2026/01/13

日蓮(2)

立教開宗

遊学を終えた日蓮は建長4年(1252年)秋、あるいは翌年春、清澄寺に戻った。

建長5428日、師匠・道善房の持仏堂で遊学の成果を清澄寺の僧侶たちに示す場が設けられた。その席上、日蓮は念仏と禅宗が妙法蓮華経を誹謗する謗法を犯していると主張し、南無妙法蓮華経の題目を唱える唱題行を説いた。南無妙法蓮華経の言葉は日蓮の以前から存在し、南無妙法蓮華経と唱えることは天台宗の修行としても行われていた。その場合、南無妙法蓮華経の唱題は南無阿弥陀仏の称名念仏などと並行して行われた。しかし、日蓮は念仏などと並んで題目を唱えることを否定し、南無妙法蓮華経の唱題のみを行う「専修題目」を主張した。

 

日蓮が念仏と禅宗を破折したことは大きな波紋を広げた。念仏の信徒であった東条郷の地頭・東条景信が日蓮の言動に激しく反発して危害を及ぼす恐れが生じたため、日蓮は清澄寺にいることができなくなり、兄弟子である浄顕房・義浄房に導かれて清澄寺を退出した。

 

伝承によれば、立宗に当たって日蓮は、それまでの「是聖房蓮長」の戒名を改め、「日蓮」と名乗った。また立宗の後、両親を訪れ、妙法蓮華経の信仰に帰依せしめたと伝えられる。

 

鎌倉での活動

「立正安国論」

日蓮は建長5年(1253年)、鎌倉に移り、名越の松葉ヶ谷に草庵を構えて布教活動を開始した。この年の11月、後の六老僧の一人である弁阿闍梨日昭が日蓮の門下となったとされる。鎌倉進出の時期については、建長6年または同8年とする説もある。

 

鎌倉進出当時、日蓮が辻説法によって布教したと伝承されるが、日蓮遺文には辻説法を行った事実の記述はない。この時期に、僧侶としては日昭・日朗・三位房・大進阿闍梨、在家信徒としては富木常忍・四条頼基(金吾)・池上宗仲・工藤吉隆らが日蓮の門下になったと伝えられる。

 

正嘉元年(1257年)8月、鎌倉に大地震があり、ほとんどの民家が倒壊するなど、大きな被害が出た(正嘉地震)。日蓮は多くの死者を出した自然災害を重視し、災害の原因を仏法に照らして究明し、災難を止める方途を探ろうとした。伝承によれば、正嘉2年(1258年)、日蓮は駿河国富士郡岩本にある天台宗寺院・実相寺に登り、同寺に所蔵されていた一切経を閲覧した。この時期、日蓮が仏教の大綱を再確認した成果は、「一代聖教大意」「一念三千理事」「十如是事」「一念三千法門」「唱法華題目抄」「守護国家論」「災難対治抄」などの著作にまとめられた。

 

その上で、日蓮は文応元年(1260年)716日、「立正安国論」を時の最高権力者にして鎌倉幕府第5代執権の北条時頼に提出して国主諫暁を行った。この時の諌暁は、時頼の信頼厚い近臣である宿屋入道を介して行われた。

 

「立正安国論」によれば、大規模な災害や飢饉が生じている原因は、法然(日本浄土宗の宗祖)の教えが流行し、為政者を含めて人々が正法に違背して悪法に帰依しているところにあるとし、その故に国土を守る諸天善神が国を去って、その代わりに悪鬼が国に入っているために災難が生ずる(これを「神天上の法門」という)とする。そこで日蓮は、災難を止めるためには為政者が悪法への帰依を停止して、正法に帰依することが必要であると主張する。さらに日蓮は、このまま悪法への帰依を続けたならば、自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(他国からの侵略)により、日本が滅びると予言し、警告した。

 

「立正安国論」で、日蓮はとりわけ法然の専修念仏を批判の対象に取り上げる。それは、貴族階級から民衆レベルまで広がりつつあった専修念仏を抑止することが、自身の仏法弘通にとって不可欠と判断されたためである。この時期に作成された「守護国家論」「念仏者追放宣旨事」などでも、徹底した念仏批判が展開されている。

 

松葉ヶ谷の法難

しかし「立正安国論」による国家諫暁は、鎌倉幕府から完全に無視された。その一方で、日蓮の念仏破折は念仏勢力の激しい反発を招き、文応元年(1260年)827日の夜、松葉ヶ谷の草庵が多数の念仏者によって襲撃された(松葉ヶ谷の法難)。この法難の背後には執権・北条長時と、その父・北条重時(北条時頼の岳父)の意思があったと推定される。

 

日蓮は草庵襲撃の危難を免れたが、もはや鎌倉にいられる状況ではなくなった。そこで、下総国若宮(現在の千葉県市川市)の富木常忍の館に移り、布教活動を展開したとされる。この時期に、下総国在住の大田乗明・曾谷教信・秋元太郎らが日蓮に帰依したと伝えられる。

 

伊豆流罪

弘長元年(1261年)512日、鎌倉に戻った日蓮は鎌倉幕府によって拘束され、伊豆国伊東に流罪となった。その際、俎岩まないたいわという岩礁に置き去りにされた、あるいは川奈の漁師・船守弥三郎の保護を受けたという伝説があるが、いずれも根拠のない伝承に過ぎない。「船守弥三郎許御書」は真筆が現存せず、偽書説が強く出されているので、根拠にはならない。

 

伊豆配流中、日蓮の監視に当たったのは伊東の地頭・伊東祐光であった。祐光は念仏者だったが病を得た折、日蓮の祈念によって平癒したので日蓮に帰依した。また、伊豆配流中、日蓮が岩本実相寺に滞在していた時に門下となった日興が、伊豆に赴いて日蓮に供奉したとされる。

 

日蓮は伊豆配流中に「四恩抄」を著し、松葉ヶ谷法難・伊豆流罪などの法難が妙法蓮華経の行者であることの証明であると位置づけ、また『教機時国抄』を著して、いわゆる「宗教の五綱」の教判を明確にしている。

 

弘長3年(1263年)222日、日蓮は伊豆流罪を赦免された。その赦免は『聖人御難事』に「故最明寺殿の日蓮をゆるしし」とあることから、北条時頼の判断によるものと判断される。

 

小松原の法難

文永元年(1264年)の秋、日蓮は母の病が重篤であることを聞き、母の看病のため故郷の安房国東条郷片海の故郷に帰った。それを知った東条郷の地頭・東条景信は、日蓮を襲撃する機会を狙った。同年1111日の夕刻、天津に向かって移動していた日蓮と弟子の一行に対し、東条景信は弓矢や太刀で武装した数百人の手勢をもって襲撃した。日蓮は頭に傷を受け、左手を骨折するという重傷を負った。この法難で、鏡忍房と伝えられる弟子が討ち死にし、急を聞いて駆け付けた工藤吉隆も瀕死の重傷を負い、その傷が原因となって死去した。

 

1114日、日蓮は見舞いに訪れた旧師・道善房と再会した。日蓮は道善房に対し、改めて念仏が地獄の因であると説き、妙法蓮華経に帰依するよう説いた。その後、日蓮は文永4年(1267年)まで房総地域で布教し、母の死を見届けて、同年末には鎌倉に戻ったと推定される。

 

蒙古国書の到来

文永5年(1268年)116日、蒙古と高麗の国書が九州の大宰府に到着した。両国の国書は直ちに鎌倉に送られ、幕府はそれを朝廷に回送した。蒙古の国書は日本と通交関係を結ぶことを求めながら、軍事的侵攻もありうるとの威嚇の意も含めたものであった。

 

日蓮は、蒙古国書の到来を外国侵略を予言した「立正安国論」の正しさを証明する事実であると受け止め、執権・北条時宗、侍所所司・平頼綱らの幕府要人のほか、極楽寺の良観(忍性)、建長寺の蘭渓道隆ら鎌倉仏教界の主要僧侶に対して書簡を発し、諸宗との公場対決を要求した(十一通御書)。十一通御書においては念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊という「四箇格言」を見ることができる。「建長寺も極楽寺も寿福寺も鎌倉の寺は焼き祓い、建長寺の蘭渓道隆も、極楽寺の良観房忍性も、首を刎ねて由比ヶ浜にさらせ」等の過激な発言を行った。

 

幕府は当初は他宗へ依頼したように蒙古調伏の祈祷を日蓮へ依頼したが、未曽有の国難に見舞われた日本の状況下で、過激な発言を繰り返す日蓮教団を危険集団と見なして教団に対する弾圧を検討した(「種種御振舞御書」)。

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