2026/01/23

日蓮(4)

「観心本尊抄」

文永9年(1272年)の初夏、日蓮の配所は塚原三昧堂から国中平野の西方に位置する一谷(いちのさわ)に移された。それまで日蓮を保護してきた守護代・本間重連が佐渡を離れたことに伴う処置であった。居住環境という点では改善されたが、念仏者らに命を狙われるという状況はまだ続いていた。この頃、門下の中に日蓮の赦免を幕府に嘆願しようとする動きがあったが、それを知った日蓮は赦免運動を厳しく禁じている。

 

文永10年(1273年)4月、日蓮は自身が図顕した文字曼荼羅本尊の意義を明かした「観心本尊抄」を著した。本抄では、曼荼羅本尊を受持して南無妙法蓮華経の唱題を行ずることが成仏への修行(観心)であることを示し、日蓮の仏教における実践を明らかにしている。

 

文永104月、富木常忍に宛てた観心本尊抄副状において

『此の事日蓮当身の大事なり。(中略)未聞の事なれば人の耳目之を驚動すべきか。(中略)国難を顧みず五五百歳を期して之を演説す』

等とある。

 

「観心本尊抄」では、まず天台大師が『摩訶止観』で説いた一念三千の法理と草木成仏の義を確認し、紙や木の板に記される曼荼羅が仏の力用を持つ所以を示す。次いで、十界互具の法理について詳細に論じ、妙法が一切の仏を成仏させた能生の存在である故に、妙法を受持することによって仏が有する一切の功徳を譲り受けることができると説いている。

 

後半では、本尊について妙法蓮華経の前に書かれた爾前権教、法華経の迹門・文上本門・文底本門の段階を追って説かれる。経典を序分・正宗分・流通分にわける三分科経を五重にわたって論じ(五重三段)、文上本門が脱益の法門であるのに対し、題目の五字(南無妙法蓮華経)こそが末法に弘通する下種益の法門であることを明らかにしている。

 

「顕仏未来記」

文永10(1273)の『顕仏未来記』では、釈迦、智顗、最澄等の生きた時代に生まれなかったことを嘆きつつも、末法の自分は広宣流布・仏法西遷の使命があると決意している。

 

赦免

佐渡配流において日蓮は生命の危機に直面したが、その中でも多くの著作を残して自身の思想を展開していった。また「佐渡百幅」といわれるように、多くの曼荼羅本尊を図顕して門下に授与した。さらに、佐渡在住の人々から阿仏房日得や国府入道、中興入道など多くの門下が生まれている。

 

文永11年(1274年)2月、執権・北条時宗は日蓮の赦免を決定し、赦免状が38日に佐渡にもたらされた。佐渡配流が根拠のない讒言によるものであったことが判明し、また蒙古襲来の危機が切迫してきたためである。日蓮は313日に佐渡を発ち、326日に鎌倉に帰還した。佐渡の在島期間は、25か月であった。

 

身延期の活動

身延入山

文永11年(1274年)48日、日蓮は幕府の要請を受けて平頼綱と会見した。頼綱は丁重な態度で、蒙古襲来の時期について日蓮に尋ねた。日蓮は年内の襲来は必然であると答えた。頼綱は寺院を寄進することを条件に日蓮に蒙古調伏の祈禱を依頼したが、日蓮は諸宗への帰依を止めることが必要であるとして、その要請を拒絶したと伝えられる。日蓮は蒙古調伏の祈禱を真言師に命ずるべきではないと頼綱を諫めたが、頼綱はそれを用いなかった。

 

「立正安国論」提出時、文永8年の逮捕時、さらに今回と3回にわたる諫暁も幕府に受け入れられなかった日蓮は、これ以上幕府に働きかけるのは無意味と考え、鎌倉を退去することにした。そこで、日興の勧めに従い、517日、日興の折伏で日蓮門下になっていた南部実長(波木井実長)が地頭として治める甲斐国身延(現在の山梨県身延町)に入った。その間も日蓮は著述活動を持続し、身延到着後まもなく日蓮自身の法華経観をまとめ、三大秘法の名目を挙げた「法華取要抄」を完成させている。

 

鎌倉退去の後も日蓮は幕府にとって警戒の対象になっており、対外的には「遁世」の形であったから、身延入山後は門下以外の者と面会することを拒絶し、入滅の年に常陸の湯に向かう時まで身延から出ることはなかった。訪問客は多く来ていたが、わずらわしいと述べている。身延山中は大雪が降ることもあり、体調を崩しがちになる。

 

文永の役

文永11年(1274年)10月、3万数千人の蒙古・高麗軍が対馬と壱岐島に上陸、防備の武士を全滅させ、さらに博多湾に上陸した。日本の武士は、蒙古軍の集団戦術や炸裂弾(てつはう)や短弓・毒矢などの武装に苦しめられ、戦闘は一週間ほどで終了したが、日本側は深刻な被害を受けた。日蓮は2年後の建治2年(1276年)に記した「一谷入道御書」で、対馬・壱岐の戦況を記述している。

 

幕府は文永の役の後、再度の襲来に備えて戦時体制の強化を図り、防塁の建設や高麗出兵計画のため、東国から九州へ多数の人員を動員した。日蓮は故郷から離れて戦地に赴いた人々の心情を詳しく述べている。

 

「撰時抄」

日蓮は蒙古襲来を深く受け止め、その意味を思索した。その結論を記したのが、文永の役の翌年建治元年(1275年)に著した「撰時抄」である。そこでは、蒙古襲来は日本国が妙法蓮華経の行者を迫害する故に諸天善神が日本国を罰した結果であるとし、妙法蓮華経に従わない鎌倉中の寺や鎌倉大仏を焼き払い、禅僧・念仏僧を由比ヶ浜でことごとく処刑せよと述べている。

 

また、妙法蓮華経に従わないばかりか真言僧が敵国降伏の祈祷をしているので、日本の滅亡はやむなしという悲観的な様子もうかがえる。一方で日蓮は、蒙古襲来などの戦乱の危機は日本に妙法が流布する契機となると述べている。

 

「撰時抄」で日蓮は「時」を中心に仏教史を論じ、末法は釈尊の「白法」が隠没し、それに代わって南無妙法蓮華経の「大白法」が流布する時代であるとする。すなわち日蓮の弘通する南無妙法蓮華経は、従来の仏教を超越した教であることを明確にしている。

 

さらに「撰時抄」では、仏教史の記述を通して念仏・禅・真言に対する破折がなされるだけでなく、それまで示されることのなかった台密破折が示されている。天台宗の密教化をおし進めた第3代天台座主の慈覚大師円仁を、安然・源信と並べて「師子の身の中の三虫」と断ずる。東密(真言宗)だけでなく、台密(天台宗)までも破折の対象にしているのが「撰時抄」の大きな特徴となっている。その上で、日蓮自身について「日本第一の行者」「日本第一の大人」「一閻浮提第一の智人」との自己規定が見られる。

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