2025/07/31

坂上田村麻呂(6)

北天の化現

田村麻呂は十一面千手観世音菩薩を信仰していたが、『公卿補任』に「毘沙門の化身、来りて我が国を護ると云々」とあることから、生前にはすでに北方鎮護の仏・毘沙門天の生まれ変わりであるとの評判が立っていた。胆沢城の北方鎮護として建立された陸奥国極楽寺(現在の国見山廃寺跡)は、天安元年(857年)に定額寺(準官寺)となった。

 

また胆沢城が後三年の役まで鎮守府として機能していたことから、胆沢周辺では『公卿補任』で毘沙門の化身とされた田村麻呂の評価が移入しやすい環境にあり、極楽寺毘沙門堂では「坂上田村麻呂が異敵降伏のために兜跋毘沙門天像、100体の毘沙門天像、四天王像を祀ったのが始まりである」との縁起が創出された。

 

極楽寺が最盛期を迎えた10世紀から11世紀にかけて、北上川流域では田村麻呂と結びつけられた毘沙門天信仰(毘沙門堂)が広まり、北上地域では成島毘沙門堂、立花毘沙門堂、藤里毘沙門堂などの毘沙門堂が次々と創出された。

 

成島の兜跋毘沙門天像は10世紀前半、藤里の毘沙門天像は11世紀の像顕と推定され、奥六郡之司・安倍氏が全盛期を迎えた時期に一致する。成島寺の十一面観音像の胎内銘には「縁女伴氏・坂上最延・承得2年(1098年)210日像顕」とあり、後三年の役が終結してからも田村麻呂や坂上氏の末裔もしくは類縁関係のある人物が東北地方で活動していたことを示している。

 

11世紀後期頃に成立したとみられる軍記物語『陸奥話記』は、田村麻呂と結びつけられた毘沙門天信仰が広まっていく頃の陸奥国奥六郡が舞台となった前九年の役の顛末が描かれ、末尾に

「我が朝、上古に屢々大軍を発し、国用多く費すと雖も、戎大敗無し。坂面伝母礼麻呂請降、普く六郡の諸戎を服し、独り万代の嘉名を施す。即ち是れ北天の化現にして、希代の名将なり」

と前九年の役での源頼義の活躍や功績を、北天の化現(毘沙門の化身)である田村麻呂と同列に置くことで頼義を称賛する意図がみられる。

 

天治3年(1126年)の「関山中尊寺金銀泥行交一切経蔵別当職事」に「藤原清衡朝臣・俊慶・金清廉・坂上季隆」とあり、奥州藤原氏政庁の一員として坂上姓を名乗る人物がいたことが確認されている。毘沙門天信仰が奥州藤原氏の政庁・平泉館のある平泉に広まると

「大将軍(坂上田村麿公)は神であり、その本地垂迹を毘沙門様と見倣す田村信仰発祥の霊場」

を称する達谷窟毘沙門堂(別當達谷西光寺)の伝承創出に影響を与え、奥州藤原氏によって栄華を極めた時代の平泉で田村麻呂に悪路王伝説が付会されたことで『吾妻鏡』に記録された。

 

刀剣

御剣「坂家宝剣」、大刀「騒速」、大刀「黒漆剣」など、様々な刀剣を常に佩刀していたという。

 

坂家宝剣は、田村麻呂から伝わる朝廷守護の宝剣として皇位継承の印と考えられていたことから、鎌倉時代には後深草天皇と亀山天皇は、それぞれ次代の治天となることを望んで争っていたが、後嵯峨天皇から亀山に継承され、この措置に大宮院も関与していたことから後深草の不満は「女院のうらめしき御事」と収まらず、これを知った執権・北条時宗は後深草に同情したため、後に鎌倉幕府の介入を招くことになる。

 

騒速は兵庫県加東市にある播州清水寺に伝わる宝刀で、寺伝では同寺に深く帰依していた田村麻呂の佩刀とその副剣とされているが、3口のうち田村麻呂の佩刀と副剣の内訳が不明である。3口は直刀から湾刀に至る変遷過程にあり、ごくわずかに反りを伴うことから、日本刀が出現する直前期の姿を留める伝世品として他に例がないため、きわめて貴重な作例である。兵仗の大刀と考えられ、騒速には古くから鈴鹿山の大嶽丸や陸奥の高麿を討伐したというソハヤノツルギの逸話が仮託されていた。

 

後世の評価

平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生み、学問の菅原道真と武芸の坂上田村麻呂は文武のシンボル的存在とされた。

 

『凌雲集』に、小野岑守の「右衛大将軍故坂上宿禰を傷む御製に和し奉る」漢詩一首が収められている。

中世文学のなかで藤原利仁・藤原保昌・源頼光とともに、中世の伝説的な武人4人組の1人と紹介された。

弘治3年(1557年)、上杉謙信は田村麻呂の名に触れつつ小菅山に戦勝祈願の願文を奉納している。

 

第一高等学校(現在の東京大学教養学部および、千葉大学医学部、同薬学部の前身)では生徒訓育を目的として、倫理講堂正面に文人の代表として道真の、武人の代表として田村麻呂の肖像画が掲げられていた。

 

明治20年(1887年)729日に松方正義大蔵大臣から伊藤博文総理大臣に閣議請議の公文書が提出され、同年919日に「大蔵大臣請議兌換銀券物描出ノ件」が裁可されたことで、改造兌換銀券として200円紙幣、100円紙幣、50円紙幣、20円紙幣、10円紙幣、5円紙幣、1円紙幣の7券種を発行する予定であったことから、肖像として日本武尊、武内宿禰、藤原鎌足、聖徳太子、和気清麻呂、坂上田村麻呂、菅原道真の7人が選定、天皇の象徴としての「菊章」を描くこととされた。

 

5円券の代わりの新しい5円券として田村麻呂が肖像に内定すると、磯部忠一工芸官によって描かれることになり、大正4年(1915年)1月にはデザイン案のコンテ画が完成したが、丙5円券への田村麻呂の肖像図柄の採用が突然中止となり、代わりに武内宿禰の肖像を用いることとなった。その理由は不明であるが、当時一般に噂されていたこととして、武人として皇室に対して大きな貢献をしたことは事実であるが、田村麻呂が帰化人の一族であったからという説が強い。その後は田村麻呂の肖像が候補に挙がることはなく、明治20年に決定された7人の紙幣候補者で唯一、紙幣や銀行券に登場せず、戦後にGHQによる肖像追放の命令を迎えた。

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