人物像
梅ヶ枝餅とカレイと醤油ご飯が好物だったという伝承がある。他に、柿を庶民に普及したという言い伝えも残っている。
茶に関する故実を調査・研究し、世間に喫茶の習慣を広めたため、茶聖菅公と称されたという。
乗馬を好み、通勤は馬でおこない、讃岐での遠出や右近の馬場での桜狩りなど、趣味でも馬を走らせていたという。のちに、天神乗りという騎乗法が伝わり、馬術の師として祀られることになる。
政治の合間に和歌を吟詠しては、その草稿を「瑠璃壺」に納めていた。左遷の時、その壺を携えて筑紫に下り、見るもの聞くものにつけて感じるままに和歌を詠み、百首を新たに壺に納め、道真が逝去後、壺は白太夫の手に渡ったという。別の伝承では、道真が大宰府へ赴いたとき、宇佐のほとりで龍女が現れ、「瑠璃壺」を承ったという。
学問だけでなく、武芸(弓道)にも優れ、若い頃は都良香邸で矢を射れば百発百中だったという伝承がある。また、大蛇に苦しめられたため、自ら矢で射て退治したという逸話もある。
宝剣「天國」、宝刀「神息」、神刀「猫丸」/脇差「小猫丸」、毛抜形太刀〈無銘/〉(伝天國)、菅公御佩用の御太刀、銀の太刀など様々な太刀を常に佩刀していたという。また、河童の大将や大鯰を斬り殺したという逸話も残っている。
刀工として、古代の名工の一人に数えられている。
子はおよそ23人、またはそれ以上に上るとされ、長男高視が産まれる以前の、文章得業生の頃には既に子があったという。
「和魂漢才」という言葉を生み出したとされる。日本固有の精神「大和魂」と、中国伝来の学問「漢才」という対なる概念のことで、また、その両者を合わせるといった思想。のちに和魂洋才という言葉が派生した。ただし、この言葉が出てくる『菅家遺誡』は、鎌倉時代から室町時代に成立したと見られており、後世に平田篤胤によって加筆改竄された偽書ではないか、という指摘がなされている。
心だに 誠の道にかなひなば 祈らずとても 神や守らん(人は、心さえ誠の道にそっていれば、あらためて祈りを捧げなくても、神がきっと守ってくれるだろう。)
勝楽寺延命院には、讃岐国が栄えるよう道真が「一」の字を奉納したという言い伝えがある。「一」には物事のはじめ、又は全体を知るという意味があり、古来よりこの「一」と縁を結べば諸願成就すると言われている。
菅原家は代々焼物、神聖文字、占呪法(気・密教・呪術等の秘法)、土木事業、行事、儀式、法律等を祖業とし、道真もこれを受け継いでいる。また、仙人、道士を研究し秘法の実践に余念がなかった。
伊勢神宮には、神代文字で書かれた道真の奉納文が残されている。また、道真を遠祖とする副島家には、道真のものとする御神印が伝わっている。直系子孫の塩小路家には、祖父清公が始め道真が完成させた神と対話する為の神聖文字として、菅家塩小路篆刻道が現代まで継承されている。
出来事
元慶8年(884年)、道真が40歳の頃に叔母である覚寿尼のいる道明寺に4~7月まで滞在した。その時、夏水井の水を汲み青白磁円硯で、五部の大乗経の書写をしていた。すると、二人の天童が現れ、浄水を汲んで注ぎ写経の業を守護し、白山権現、稲荷明神が現れ、筆の水を運び、天照大神、八幡神、春日大明神が現れ、大乗経を埋納する地を示したという。そこに埋納すると「もくげんじゅ」という不思議な木が生えてきたという。
同年、畿内が大旱魃にみまわれたため、陽成天皇の勅命により道真が奉幣使として意賀美神社にて祈雨祈願したところ、たちどころに雨が降るという霊験があったという。
『菅家瑞応録』によれば、9歳で善光寺に参拝したおり、問答に才を顕し、10歳の時には、内裏での福引の御遊に集まった公卿たちに忠言したという。
17歳で清水寺に参拝したさい、田口春音という捨子を拾い養育したという。春音は大宰府まで同行し、道真逝去後は出家し、道真の菩提を弔ったという。
久米仙人の修行の様子が龍門寺の扉に描かれ、道真の文と共にしばらくの間残ったとする文献がある。
讃岐
仁和4年(888年)、讃岐の国で大旱魃が起こり、讃岐守に就いていた道真がこれを憂い、城山で身を清め七日七晩祭文を読上げたところ、見事雨に恵まれたという。
そのさい、道真が舞ったとされる踊りが西祖谷の神代踊として伝わっており、民衆が喜び踊り狂ったものが滝宮の念仏踊の起源とされている。
道真が讃岐守に就いていた頃、側に仕えていたお藤という女性と恋仲になり、愛妾にしたという。
極楽寺の明印法師という僧と親交を深めたとされ、極楽寺の由緒を話したり、道真から寄付をうけたり、詩文を贈答されたり、道真が一時帰京した際には、わざわざ京まで逢いにいったという。
おとぎ話『桃太郎』は、道真が讃岐守に就いていた時分に、当地に伝わる昔話をもとに作り上げ、それを各地に伝えた、という伝説が女木島に伝わっている。
また、『竹取物語』の竹取の翁の名が「讃岐造」であること、自身の神秘的な出生にまつわる伝承から、道真が作者ではないかという説がある。
右大臣
寛平2年(890年)の頃、與喜山で仕事をしていた樵夫の小屋に、何者かが「これを祀れ」と木像を投げこんだという。樵夫はその頃、長谷寺に道真が参詣に来ていたので、「木像は道真公の御作ではないか」と思い、大切に祀ったという。その像が、與喜天満神社に現存する木造神像として伝えられている。
寛平7年(895年)に法華経や金光明経を手写し、伊香具神社へ納経したという。
また、道真自刻として伝わる志明院の眼力不動明王、清閑寺の十一面千手観音像、大報恩寺の千手観音立像、他に、住吉神社の神鏡、氣比神宮の為当太神御神幣有奉納鉾太刀など、さまざまなものを神社仏閣へ奉納している。
寛平8年(896年)2月10日、勅命により道真が長谷寺縁起文を執筆していたところ、夢に3体の蔵王権現が現れ、「この山は神仏の加護厚く功徳成就の地である」と、告げられたという。
昌泰元年(898年)10月17日、夢に祖父清公が現れ補陀落に行きたいと懇願されたので、道真は長谷寺で忌日法要したという。
また、同時期に百人一首の舞台ともなった宇多天皇御一行遊覧のさい、「人々以為らく、今日以後の和歌の興衰を」と、いずれ漢詩にかわり和歌が台頭することを予見している。
醍醐天皇の時世に、道真が谷汲山華厳寺の岩屋に参籠し、毎日、お経を書いていると、白石山の淵に住む乙姫が毎朝早く、ご飯の炊事・洗濯に使用している「姫ヶ井の泉」の清水を「閼迦の水」として道真に与えていた伝承がある。乙姫の歌として
「このころは汲みては知らん山の井の 浅さ深さを 人の心に」
が残されているが、不思議なことに、道真以外にこの乙姫の姿を見られた者はいなかったという。
醍醐天皇の命により、災いを起こす人魚を道真が小野の地で退治した伝承が、四角柱の人魚塚とともに残されている。
0 件のコメント:
コメントを投稿