2026/01/17

日蓮(3)

龍の口の法難

文永8年(1271年)6月、日蓮は当時関東における真言律宗教団の中心人物で、非人の労働力を組織化することで道路や橋の建設、港湾の維持管理や様々な社会事業を行っていた良観(忍性)が、旱魃に際して幕府に祈雨の祈願を要請されたことを知り

7日の間に雨が降るならば日蓮が良観の弟子となるが、降らないならば良観が妙法蓮華経に帰依せよ」

と降雨祈願の勝負を申し出たが、良観はこれに応じなかった。

 

1271910日、日蓮は幕府に召喚され、現代で言えば刑事裁判を管轄する侍所の次官である平左衛門尉頼綱の尋問を受けた。『御成敗式目』の定めに従い、行敏の訴状に対する「陳状」(答弁書)を日蓮に求めると、日蓮は陳状を提出するが

「庵室に凶徒を集め弓箭(弓矢)・兵仗(武器)を貯えている」

との行敏側の指摘は否定せず、日蓮らは防衛体制強化を行う幕府に異を唱える悪党(反社会的行動をする集団)とされ、流罪の判決が下った。

 

この法難は、鎌倉における日蓮教団の壊滅を意図する大規模な弾圧であり、元寇という未曽有の危機に見舞われ、国内で一致団結した防衛力強化が必要とされる中、過激な他宗批判を行い国内の宗教対立を扇動する日蓮らの言動を危険視した幕府が、蒙古襲来の危機に対応するため幕府に異を唱える「悪党」を鎮圧する防衛体制強化の一環としてなされたと考えられている。

 

日蓮側の記述では、日延べしても一滴の雨も降らず、結果勝負は良観の惨敗に終わったこと、敗れた良観は鎌倉浄土教勢力の中心人物である良忠や道教と共同して念仏僧・行敏の名を使って日蓮を告発したが、日蓮の反論に遭い告発は成功しなかったこと、良観は次に蘭渓道隆らとともに北条時頼、北条重時の未亡人らにも働きかけ、御成敗式目第12条(悪口の咎)にあたる日蓮の処罰を訴えたことなどが主張されており、良観の報復であるとする。

 

912日夕刻、頼綱は数百人の兵士を率いて日蓮の逮捕に向かった。その際、兵士らが松葉ヶ谷の草庵に経典類を撒き散らし、法華経の巻軸をもって日蓮を打擲するなどの暴行を働いたが、日蓮は頼綱に対して日蓮を迫害するならば内乱と外国からの侵略は不可避であると主張し、諫暁した。頼綱は日蓮を馬に乗せて鎌倉中を引き回し、佐渡国守護である北条宣時の館に「預かり」とした。

 

頼綱は同日夜半、日蓮を龍の口の刑場へと連行した。当時、裁判など規定の手続きを経ず斬首に処すというのは、御成敗式目にも反したものであった。種種御振舞御書によれば、日蓮が斬首の場に臨み刑が執行されようとする時、江の島の方角から強烈な光り物(発光物体)が現れ、太刀を取る武士の目がくらむほどの事態になって刑の執行は中止されたとある。

 

文永八年九月、日蓮とともに刑場に同行した四条金吾に宛てた書簡において『貴辺たつのくちまでつれさせ給ひ』『月天子は光物とあらはれて竜の口の頸をたすけ』『(法華経)安楽行品に云く、「刀杖も加へず」』『()普賢品に云はく「刀尋(つ)いで段々に壊(お)れなん」』等と、その際の様子を振り返っている。また、立正安国論を時頼に提出する際、それを介した宿屋入道は、この龍の口の法難の後、日蓮に帰依している。宿屋入道は禅の篤信者で寺を寄進するほどだったが、日蓮の弟子になった後には自宅を寺としている。

 

文永八年、日蓮は弟子日朗に宛てた土籠御書において、法華経安楽行品第十四を引用し『天諸童子 以為給使 刀杖不可 毒不能害』(天の諸の童子、以て給使を為さん。刀杖も加えず、毒も害すること能わず)と自身の境涯を説いている。

 

日蓮は「開目抄」で「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑(ねうし)の時に頸はねられぬ」と述べて、それまでの日蓮はひとまず終わったと述べている。また「三沢抄」では、自身が佐渡流罪以前に述べてきた教えは、釈尊の爾前経のようなものであると説いている。日蓮は龍の口の法難以後、新たな境地に立って布教を開始した。佐渡に出発する前日(109日)には、初めての文字曼荼羅本尊(「楊枝本尊」と称される)を図顕している。

 

日蓮は、相模国依智(現在の神奈川県厚木市依知)にある佐渡国守護代・本間重連の館に護送され、1か月ほどそこに留め置かれ、最終的に佐渡へ向かった。この法難で迫害を受けたのは日蓮一人ではなく、鎌倉の門下260余人がリストアップされ、逮捕・監禁、追放、所領没収などの処分を受けた。

 

佐渡流罪

「開目抄」

文永8年(1271年)1010日に依智を出発した日蓮護送の一行は、1028日、佐渡に到着し、111日、配所である塚原三昧堂に入った。日蓮には日興など数人の弟子が随行していた。塚原三昧堂は、名前の通り墓(塚)のある野原に建てられた粗末な小堂で、冬は雪が吹き込む建物であり、与えられた食糧も乏しく極めて厳しい環境だった。

 

配所に到着した日蓮は、直ちに「開目抄」の執筆に着手、翌年2月に完成させた。執筆の背景には、法難によって多くの門下が信心に疑問を持ち、退転していった状況があった。門下の疑問とは、法華経の行者には諸天の加護があるはずであるのに何故、日蓮とその門下に加護がなく迫害を受けるのか、というものであった。日蓮は今後の布教のためにも、この疑問に答える必要があった。

 

日蓮はこの疑問に答えるために、まず末法の衆生が帰依すべき主師親の当体を儒教(中国古代思想)、外道(インド古代思想)、内道(仏教)の検証を通して明らかにしようとする。仏教とそれ以外の宗教の検討の後、さらに仏教内部の教について大乗教と小乗教、大乗の中でも妙法蓮華経とそれ以外の経、法華経の中でも前半(迹門)と後半(本門)、本門の中でも文上本門と文底本門との勝劣を論じ、結論として妙法蓮華経の文底本門の教である南無妙法蓮華経が、末法に弘通すべき正法であることを明らかにしていく。

 

「開目抄」では、教の検証を通して諸宗が教の浅深勝劣を知らずに謗法を犯しており、日蓮こそが教の勝劣を正しく知る真の行者、すなわち末法における主師親の主体であることを明らかにしていく。

「開目抄」に示された

「我日本の柱とならん、我日本の眼目とならん、我日本の大船とならん等とちかいし願いやぶるべからず」

との三大誓願は主(柱)・師(眼目)・親(大船)の表明と解される。

 

その記述を通して、先の疑問に対する答えが示される。すなわち行者に諸天善神の加護がない理由として

   経文や歴史上の先人の例に照らして、行者が難を受けるのはむしろ当然である

   行者が難に遭うのは、行者自身に謗法の罪があるからである

   迫害者に順次生に地獄に堕ちる重罪がある場合には、現世に現罰は現れぬ

   行者に諸天の加護がないのは、諸天善神が謗法の国を去っているためである、という4点を示して、その回答としている。

 

「開目抄」が完成した文永9年(1272年)2月、鎌倉と京都で幕府内部の戦闘が生じた(二月騒動)。幕府中枢が、北条一門の名越時章・教時兄弟と北条時宗の庶兄で、六波羅探題南方の職にあった北条時輔を謀反の罪を着せて誅殺した粛清事件である。日蓮が「立正安国論」で予言した自界叛逆難が現実のものとなった。

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