太宰府
『寛永諸家系図伝』によれば、道真が筑紫にいたとき、兄“前田”と弟“原田”2人の息子を授かったという。
大宰府での生活は厳しいもので、「大宰員外帥」と呼ばれる名ばかりの役職に就けられ、大宰府の人員として数えられず、大宰府本庁にも入られず、給与はもちろん従者も与えられなかった。住居として宛がわれたのは、大宰府政庁南の荒れ放題で放置されていた廃屋(榎社)で、侘しい暮らしを強いられていたという。また、時平の差し向けた刺客が道真を狙って、謫居周辺を絶えず徘徊していたという。
謫居には、左遷時に別れをあまりにも悲しみ慕われたため仕方なく連れてきた姉紅姫、弟隈麿幼い2人の子供がいた。『菅家後集』「慰少男女詩」で、親子で励ましあって一緒に生活していたことが綴られている。また、2人を連れて館のまわりを散歩していると、小さな池にたくさんの蛙がおり、親兄弟が揃ってにぎやかに鳴き声をあげていた。その声を聞いていた道真が、離れ離れになった家族のことなどを思い出して一首詠むと、歌を聞いた池の蛙たちは、不遇な道真たちの心を察したのか、こののち鳴かなくなったという伝承がある。
しかし、902年秋頃に弟の隈麿が他界、数か月後に左遷時に病床にあった妻も他界し、その10日後に道真も他界した。残された紅姫は、亡き父から託された密書を四国にいる長兄菅原高視に届けるために、密かに大宰府をたった。藤原氏の追手が迫る中、若杉山麓に身を潜め、山上の若杉太祖神社に守護を祈願したが、いつしか刺客にみつかり篠栗の地で非業の最期を遂げたという。現在は、紅姫稲荷神社に紅姫天王という稲荷神として祀られている。
道真が大宰府に流されたとき、道真を慕ってついてきた時遠という従者が鳥栖に隠れ住んでいた。鹸老いて子供のいない時遠を憐れみ、道真は我が子長寿麿を養子にやったという。道真は時々、長寿麿の元を訪ね池に映った自分の肖像画を描き子にあたえたという。その池が元町に残る(鏡姿見の池)で、道真が腰掛けた石とともに伝わっている。
道真公が藤原氏の刺客から逃れるため、板屋まで逃げてきたことがあった。数日後、太宰府へ発つさい、親切にしてくれた板屋の民家に同伴の子どもを預けた。これが、板屋の「真子」姓の始まりとされ、その子孫が奉納したという道真と、その母と妻二組の像が北山神社のご神体となっている。
道真は太宰府に向かう途中、津和田村の「千早の杜」を訪ね、そこで
「わがたよる千早の宮のます鏡くもらぬすがたうつしてぞゆく」
「ふりかえりかへり行くかも別れにし、千早の杜の見ゆるかぎりは」
と詠み、連れ子の好寛を隣村の中務家に預けたという。
梅ヶ枝餅は、道真が大宰府へ員外師として左遷され悄然としていた時に、老婆が道真に餅を供しその餅が道真の好物になり、道真の死後老婆が梅の枝を添えて餅を墓前に供えた、或いは、道真が左遷直後軟禁状態で食事もままならなかったおり、老婆が軟禁部屋の格子ごしに梅の枝の先に餅を刺して差し入れたという伝承が由来とされる。
左遷のおり、道真の母の霊が息子を心配し、京都伏見稲荷大社から稲荷神を遣わせ、大宰府の石穴神社に鎮まったとする伝承がある。稲荷神は道真の配所に稲穂を届け、飢えを救ったという。
あるとき、葦の生い茂る沼周辺で大鯰が顔を出して、通行人の邪魔をしていた。道真は、これを太刀で頭、胴、尾と三つに斬り退治したという。その遺体がそれぞれ鯰石となり、後に雨を降らす雨乞いの石として、地元の人々に大切にされたという。
延喜2年(902年)正月7日に道真自ら悪魔祓いの神事をしたところ、無数の蜂が参拝者を次々と襲う事件がおきた。そのとき鷽鳥が飛来して蜂を食いつくし、人々の危難を救ったのが鷽替え神事の由来とされる。また他にも道真が賊に襲われたとき、牛が身をていして守ってくれた伝説や、道真が難破に巻き込まれたとき、昔飼っていた愛犬の霊が宿った犬石が助けてくれたという犬島伝説が伝わる。
道真が、いろは歌の作者とする説がある。7段書きにした場合に下の部分が「咎なくて死す」となるため、『菅原伝授手習鑑』を契機に、江戸時代中期頃広まったという。
晩年、道真は無実を天に訴えるため、身の潔白を祭文に書き七日七夜天拝山山頂の岩の上で爪立って、祭文を読上げ天に祈り続けた。すると、祭文は空高く舞上り帝釈天を過ぎ梵天まで達し、天から『天満大自在天神』と書かれた尊号がとどいたという。
飛梅伝説
道真が京の都を去る時に、庭に植えられた梅の木に
「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」
いう和歌を詠んだ。
その梅が、京の都から太宰府の道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」が存在する。また、同様に松の木も京都から飛び立ったが、須磨(現在の神戸市須磨区板宿町板宿八幡神社)で力尽きて落ちたという「菅公の飛松」の伝説もある。
薨去の地に関する伝承
身の危険が迫り、筑前から船で水俣湾を経て鹿児島県薩摩川内市湯田町に上陸し、薩摩川内市城上町吉川を経て、同市東郷町藤川の藤川神社で隠棲し薨去したとされる。その経路には、船繋石・御腰掛石などの史跡が残っている。また、吉川では菅原道真を奥座敷に納戸にかくまったことから、年中行事として村人が集まり女子は左右の袖を広げて男子を隠して、奥座敷に潜ませる真似をする風習が残っている。
他に『放ちの鐘伝承』がある。迫る刺客に危険を感じた菅原道真は、舟で南下する途中にお告げのあった湯田川河口奥の大きな石に舟を繋ぎ(菅公舟繋ぎ石)降りて鈴を鳴らすと潮が引き、持ち物共々船は河口から沖へと消え、身軽になった道真は幾山を越え東郷の地を辿り、藤川にて天神になったという。その後、湯田川河口は放し事を下げ潮時に念じれば叶う聖地となった。
怨霊伝説と北野信仰
道真を怨霊と見る向きが決定的になったのは、延喜23年(923年)に醍醐天皇の皇子保明親王が薨去し、これを受けて道真の復権が行われた頃だと見られている。さらに延長3年(925年)に保明親王の皇子慶頼王、承平3年には時平の長男保忠が没しており、これも道真の怨霊説を補強する形となった。
清涼殿落雷事件(930年)によって道真の怨霊は雷と結び付けられ、朝廷は火雷神が祀られていた京都北野寺の寺内社北野神社に道真を祀った。太宰府には、先に醍醐天皇の勅命によって藤原仲平が建立した安楽寺の廟を安楽寺天満宮に改修して、道真の祟りを鎮めようとした。また時平の弟藤原忠平の子藤原師輔は北野神社を支援し、天徳3年(959年)に祭文を捧げ、社殿を造営している。師輔は兄であり、時平の娘を妻としていた藤原実頼の家と競っており、道真の怨霊の強調は実頼の系統を圧迫する目的があったのではないかという説がある。
正暦4年(994年)には疫病が流行し、これは道真の祟りとして正二位・左大臣が贈られている。一方で寛和2年(982年)には、慶滋保胤が道真を学問の神として祀る祭文を挙げており、寛弘9年(1012年)には大江匡衡の祭文によって学問の神的側面が強調されている。また冤罪を晴らす神としての信仰もあり、『栄華物語』には太宰府に配流された藤原伊周が雪冤を願って太宰府天神を参詣する姿が描かれている。以降、北野信仰は中・下層階級から摂関家に至るまで広まった。
江戸時代には、昌泰の変を題材にした芝居、『天神記』『菅原伝授手習鑑』『天満宮菜種御供』等が上演され、特に『菅原伝授手習鑑』は人形浄瑠璃・歌舞伎で上演されて大当たりとなり、義太夫狂言の三大名作のうちの一つとされる。現在でも、この作品の一部は人気演目として繰返し上演されている。
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