|テューリンゲン|バイエルン|ケルンテン|シュヴァーベン
3分割
814年カール大帝が亡くなると、ルートヴィヒ1世は帝位と王権を継承した。817年に「帝国整序令」を出して長子ロタール1世を共治帝とし、次子ピピンにアキテーヌの、末子ルートヴィヒ2世にバイエルンの支配権を確認した。この時点では、ロタール1世にイタリアの支配権も認められており、彼は後継者として尊重されていた。
しかしシャルル2世が生まれると、ルートヴィヒ1世はこの末子のために829年フリースラント・ブルグント・エルザス・アレマニアに及ぶ広大な領土を与えることとし、長兄であるロタール1世もこれを承認した。内心これを不満に思っていたロタール1世は830年反乱し、ルートヴィヒ1世を退位させて単独帝となったが、ピピンとルートヴィヒ2世がこれに対抗してルートヴィヒ1世を復位させた。その後、840年のルートヴィヒ1世の死後も兄弟たちは激しい抗争を繰り広げた。
841年、ロタール1世とシャルル2世、ルートヴィヒ2世はオセール近郊で戦い(フォントノワの戦い)、ロタール1世は敗北し、842年兄弟は平和協定を結び、帝国分割で合意することとなった。843年ヴェルダンで最終的な分割が決定され、帝国はほぼ均等に三分(西フランス王国、中フランス王国、東フランス王国)されることとなった(ヴェルダン条約)。
4王国
帝権は中フランス王国のロタール1世が保持し、さらに850年ロタール1世は子息ロドヴィコ2世にローマで戴冠させることに成功した。ロタール1世は855年、帝位とイタリア王国をロドヴィコ2世に、次子ロタール2世にロートリンゲン、三男のシャルルにブルグントの南部とプロヴァンスの支配を認めた。863年にプロヴァンス王・シャルルが死ぬと、遺領はルートヴィヒ2世とロタール2世の間で分割され、帝国はイタリア・東フランク・西フランク・ロートリンゲンの4王国で構成されることとなった。
869年にロタール2世も没すると、西フランク王シャルル2世がロートリンゲンを継承したが、翌870年東フランク王ルートヴィヒ2世がこれに異を唱え、両者はメルセンで条約を結び、ロートリンゲンを分割した(メルセン条約)。
西フランク王シャルル2世は875年のロドヴィコ2世の死後、イタリア王国と帝位を確保した。876年の東フランク王ルートヴィヒ2世の死に際して、シャルル2世は東フランクにも支配権を及ぼそうとしたが、アンデルナハ近郊でルートヴィヒ2世の息子たちと戦って敗れ、翌877年失意のうちに没した。
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