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アッバース朝
預言者ムハンマドの近親者で、アブル=アッバースという男がいた。この人はムハンマドの叔父さんの家系で、イスラム教の指導者層の一人なわけだ。だから、自分もカリフになる資格があると思っていて、機会を狙っていた。
かれはイラン人シーア派の反ウマイヤ運動を利用して反乱を起こし、ウマイヤ朝を倒すのに成功した(750)。この新王朝をアッバース朝という。首都はバグダードです。
アッバース朝は、アラブ人至上主義を批判する勢力の協力で建てられたので、民族差別をやめる。すべてイスラム教徒は同じ扱いにします。
具体的にはアラブ人の特権を廃止して、それまで払わなくてもよかった土地税を課税する。政府の要職にイラン人を登用する。イラン人とはペルシア人のことです。かれらはアケメネス朝、ササン朝という大帝国を作ってきた民族でしょ。行政手腕を含めて、非常に高い文化を持っているわけです。
かれらイラン人の力も加わってアッバース朝は中央集権化、官僚制度の整備をおこなっていきました。
アラブ帝国と呼ばれたウマイヤ朝と対比して、アッバース朝のことをイスラム帝国ということもあります。アラブ人の国からイスラム教徒の国になったというニュアンスです。
正統カリフ時代、ウマイヤ朝と発展してきたイスラムの総まとめの国です。アッバース朝以後、現代までイスラムの国は無数にあるのですが、イスラム世界がほぼ一つにまとまっていた最後の時代です。
アッバース朝以後、イスラム世界は政治的に多様化していくのです。
ムハンマドが無くなって百数十年、ムハンマドを直接知る人はいなくなったけれど、イスラム共同体=ウンマの理念が実体として感じられた最後の時代だと思います。
最盛期は8世紀後半、第五代カリフ、ハールーン=アッラシードの時代です。
アッバース朝は10世紀以降は衰退して、名目だけの存在になるのですがアッバース朝のカリフは、宗教的な権威としてイスラム教徒の中で特別な存在でありつづけるのです。
首都バグダードを建設したのは第二代カリフ、マンスール。
バグダードには「知恵の館」という総合学術機関が作られて、イスラム世界の学問芸術の中心となった。
対外関係として751年のタラス河畔の戦い。中央アジアでアッバース朝が唐の軍隊を破った。この時の中国人捕虜から製紙法が西アジアに伝わった。
アッバース朝は軍事力として、中央アジアのトルコ系遊牧民を導入した。かれらは騎馬戦術に優れていて兵士として有能だったのですね。
8世紀くらいから中国でもトルコ系軍人は大活躍で、安史の乱の安禄山もトルコ系ですし、それを鎮圧したウイグル人もトルコ系、五代十国時代の皇帝や軍人の中にもトルコ系の人がかなりいる。
アッバース朝は奴隷としてトルコ系遊牧民を買って軍人としました。この、奴隷軍人のことをマムルークという。身分は奴隷ですが、功績があれば富も軍人としての地位も手に入れることができる。古代ローマの奴隷のように、鞭でびしびし打たれている人たちではありません。
これ以降、マムルークはイスラムの歴史の中でどんどん活躍する。
アッバース朝は領土が広すぎたので、10世紀以降は地方の総督、軍人や周辺民族などが自立して王朝としての実体はなくなっていきますが、宗教的権威だけで生き延びる。このアッバース朝を最終的に滅ぼすのが、カリフの宗教的権威に全然無頓着なモンゴルのフラグでした(1258)。
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