2025/06/25

平安京(2)

平安宮北辺拡大説

平安京北端の南側2町分については「北辺(北辺坊)」と呼ばれているが、平安京北端の街路は当初設計では現在の土御門大路の位置にあたり、後に北へ2町拡張し、現在の一条大路の位置に造られたという説がある。

 

この北辺の拡張については、瀧浪貞子の説がもとになっている。

中山忠親の日記『山槐記』に、昔は土御門大路が宮城(大内裏)の北側に接して一条大路と呼ばれ、後に北辺の二町分(約200メートル)を取り込んで宮城を拡張した結果、この大路が一条大路と呼ばれるようになった、という記載がある。このことに基づき、平安京は藤原京と同じく当初は大内裏の北側に空地(北辺)をもつ構造であって、元々12門であった大内裏が平安京造営後に2町分北に広げられ14門となり、平安京北端とされる「北京極大路」が一条大路に、元の一条大路(拡張前の大内裏北端)が土御門大路となったとするのが瀧浪説である。さらには冒頭のように、平安京全体が北に拡張されたとする説も唱えられている。

 

これらの説に基づけば、指図に残る平安京は変更後の姿ということになり、北辺まで大内裏が拡張された時期はおよそ9世紀後半と推定されるが、論拠のもとになった『山槐記』の記載について、この「昔」とは初期の平安京を指すものとは限らず、平安京以前の都城のことを指すのではないかという疑義が示され、さらに「昔」とは後期造営により宮城が北に拡張することになった初期の長岡京のことを指すのが適切であるとの批判があり、いまだ仮説の域を脱していない。

 

歴史

平安京は、延暦131022日(西暦7941118日(ユリウス暦))から、一説には明治2年(1869年)まで日本の首都であったとされ、明治2年(1869年)に政府(太政官)が東京(旧江戸)に移転して首都機能を失っている。

 

その始めは、桓武天皇の長岡京遷都まで遡る。桓武天皇は、延暦3年(784年)に平城京から長岡京を造営して遷都したが、これは天武天皇系の政権を支えてきた貴族や寺院の勢力が集まる大和国から脱して、新たな天智天皇系の都を造る意図があったといわれる。しかし、それからわずか9年後の延暦12年(793年)1月、和気清麻呂の建議もあり、桓武天皇は再遷都を宣言する(理由は長岡京を参照)。場所は、長岡京の北東10 km2つの川に挟まれた山背国北部の葛野郡および愛宕郡の地であった。事前に、桓武天皇は現在の京都市東山区にある将軍塚から見渡し、都に相応しいか否か確かめたと云われている。

 

『日本紀略』には「葛野の地は山や川が麗しく、四方の国の人が集まるのに交通や水運の便が良いところだ」という桓武天皇の勅語が残っている。

 

大極殿遺阯碑

(千本丸太町北西)

平安京の造営は、まず宮城(大内裏)から始められ、続いて京(市街)の造営を進めたと考えられる。都の中央を貫く朱雀大路の一番北に、皇居と官庁街を含む大内裏が設けられて、その中央には大極殿が作られた。その後方の東側には、天皇の住まいである内裏が設けられた。

 

都の東西を流れる鴨川や桂川沿いには、淀津や大井津などの港を整備、これらの港を全国から物資を集める中継基地にして、そこから都に物資を運び込んだ。運ばれた物資は、都の中にある大きな2つの市(東市・西市)に送り、人々の生活を支えた。このように食料や物資を安定供給できる仕組みを整え、人口増加に対応できるようにした。また、長岡京で住民を苦しめた洪水への対策も講じ、都の中に自然の川がない代わりに東西にそれぞれ「堀川」(現在の堀川と西堀川)を始めとする河川をいくつも整備し、水運の便に供するとともに生活廃水路とした。

 

そして長岡京で認めなかったように、ここでも官寺である東寺と西寺を除き、新たな仏教寺院の建立を認めなかった(この他、平安遷都以前からの寺院として京域内には六角堂があったとされるが、平安遷都後の創建説もある。また、広隆寺はこの時に太秦に移転されたとされ、京域外の北野上白梅町からは移転以前の同寺跡とみられる「北野廃寺跡」が見つかっている)。なお、建都に当っては、それまで上賀茂付近から真南に流れていた賀茂川(鴨川の出町以北の通称)を現在の南東流に、また出町付近から南西方向に左京域を斜行していた高野川を現在の南流に変え鴨川としたとの説が塚本常雄によって唱えられ、多くの歴史学者に支持された(「鴨川つけかえ説」)。

 

これに対して後に横山卓雄によって否定説が提出され、歴史学者も一転してこの説に従うようになり、現在は「鴨川・賀茂川つけかえはなかった」とするのが有力となっている。ところが、最近になって横山説に疑問を呈する研究者が現れ、塚本の鴨川つけかえ説に対する再評価の動きが活発になりつつあり、現在では「つけかえ説」「非つけかえ説」とも定説とは言えない状況となっている。

 

辛酉。車駕遷于新京。

同十三年十月廿三日。天皇自南京、遷北京。

(略)

丁丑。詔。云々。山勢実合前聞。云々。此国山河襟帯、自然作城。因斯勝、可制新号。宜改山背国、為山城国。又子来之民、謳歌之輩、異口同辞、号曰平安京。又近江国滋賀郡古津者、先帝旧都、今接輦下。可追昔号改称大津。云々。

『日本後紀』卷第三逸文、延暦1310月及び11月の条。

「此の国は山河襟帯(さんがきんたい)し、自然(おのづから)に城をなす。此の勝(形勝 けいしょう)によりて、新号を制(さだ)むべし。よろしく山背国を改めて、山城国と為すべし。また子来(しらい)の民、謳歌(おうか)の輩(ともがら)、異口同辞(いくどうじ)に、号して平安京と曰(い)ふ」(此の国は山河が周りを取り囲み、自然に城の形をなしている。この景勝に因んで、新しい名前を付けよう。「山背国」を改めて「山城国」と書き表すことにしよう。また新京が出来たことを喜んで集まった人々や、喜びの歌を歌う人々が、異口同音に「平安の都」と呼んでいるから、この都を「平安京」と名付けることとする)。ここに言う「謳歌」とは、遷都の翌延暦14年(795年)正月16日に宮中で催された宴でも歌われた踏歌の囃し言葉「新京楽、平安楽土、万年春(しんきょうがく、びょうあんがくつ、まんねんしゅん)」を言うのであろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿