宇宙の無始
イブン・ルシュド以前の何世紀にも渡り、ムスリム思想家の間に宇宙は特定の瞬間に創造されたのか、それとも常に存在していたのかについて論争があった。アル・ファーラービーやイブン・スィーナーなどの哲学者は、世界は常に存在したと主張した。この主張は、アシュアリー派の神学者によって批判された。特にアル・ガザーリーは、この宇宙の永遠説について広範な反論を書き、彼ら哲学者の不信(Kufr)を非難した。
これに対してイブン・ルシュドは『崩壊の崩壊』において、アル・ガザーリーに答えた。第一に、この二つの立場の違いは不信(Kufr)の罪に当たるほど広大なものではないと主張した。また、この宇宙永遠説はクルアーンに矛盾しないとも述べ、クルアーンにおける創造に関連した箇所、「王座」「水」について言及する句を引用した。クルアーンを注意深く読めば、宇宙の形態だけが時間内に創造されたことを暗示するが、その存在そのものについては永遠と主張した。
政治
イブン・ルシュドは、プラトンの『国家』の注解において自身の政治哲学を述べる。彼は自分の考えをプラトンとイスラームの伝統とに組み合わせて、理想的な国家はイスラーム法に基づいたものであるとする。プラトンの言う哲学者王を、アル・ファーラービーに従ってそれをイマーム、カリフと等しいものとみなす。
市民に美徳を与える方法は、説得と強制の二つであるとする。説得は修辞的、弁証的、論証的であり、より自然的な方法である。しかし、説得の通じない者には強制が必要である。従って最後の手段として戦争を正当化する。それゆえに、統治者は知恵と勇気の両者を持つべきであり、それは国家の統治と防衛のために必要である。
プラトンのように、イブン・ルシュドは兵士、哲学者、支配者たちとして参加することを含めて、国家の統治において女性に男性と共有することを求めている。同時代にイスラーム社会が女性の公共の役割が制限されていることを残念に思い、これを国家の幸福に有害であると言う。
理想的な状態からの劣化というプラトンの考えを受け入れ、イスラーム史における正統カリフ時代からウマイヤ朝への移行の例を挙げる。
自然哲学
天文学
イブン・バーッジャとイブン・トゥファイルと同様に、イブン・ルシュドはプトレマイオスの体系を批判し、月、太陽、惑星の見掛け上の動きを説明するために導入した従円と周転円を否定した。彼はアリストテレスの原理に従って、地球の周りを厳密に円運動すると主張した。惑星運動には三つあると仮定し、肉眼で見ることができるもの、観察するために道具が必要なもの、哲学的推論によってしか知ることができものに分けた。イブン・ルシュドは当時のアラビアやアンダルシアの天文学者によって、一般的に行われていた単なる数学に基づくものではなく、自然学に基づくものとして天文学を再定義しようとしたが、それは未完成に終わった。
『形而上学大註解』最終巻において、彼は言った。
「私の若い頃に、この研究は私によって完成されると意気込んだのであるが、今や老年となって私はそれを諦めている。しかし恐らく、この問題は他の誰かが、この研究に取り組むことになるであろう」
自然学
自然学においては、イブン・ルシュドはアル・ビールーニーによって開発された帰納法を採用せず、むしろ今日の自然学に近い。科学史家のルツ・グラスナーの言葉によれば、彼はアリストテレスの著作の議論を通して、自然について新しい論説を生み出した“釈義的”な科学者であった。彼は、しばしばアリストテレスの非創造的な追従者と描かれたが、グラスナーはイブン・ルシュドが非常に独創的な自然学の理論を導入したと主張する。特に彼のアリストテレスのミニマ・ナトゥラリア理論と、フォルマ・フルエンスとしての運動についての精緻化は、西洋において取り上げられ物理学の全体的な発展にとって重要であった。また「物質の運動状態を変化させるのに働く仕事の割合」として力の定義を提案した。これは、今日の物理学における力の定義に近い定義である。
心理学
イブン・ルシュドは、アリストテレス『霊魂論』に関する三つの註解で、心理学に関する彼の考えを詳述している。彼は哲学的方法を用い、アリストテレスの考えを解釈することによって人間知性を説明することに興味を持っている。彼の考えが発展するにつれて彼の立場は変化していった。
最初に書かれた小註解では、「素材的知性」は人が遭遇する特定のイメージ(表象)を保持するというイブン・バーッジャの理論に従う。これらのイメージは、普遍的な「作用知性」によって「統一」のために基体として役立ち、それが起こることによって、人はその概念について普遍的な知識を得る。
中註解では、アル・ファーラービーやイブン・スィーナーの考えに近づき、作用知性は人間に普遍的な理解の力を与え、それが素材的知性であるとした。人がある概念と十分な実験的な逢着を持てば、その力は活性化されて人に普遍的知識を与える。
大註解において、「知性単一論」として知られるものを提案した。そこでイブン・ルシュドは唯一の素材的知性を主張し、それはすべての人間において同一であり、またそれは身体と混合するものではない。この理論は、キリスト教圏の西欧に入ったとき論争を巻き起こした。1229年、トマス・アクィナスはアヴェロイストに対して知性単一論の反駁を書いた。
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