2025/06/02

イブン=ルシュド(アヴェロエス)(3)

著作

ファクリーによると、イブン・ルシュドは多作な作家であり、哲学、医学、法学、法理論、言語学を含む。彼の著作のほとんどは、アリストテレスの作品に対する解説・パラフレーズであり、しばしば彼独自の見解が含まれている。

 

フランスの作家エルネスト・ルナンによれば、イブン・ルシュドはアリストテレスの作品に対する注釈とプラトン国家篇の註解を加えて哲学に関して28作品、医学に関して20作品、法律に関して8作品、神学に関して4作品、文法に関して4作品を含み、少なくとも67作品を書いた。この多くの作品はアラビア語では存続できなかったが、ヘブライ語とラテン語への翻訳によって生き残ることができた。たとえばアリストテレスの大注解については「ほんの一握りのアラビア語手稿が残っているだけ」である。

 

アリストテレス註解

イブン・ルシュドは、現存するアリストテレスの著作ほぼすべてについて註解を書いた。例外は「政治学」についてであり、彼はそれを入手することができなかったので、代わりにプラトンの『国家篇』について注釈した。彼は自らの註解の三つを、小・中・大の三つのカテゴリーに分類した。

『小註解』(jami)のほとんどは初期に書かれたもので、アリストテレスの教説の要約が含まれている。

『中註解』(talkhis)はアリストテレスの原意を明確にし、単純化するために言い換えが含まれている。中註解は、アリストテレスの文意を理解することの難しさに不満を覚えたアブー・ヤアクーブ・ユースフと同様の立場にある人々のために書かれた。

『大註解』(tafsirまたはsharf)は、原文と各行の詳細な分析が含まれている。大註解は非常に詳細で高度な独自の見解が含まれており、一般の読者を対象したものではなかった。

 

1169年以降、アブー・ヤアクーブ・ユースフの要請によるアリストテレス解釈は、中註解として表された。イスラーム哲学思想界において、プロティノスの『エンネアデス』の抜粋抄訳が『アリストテレスの神学』という名で流布し、ネオ・プラトニズムの流出論がアリストテレス真正の教えであるとされていた。イブン・ルシュドも『形而上学中註解』においては流出論に従っていたが、アリストテレス研究から『崩壊の崩壊』以降はそれを否定し、アリストテレスの『天体について』『形而上学』Λ巻などに基づいて独自の宇宙観を立てた。

 

1186年より少し前に『霊魂について』、1186年以降に『分析論後書』『自然学』、1188年頃に『天体について』、1190年頃『形而上学』の大註解を完成させたと思われる。『分析論後書大註解』と『形而上学大註解』はアラビア語で現存し、他はヘブライ語及びラテン語によって現存する。

 

イブン・ルシュドは、基本的に精確さで名高いフナイン・イブン・イスハークによる翻訳を使用しているが、他にもアラビア語翻訳を利用・参照している。イブン・イスハークによる『形而上学』翻訳はギリシャ語版のA巻を欠いており、α巻から始まっている。イブン・ルシュドは『形而上学大註解』を書くにあたり、ナズィーフ・イブン・ユムンによるA巻の翻訳をイブン・イスハークによる第1巻(α巻)の後ろに挿入して第2巻としている。

 

大註解には、アレクサンドロスやテミスティオスといった先行する注釈者からの引用が数多く含まれており、ギリシャ語原典で散逸したものもあり、資料的価値も存在する。例えば、イブン・ルシュド『形而上学大註解』Λ巻の冒頭において

「アレクサンドロスのΛ巻の3分の2に及ぶ注解と、テミスティオスによる完全な提要を見つけたので、それを明快かつ簡潔に載せるのが良いように思える」

と述べ、多くのアレクサドロスの注解を引用している。アレクサンドロスの『形而上学注解』は、1-5巻までしかギリシャ語では現存しない。

 

独自の哲学的著作

『知性について』、『三段論法について』、『作用知性との結合について』、『時間について』、『天体について』、『天体の運動について』などの独自の著作があった。他にも、アリストテレスと比較したアル・ファーラービーの論理学に関するエッセイ、イブン・スィーナーの『治癒』で扱われた形而上の諸問題や、イブン・スィーナーの存在するもの分類に反論などの論争的な書がある。

 

『崩壊の崩壊』

アル・ガザーリーは、イブン・スィーナーに基づいた哲学説を批判するために『哲学者の崩壊』(Tahāhut al-falāsifa)という書を書いた。アラビア語の題名にある"Tahāhut”は崩壊、崩落などを意味し、アル・ガザーリーによれば哲学者の説は自己矛盾に満ちており、そのことを批判することによって哲学説は自己崩壊することを明らかにすることを目的としていた。この書の影響はスンナ派の東方イスラーム世界では大きく、イブン・スィーナーの影響は大きく後退した。イブン・ルシュドは、アンダルシアにおいても哲学者に対する風当たりの強くなっていく状況を打破するために、『哲学者の崩壊』の全面的な批判的注解を書き下ろし、意趣返しとして『崩壊の崩壊』(Tahāhut al-Tahāhut)と名付けた。

 

直接的には、神学者アル・ガザーリーによる哲学批判をアリストテレスに基づいて反論する体裁だが、その真の目的は哲学説の正当性を訴え、哲学と宗教とは調和しうるものだということを当時のムワッヒド朝の思想風潮に投げかけるためだった。そのため、イブン・ルシュドはイスラーム神学において、主流のアシュアリー派を否定的に扱っているが、部分的にその考え方も許容している。また、この書は同時にアル・ガザーリーが批判した、イブン・スィーナーに対する批判でもある。アル・ガザーリーの批判はイブン・スィーナーの教説にのみ当てはまり、アリストテレスの立場による真正の哲学には当てはまらないという立場をイブン・ルシュドは採った。故に彼は場合によって、アル・ガザーリーのイブン・スィーナーの誤りの指摘に同意している。

 

おそらく1180年ごろ書きあげられたが、結局のところアンダルシアにおいても保守的宗教勢力によって哲学を異端視してゆく流れは変わらず、イブン・ルシュドは宮廷から追放され、後に赦免されたが宮廷に戻る途上に死去した。

 

翻訳

アラビア語原典は断片を除き失われたが、ヘブライ語に翻訳されユダヤ人の間にて影響力を持った。イブン・ルシュドのアリストテレス注解書は、早く13世紀にはラテン語に翻訳されたが、この書の翻訳し始めはやや遅れ、1328年にナポリ王ロベール・ダンジューの依頼によってユダヤ人カロニュモス・ベン・カロニュモスによってなされた。始めにはその註解的体裁から、イブン・ルシュドはアル・ガザーリーの弟子という誤解も生じた。

 

1497年、アゴスティノ・ニフォが注解をつけてヴェネツィアで出版されたが、これは形而上学部分だけであった。完訳はナポリのカロ・カロニュモスがヘブライ語訳からラテン語訳され、1527年にヴェネツィアで出版された。ルネッサンス期には度々再版され、神学に対して哲学を弁護するものとして影響を及ぼした。

 

1930年にイエズス会司祭モーリス・ブイジュ(1878-1951)により、ヘブライ語訳との比較によってアラビア語へ再構成され出版された。近代語では英語、イタリア語、トルコ語で全訳されており、日本語では『「(アルガゼルの)哲学矛盾論」の矛盾』、中世思想原典集成.11 イスラーム哲学『矛盾の矛盾』などの抄訳が存在する。

0 件のコメント:

コメントを投稿