カロリング朝(独: Karolinger、仏: Carolingiens)は、メロヴィング朝に次ぐフランク王国2番目の王朝。宮宰ピピン3世がメロヴィング朝を倒して開いた。名称は同家で最も著名なカール大帝(ピピン3世の子)にちなむ。なお、「カロリング」は姓ではなく「カールの」という意味である。当時のフランク人には姓はなかった。
フランク族のカロリング家は代々フランク王国のメロヴィング朝に仕え、宮宰(宰相)を輩出してきた家系であった。はじめ、ピピン1世(大ピピン)はフランク王国の分国(アウストラシア)の宮宰であったが、ピピン2世(中ピピン)においてはフランク王国全体の宮宰を務め、ピピン3世(小ピピン)に至っては、遂にメロヴィング朝を廃しカロリング朝を開いた。
751年から987年まで、フランク王国やそれが分裂した後の東フランク王国・西フランク王国・中フランク王国の王を輩出した。987年、西フランク王国の王家断絶をもって消滅した。
ピピン3世の子カール大帝の時代には、その版図はイベリア半島とブリテン島を除く今日の西ヨーロッパのほぼ全体を占めるに至った。ローマ教皇はカール大帝に帝冠を授け、西ヨーロッパに東ローマ帝国から独立した新しいカトリックの帝国を築いた。カール大帝の帝国は、現実的には後継者ルートヴィヒ1世の死後3つに分割され、今日のイタリア・フランス・ドイツのもととなったが、理念上は中世を通じて西ヨーロッパ世界全体を覆っているものと観念されていた。
歴史
フランク王国では、7世紀半ばになると各分王国で豪族が台頭し、メロヴィング家の王権は著しく衰退した。このような中、アウストラシアの宮宰を世襲していたカロリング家は、ピピン2世の時代に全分王国の宮宰を占め、王家を超える権力を持つようになった。
ピピン2世の子カール・マルテルはイベリア半島から侵入してきたイスラム教徒を撃退し、カロリング家の声望を高めた。
つづくピピン3世は、ローマ教皇の承認のもとで王位を簒奪し、カロリング朝を開いた。
メロヴィング王権の衰退
パリ勅令で各分王国での宮宰の影響力が増大したことは、ただちにメロヴィング王権の衰退に結びついたわけではなかった。宮宰は一面では豪族支配を統制し、王権の擁護者として振る舞った。ネウストリアでは特にそうであった。それに対してアウストラシアでは、7世紀半ばにカロリング家による宮宰職の世襲がほぼ確立し、王権の影響の排除が進んだ。
659年、アウストラシアの宮宰でカロリング家のグリモアルド1世は王位簒奪を謀ったが、失敗し処刑された。673年、ネウストリアでクロタール3世が没した際に宮宰エブロインは王権を擁護する立場から、テウデリク3世を擁立しようとしたが、豪族たちは自らが国王選挙に参加する権利があるとして、この決定を覆し、新たにキルデリク2世を擁立した。
680年ないし683年にはエブロインは暗殺され、王権に対する豪族の優位が確立された。アンリ・ピレンヌによると、豪族たちはこのころ司教職を通じて地方支配に浸透していたと思われる。ネウストリアにおける反エブロインの先頭に立ったのはオータンの司教レジェーであったが、彼は豪族の出身であった。また、反エブロインの豪族たちをカロリング家は支援していた。一方でエブロインは王国全体に対するネウストリアの支配を強化するために、アウストラシアの分国王タゴベルト2世をおそらく暗殺した。これ以降、アウストラシアでは分国王はほぼ無力となり、カロリング家の影響が一段と高まった。
このころ、アキテーヌはほとんど独立した状態となり、王権の支配を離れた。ブルグントでは宮宰職は空位同然であり、エブロイン死後のネウストリアの宮宰職も混乱し、影響力を低下させた。エブロインは673年以降、豪族たちの反発によって影響力を大幅に低下させていたが、675年ごろ豪族による国王キルデリク2世暗殺で豪族勢力に対する反発が強まると、権力を回復しレジェーを処刑して人事を一新した。しかし、その暗殺後はウァラトがネウストリアの宮宰となったが息子のギスレマールによって追放され、ピピン2世の軍を破るなど一時強勢となるが、おそらく暗殺された。ウァラトが再び宮宰となり、686年のその死後は女婿であったベルカールが跡を継いだが、豪族たちがすぐさま反乱した。
ピピン2世、全フランク王国宮宰
ネウストリアで国王と宮宰に対する豪族の反乱が起こると、ピピン2世はこれに介入し、687年テルトリーの戦いでネウストリア軍を破って、688年全王国の宮宰職を認められた。
カール・マルテル
714年12月ピピン2世が死ぬと、カロリング家の支配に対する反動が起こった。ピピン2世の死後、6歳のテウドアルド(暗殺されたピピン2世の子グリモアルド2世の子)が宮宰の位を継ぐと、ピピンの妃プレクトルディスが後見したが、ネウストリアではこれに対する豪族の反乱が起こった。豪族たちはラガンフレッドなる人物を宮宰に推戴したが、カール・マルテルにうち破られた。
ピピン2世の庶子カール・マルテルによって717年にはクロタール4世が擁立され、カール・マルテルはアウストラシアの支配を確立した。
724年ごろにはおそらくネウストリアを平定し、アキテーヌを支配していたウードと和平を結んだ。ウードは719年からネウストリアの豪族と結んでカール・マルテルと敵対していたが、これ以降ウードの生きている間はカール・マルテルの有力な同盟者となった。
カール・マルテルは730年にアレマン人を、734年にフリース人を征服し領土を拡大した。また733年にはブルグントを制圧した。
0 件のコメント:
コメントを投稿