2025/06/29

朱熹(朱子)(1)

朱熹

朱 熹(しゅ き、建炎4915日〈11301018日〉- 慶元639日〈1200423日〉は、中国南宋の儒学者。字は元晦または仲晦。号は晦庵・晦翁・雲谷老人・遯翁・紫陽など。諡は文公。朱子(しゅし)と尊称される。

 

本籍地は歙州(後の徽州)婺源県(現在の江西省上饒市婺源県)。南剣州尤渓県(現在の福建省三明市尤渓県)に生まれ、建陽(現在の福建省南平市建陽区)の考亭にて没した。儒教の精神・本質を明らかにして体系化を図った儒教の中興者であり、「新儒教」の朱子学の創始者である。

 

「五経」への階梯として、孔子に始まり、孟子へと続く道が伝えられているとする「四書」を重視した。

 

その一つである『論語』では、語義や文意にとどまる従来の注釈には満足せず、北宋の程顥・程頤の兄弟と、その後学を中心とし、自己の解釈を加え、それまでとは一線を画す新たな注釈を作成した。

 

生涯

父の朱松

朱熹の祖先は、唐末から五代十国時代の呉にかけての朱瓌(またの名は古僚、字は舜臣)という人が、兵卒三千人を率いて婺源(ぶげん、現在の江西省上饒市婺源県)の守備に当たり、そのまま住み着いたことに始まるという。その8世の子孫が朱熹の父の朱松(1097 - 1143年)である。

 

朱松は、字は喬年、歙州婺源県の生まれ。政和8年(1118年)、22歳の時に科挙に合格し、建州政和県の県尉に赴任した。その後、宣和5年(1123年)に南剣州尤渓県(現在の福建省三明市尤渓県)の県尉に任命されたが、建炎元年(1127年)に靖康の変が勃発し、金軍の侵攻が始まった。金軍来襲の情報により、福建の北部山間地を妻とともに転々とし、尤渓県の知り合いの別荘に身を寄せ、その奇遇先で朱熹が生まれた。建炎4915日(11301018日)のことである。朱熹の母は歙州の歙県の名家の一族である祝氏で、31歳の時に朱熹を生んだ。

 

その後、しばらく朱松は山間地帯で暮らしていたが、中央から視察に訪れた官僚に認められ、朝廷への進出の契機を得る。朱松は金軍に対する主戦論を唱え、高い評価を得た。紹興7年(1137年)に臨安府に召されると、秘書省校書郎、著作佐郎尚書吏部員外郎、史館校勘といって官に就き、翌年には妻と朱熹も臨安に行った。しかし、金軍が勢力を増すにつれて主戦派は劣勢となり、これは秦檜が政権を握ると決定的になった。朱松は同僚と連名で反対論を上奏したが聞き入れられず、秦檜に嫌われると、紹興10年(1140年)に中央政界から追われて饒州知州に左遷された。朱松はこれを拒否し、建州崇安県の道教寺院の管理職となった[10]

 

地方に戻った朱松は、息子の朱熹に二程子の学を教えた。朱松は、もともと羅従彦を通して道学を学び(羅従彦の師は程門の高弟である楊時)、これを朱熹に伝えたのであった。朱松は3年後の紹興13年(1143年)に47歳で死去した。朱松は朱熹に対して、自分の友人であった胡憲(胡安国の従子)・劉勉之・劉子翬(崇安の三先生)のもとで学び、彼らに父として仕えるように遺言した。

 

なお、母の祝氏は乾道5年(1169年)に70歳で死去した。

 

科挙合格まで

朱熹は、字は元晦または仲晦。幼い頃から勉学に励み、5歳前後の頃に「宇宙の外側はどうなっているのか」という疑問を覚え、考え詰めた経験があった。父の死後は胡憲・劉勉之・劉子翬のもとで学んだ。朱熹はこの三先生に数年間師事し、直接指導を受けるという恵まれた環境で成長した。ここで朱熹は「為己の学」(自分の生き方の切実な問題としての学問)という方向性が決定づけられ、また一時期禅宗に傾斜した時期もあった。同時に儒教の古典の勉学に励み、18歳の秋に建州で行われた解試(科挙の第一段階の地方予備試験)に合格すると、紹興18年(1148年)、19歳の春に臨安で行われた科挙の本試験の合格し、進士の資格を与えられた。同年の合格者には、『遂初堂書目』の著者として知られる尤袤もいる。

 

朱熹は科挙に合格すると読書の幅を広げ、『楚辞』や禅録、兵法書、韓愈や曾鞏の文章などを読み、学問に没入した。朱熹はこの頃からすでに、従来の経書解釈に疑念を持つことがあった。

 

同安時代

朱熹は24歳の頃、泉州同安県(現在の福建省廈門市同安区)に主簿として赴任し、持ち前の几帳面さで県庁内の帳簿の処理に当たった。また、県の学校行政を任せられ、教官の充実や書籍の所蔵管理に当たった。朱熹の文集には、彼が出題した試験問題が30余り記録されている。主簿の務めは、赴任して4年目の紹興26年(1156年)7月に任期が来たが、後任が来ないのでもう一年だけ勤め、それでも後任がやってこないために自ら辞した。

 

この間、朱熹は李侗(李延平)と出会い、師事した。李侗は父と同じく羅従彦に教えを受け、「体認」(身をもって体得すること)の思想、道理が自分の身体に血肉化された深い自得の状態を重視した。それまで朱熹は儒学と共に禅宗も学んでいたが、彼の禅宗批判を聞いて同調し、禅宗を捨てることとなった。朱熹は24歳から34歳に至るまで彼の教えを受け、大きな影響を受けた。

 

張栻との出会い

紹興27年(1157年)、朱熹は同安を去ると、翌年には母への奉養を理由に祠禄の官を求め、12月に監潭州南学廟に任命された。朱熹は、これから50歳までの20年間、実質的には官職に就かず、家で読書と著述と弟子の教育に励んだ。朱熹の官歴は、50年のうち地方官として外にいたのが9年、朝廷に立ったのは40日で、他はずっと祠禄の官に就いていた。

 

隆興元年(1163年)、朱熹34歳の時、師であった李侗が逝去するが、この頃張栻と知り合い、以後二十年近い交遊の間に互いに強い影響を与え合った。両者が実際に対面したのは数回だが、手紙のやり取りは50通以上に及んでいる。張栻は、湖南学の流れを汲み、察識端倪説(心が外物と接触して発動する已発の瞬間に現れる天理を認識し、涵養せよとする説)を唱え、「動」に重点を置いた修養法を説いた。乾道3年(1167年)には、朱熹が長沙の張栻の家を訪問し、ともに衡山に登り、詩の応酬をした。朱熹は張栻の「動」の哲学に大きな影響を受け、この時期には察識端倪説に傾斜していた。

 

四十歳の定論確立

しかし、乾道5年(1169年)春、友人の蔡元定と議論をしている時、自身が誤った解釈をしてきたことに気が付き、大きく考えを改めた。従来、朱熹は察識端倪説を信じ、「心を已発」「性を未発」と考え、心の発動の仕方が正か邪かを省察する、という修養の方法にとらわれていた。しかし、ここに至って朱熹は、心は未発・已発の二つの局面を持っており、心の中に情や思慮が芽生えない状態が「未発」、事物と接触し情や思慮が動いた状態が「已発」であると認識を改めた。

 

これにより、未発の状態でも心を平衡に保つための修養が必要であることになり、朱熹はかつて李侗に教わった「静」の哲学がこれに当たると気が付いた。朱熹は、李侗の「静」の哲学を根底に据えた上で、已発の場での修養として張栻の「動」の哲学を修正しながら組み合わせた。後世、これをもって朱熹思想の「定論」が成立したとされる。これを承けて、張栻の側も認識を改め、朱熹の説に接近した。

0 件のコメント:

コメントを投稿