2026/01/28

日蓮(5)

「報恩抄」

建治2年(1276年)6月、日蓮は自身の剃髪の師である道善房が死去したとの知らせに接し、道善房の恩に報ずるため、翌月「報恩抄」を完成させ、清澄寺時代の兄弟子である浄顕房・義浄房に宛てて同抄を送った。「報恩抄」の内容は

     報恩の倫理を示す

     真言密教の破折を軸に正像末の仏教史を概観する

     三大秘法の法理を示す

3点に要約される。

 

本抄の冒頭では

「夫れ老狐は塚をあとにせず、白亀は毛宝が恩をほう(報)ず。畜生すらかくのごとし。いわうや人倫をや」

と報恩こそが倫理の根本であることを示し、末尾では

「日本国は一同の南無妙法蓮華経なり。されば花は根にかへり真味は土にとどまる。此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし」

として、日蓮が南無妙法蓮華経を弘通した功徳が故道善房に帰していくと述べられている。日蓮の実践が全て師・道善房への報恩・回向になっているとの趣旨である。

 

②の真言密教破折については、「撰時抄」では触れられなかった第5代天台座主・智証大師円珍に対する破折や、弘法大師空海の霊験の欺瞞性を暴露するなど「撰時抄」よりもさらに踏み込んだ内容が見られ、日蓮による密教破折の集大成ともいうべきものになっている。

 

本門の本尊・戒壇・題目という「三大秘法」の名目は、身延入山直後に書かれた「法華取要抄」で示されていたが、「報恩抄」は三大秘法の内容を初めて説示した著述として重要な意義を持つ(ただし、本門の戒壇については名目を挙げるにとどめられている。戒壇の意義が説かれるのは、弘安5年(1282年)の「三大秘法抄」まで待たねばならない)。

 

本門の本尊について「報恩抄」では

「一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし」

と説かれる。

この文の解釈は各宗派で異なる。たとえば日蓮宗では、この文の「本門の教主釈尊」を文上寿量品に説かれる久遠実成の釈迦仏とするのに対し、日蓮正宗では釈迦仏を正法・像法時代の教主とする立場から、この「本門の教主釈尊」を本因妙の教主釈尊、すなわち日蓮自身であるとする。

 

本門の題目については

「三には日本乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし。此の事いまだひろまらず。一閻浮提の内に仏滅後二千二百二十五年が間一人も唱えず。日蓮一人、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱うるなり」

と説かれる。

 

身延において日蓮は膨大な書簡や法門書を執筆し、多くの文字曼荼羅本尊を図顕して門下を教導した(現存する日蓮真筆の曼荼羅本尊は120余幅を数える)。時には百人を超える門下が参集して、妙法蓮華経の講義を受けている。日蓮の妙法蓮華経講義を、後に日興門流がまとめたのが「御義口伝」、日向門流がまとめたのが「御講聞書」とされている)。

 

熱原法難

日蓮の身延入山後、弟子の日興を中心に富士方面で活発な弘教が展開された結果、日興が供僧をしていた四十九院や岩本実相寺、龍泉寺などの天台宗寺院で住僧や近隣の農民らが改宗して、日蓮門下となる状況が生まれていた。その動きに対して、各寺院の住職らは反発して日蓮門下となった住僧らを追放するなど対抗したため、日蓮門下と天台宗側との抗争が生じた。天台宗側は北条得宗家と結びついており、幕府権力を後ろ盾として日蓮門下に圧力を加えた。

 

抗争が頂点に達したのは、弘安2年(1279年)921日である。熱原龍泉寺の院主代・行智は、稲刈りに多数の農民信徒が集まっていた機会をとらえ、武装した武士の騎馬集団を用いて20人の農民信徒を捕えた。信徒は鎌倉に連行され、北条得宗家の家政をつかさどる内管領(ないかんれい)を兼務していた平頼綱の取り調べを受けた。

 

日蓮は、この事件を日蓮門下全体にわたる重大事件ととらえ、鎌倉の中心的信徒である四条金吾に書簡を送り、拘束されている農民信徒を励ましていくよう指示している。日蓮は、農民信徒が厳しい取り調べにも屈することなく信仰を貫いている事実を知り、自身の生涯の目的(「出世の本懐」)を遂げたと述べている。なお、行智側から農民信徒を告発する訴状が出されたので、日蓮はそれに対する陳状(答弁書)の文案を作成して法廷闘争に備えた。同申状で、日蓮は自身について「法主聖人」と述べている。

 

捕えられた20人の信徒が一人も妙法蓮華経の信仰を捨てなかったため、平頼綱は尋問を打ち切り、1015日、3名を斬首、余を禁獄処分とした。迫害はその後も続いたが、日蓮は龍泉寺の住僧だった門下を下総の富木常忍の館に避難させるなど、事態の収拾に努めている。

 

なお、日蓮正宗では「出世の本懐」について、熱原法難を受けて弘安21012日に図顕した本門戒壇の本尊(大石寺所蔵)を指すとするが、日蓮宗等の他の宗派ではこの解釈を認めておらず、板本尊自体も後世の作としている(同本尊は日蓮が孫弟子・日禅に授与した本尊を模刻して、後世に作成されたものとの説が出されている)。

 

弘安の役

蒙古(元)は、弘安2年(1279年)3月に南宋を滅ぼすと、旧南宋の兵士を動員して日本に対する再度の遠征を計画した。高麗から出発する元・高麗の東路軍4万人と、江南から出発する旧南宋の兵士10万人の江南軍に分け、合流して日本上陸を目指すという計画だった。弘安45月、東路軍が高麗の合浦(がっぽ)を出発、対馬・壱岐に上陸して住民を殺害した後、66日、江南軍との合流を待たず、東路軍だけで博多湾に到着し、上陸作戦を開始した。東路軍と江南軍は、7月初旬、平戸島付近でようやく合流したが、閏71日、大型台風の直撃を受け、壊滅的な被害を出した。元・高麗軍は戦意を失い、高麗と江南に退却していった。

 

弘安の役に際し、戦地に動員されることになっていた在家門下・曾谷教信に対し、日蓮は

「感涙押え難し。何れの代にか対面を遂げんや。ただ一心に霊山浄土を期せらる可きか。たとい身は此の難に値うとも心は仏心に同じ。今生は修羅道に交わるとも後生は必ず仏国に居せん」

と、教信の苦衷を汲み取りながら、後生の成仏は間違いないと励ましている。

 

弘安の役は、前回の文永の役とともに、日蓮による他国侵逼難の予言の正しさを証明する機会だったが、一方で承久の乱の再来とはならず真言僧の祈祷で勝利した。『富城入道殿御返事』では、予想外の事態に困惑している様子がうかがえる。日蓮は門下に対して、蒙古襲来について広く語るべきではないと厳しく戒めた。

 

再度の蒙古襲来とその失敗を知った日蓮は、台風がもたらした一時的な僥倖に浮かれる世間の傾向に反し、蒙古襲来の危機は今後も続いているとの危機意識を強く持っていた。日蓮系各派では元寇襲来的中は度々言及されるが、日本の敗北を予言していた点に言及されることはあまりない。そのため、元寇後の鎌倉幕府の滅亡に比定する解釈がされることがある。

 

文永六年の立正安国論奥書には、蒙古襲来について

「西方大蒙古国より我が朝を襲ふべきの由牒状之を渡す。(中略)之に準じて之を思ふに未来もまた然るべきか。(中略)是偏に日蓮の力に非ず、法華経の真文の感応の致す所か」

とある。

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