2015/02/20

精進料理(世界遺産登録記念・日本料理の魅力)(11)

仏教が大陸から流入してきた頃から、すでに精進料理は存在した。

 

神道の場合においては、仏教よりも肉食への規制は緩かったものの「信仰する神とゆかりのある動物の肉は禁忌とされ、そうした肉のみを除外した料理も一種の精進料理(春日大社の鹿肉、八幡神社の鳥肉など)」と言った。

 

精進料理が本格的に発達したのは、鎌倉時代以降とされる。鎌倉時代以降の禅宗の流入は、特に精進料理の発達に寄与した。平安時代までの日本料理は魚鳥を用いる反面、味が薄く調理後に調味料を用いて各自調製するなど、未発達な部分も多かった。それに比べて禅宗の精進料理は、菜食であるが味がしっかりとしており、身体を酷使して塩分を欲する武士や庶民にも満足のいく濃度の味付けがなされていた。

 

味噌やすり鉢といった調味料や調理器具、あるいは根菜類の煮しめといった調理技法は、日本料理そのものに取り入れられることになる。また豆腐、氷(高野)豆腐(凍豆腐)、コンニャク、浜納豆(塩辛納豆ともいう)、ひじきといった食材も精進料理の必須材料として持ち込まれたと考えられる。

 

禅宗のうち曹洞宗では、開祖の道元禅師が宋に仏教を学びに渡った時、阿育王山の老典座との出会いから、料理を含めて日常の行いそれ自体がすでに仏道の実践であるという弁道修行の本質を知ったことから、料理すること、食事を取ることは特に重要視されている。道元が帰国後書いたのが『典座教訓』(てんぞきょうくん)と『赴粥飯法』(ふしゅくはんぽう)で、ここから永平寺流の精進料理が生まれたという。

 

永平寺では、料理を支度することが重要な修行のひとつであり、庫院(調理場)の責任者である典座は重役の一員に数えられている。江戸時代には、料理屋でも寺院の下請けで仕出したり、仏教活動とは無関係に文人墨客向けに調製することが多くなっていた。京都大徳寺の精進料理は前者、飛騨高山の精進料理は後者の典型的なケースであり、いずれも分離していった懐石料理の手法を再び取り入れたりして、寺院のそれとはやや異なる風雅なものを生み出している。

 

精進料理はすでに記してきた通り、日本料理にも影響を与えて成長を促してきた。 永平寺式の精進料理は、室町時代から江戸時代前期にかけて普及した本膳料理に通じる。また懐石料理は、精進料理から派生したものである。現在でこそ、(同音異義の会席料理との混同もあり)豪華なものとなっているが、当初は質素で季節の味を盛り込んだものであり、精進料理の精神が活かされたものであった。

 

普茶料理は、中国料理の調理法が日本風にアレンジされながらも伝来し、けんちん汁、のっぺい汁、葛粉を利用した煮物や炒め物、揚げ煮といった料理や調理法が普及した。

 

寺院仏閣の中には、参拝者を宿坊に泊め精進料理を提供して、仏門の修行の一端を体験させることをしているところも少なくない。参詣参篭が信仰の重要な一部となる天台宗・真言宗系の寺院に多い。また宿坊においては、料理と宿泊だけの提供もある。

 

長野県の善光寺には、参拝客を宿泊させる宿坊が数多く存在し、夕食に精進料理を供することが多い。出される精進料理は、本膳式の本格的なものから懐石料理風の現代的なタイプのものまで、様々である。一方、京都の寺院では、特に賓客用の精進料理を料理屋に一任したことが多かったため、寺院よりも周辺の料理屋に高度な精進料理が存在することが多い。大徳寺や妙心寺の周辺には、精進料理専門の老舗の料理屋がある。

 

これは普茶料理でも同様であり、黄檗宗の総本山である萬福寺周辺には、普茶料理を食べさせる料理屋が多い。  普茶料理には、料理屋で作られる独自のスタイルを止め、懐石料理風に仕立てた限りなく日本料理に近いタイプのものから、長崎の禅寺で作られる原点に近く、時としては現代の素菜を取り入れた中国料理に限りなく近いもの(長崎の禅寺の檀家には華僑が多く、お盆などでは中国や台湾からの来訪者も多いためとも考えられる)まで幅広く存在する。

出典Wikipedia

2015/02/15

開闢之初『古事記傳』



神代一之巻【天地初發の段】 本居宣長訳(一部、編集)
○「如2葦牙1(あしかびのごと)」葦は和名抄で「蘆は『兼名苑』に葭一名葦、『爾雅』注に一名蘆とあり、和名『あし』」と書かれている。「葦牙」は「あしかび」と読む。【書紀でもそう読んでいる。「び」を清音に読み「い」のように読むのは良くない。また「か」を「が」と濁るのも良くない。生まれた神の名であり、清濁の区別ははっきりしている。】葦がやっと芽生えたばかりの状態である。 「牙」の字は「芽」に通じる。和名抄では「玉編に『亂(正字は草冠に亂)タン(草冠に炎)である。タンは蘆が初めて生いること』とある。和名『あしづの』。」と言い【葦の初生を「角具牟(つのぐむ)」と言うので「あしづの」とも言うのである。】これが葦牙(あしかび)である。「如」と言うのは、その形が葦の芽に似ていたのであって、萌え上がるさまが似ていたというだけではない。【書紀にも「形如2葦牙1(かたちアシカビのゴトシ)」、「有レ物若2葦牙1(アシカビのゴトきモノあり)」などとある。単に「浮き脂」という語で漂っていた状態を喩えていたのとは、少し違っている。】これによって生まれた神の名にも「アシカビ」が入っていることで、それがよく似ていたことを知るべきである。

○萌騰之物は「もえあがるもの」と読む。【「之」の字を読んではいけない。】万葉巻十【八丁】(1847)に「春楊波目生来鴨(ハルのヤナギはモエニけるカモ)」、また(1848)「此河楊波毛延爾家留可聞(このカワヤナギはモエニけるカモ)」などがある。【木草の芽や葉がわずかに出始めたのを「め」と言うのは「もえ」が縮まった形だろう。「芽ぐむ」と言うのも「もえぐむ」から来ているだろう。】「騰(あがる)」という語は、書紀の神武の巻に「足一柱騰宮、此云2阿斯毘苔徒鞅餓離能宮1(足一柱騰宮、コレをアシひとつアガリのミヤという)」などがある。「物」は後に天になる物を言う。
この物はどこから出たかというと、虚空を漂う浮き脂のようなものの中から出たのだ。 書紀の一書に「一=物2在於虚中1、状貌難レ言、其中自有2化生之神1(おおぞらにヒトツのモノなれり。そのカタチいいガタシ。そのナカにオノズカラなれるカミあり)云々」、【「その中に」とあるのを考えよ。】また一書に「于時國中生レ物、状如2葦牙之抽出1也、因レ此有2化生之神1、號2可美葦牙彦舅尊1(トキにクニのナカにモノなれり。そのカタチあしかびのモエイズルがゴトシ、これにヨリテなりませるカミ、うましアシカビひこじのミコトともうす。)」【「国の中」とは、前述の「浮き脂のように漂っていたもの」の中ということである。】また一書に、「譬=猶2海上浮雲無1レ所2根係1、其中生2一物1、如3葦牙之初2生ヒジ(泥の下に土)中1也(ウナバラなるウキグモのカカルところナキガごとくなり。ソノナカにヒトツノものナレリ。アシカビのヒジのナカよりモエそめたるがゴトシ)」などとあるのを以て知るべきである。

ところで、これは天の始めであり、このように萌え上がって後に天になったのである。【これについて思うに、天を「あめ」と言うのは「葦萌え」が縮まって「し」を省いたものかも知れない。 葦はただ喩えに言った言葉だが、上記のように神の名にも含まれているからである。かの「浮き脂のようなもの」は天と地がまだ分かれず、一つに入り混ざった混沌の状態であったが、その中の天になる要素は、ここで萌え上がって天になり、地になる要素は残り留まって後に地になったのであって【地の形成は女男大神の段にある。】これが、まさしく天地が分かれたということである。
書紀の一書に「有物若2葦牙1生2於空中1、因レ此化神、號天常立尊、次可美葦牙彦舅尊、又有物若2浮膏1生2於空中1、因レ此化神、號國常立尊(アシカビのゴトクなるモノおおぞらにナレリ。コレにヨリてナリマセルかみのミナは、アメのトコタチのミコト、つぎにウマシあしかびヒコジのミコト。またウキアブラのゴトクなるモノおおぞらにナレリ。コレにヨリてナリマセルかみのミナは、クニのトコタチのミコト)」とある。ここで葦芽のようなものによって生まれた神は天常立、浮膏のようなものによって生まれた神は国常立と言い、天地が分かれたことを知るべきである。【ただしここで、浮き脂のようなものと、葦の芽のようなものが始めから別に生まれたように書いてあるのは、やや異なる伝えである。しかし天地の分かれたことは、この伝えで非常にはっきりする。

ある人は「この一書では、始めから天地が分かれていてよく分かるのに『浮き脂のようなもの』一つだけを天地の始めとするのは、いささか疑わしい。それが天地を兼ね備えたものだったら、始めに『天地稚く』とありそうなものなのに、天については言わず『國稚く』とあるからには、この『浮き脂』は実は後に地になった物質であって、天になる『葦芽』は、この一書のように初めから別に発生したのではないか」と言う。
答え。「その疑いももっともだが、以上に引いたように書紀の各伝も、多くは『浮き脂』から『葦芽』が生えたとしており、この記も、それほどはっきりとは言っていないが、同じく『浮き脂』から『葦芽』が萌え上がったように読めるので、やはり天になる要素と地になる要素は、いずれも『浮き脂』に包含されていたと考える。天については言わず『國稚く』と言ったのは、この伝承全体がこの国で語り伝えたことだから、国を主体にした言い方をしているのだ。書紀の本文で最初の五柱の神を省き、国常立尊を最初の神のように書いているのも、こうした心からであって国土を主体としたのだ。また天となる要素は上り去り、地となる部分は留まって地となった。後から見ると上り去った天は客分で、残り留まっている地は主人のようにも見えるので、初めからの記述をもっぱら地を主体として、それを『国』と言ったのもありそうなことだ。だから、この一書で初めから二つに分かれたような書き方をするにも『浮き脂』の方を地としたのではないだろうか。」】それなのに「これが天の始め」、「これが地の始め」などと画然とさかしらに言わず、ただその時々の神の誕生の由縁にこと寄せて、このようになだらかに語り伝えたのは、実にのどやかな上代の伝えであり、たいへん貴いことである。 ところで、こういう浮き脂のような物の発生も、それが分かれて天地となったことも、またその後に続く神々が生まれたのも、すべて二柱の産巣日の神の産霊の働きによるのである。

○「成神(ナリマセルかみ)」 このとき「葦芽のごときもの」から生まれた神は、この次に書かれている二柱の神であろう。前にも引いた書紀の一書第六に「有物若2葦牙1生2於空中1、因レ此化神、號天常立尊、次可美葦牙彦舅尊、又有物云々」と二柱を挙げてあり、国常立神が生まれたとするのは、別だからである。この記でも、この二柱を天つ神として段落を閉じており【もし天之常立神もこの「葦芽」から生まれたとすると、この物は天の素材なのだから国之常立神も天つ神となるが、そうでなく天つ神は天之常立神までである。】天之常立、国之常立という神名も、天と地に分かれているからだ。【「葦芽のごとくなるもの」は天の素材になったものであって、地の始めではないので国之常立神は、このものから生まれたはずはない。】しかし一概にそうとも言い切れず、伊邪那美神までが、この「葦芽のごとくなるもの」から生まれたと思われるふしもある。そのことは、国之常立神のところで述べる。

2015/02/09

二宮大饗(世界遺産登録記念・日本料理の魅力)(10)

正月、諸臣が中宮、東宮への拝謁を終えた後、朝廷から饗応に預かる物。殆ど記録が無く、具体的な献立内容や形式は不明。

 

大臣大饗

親王などの皇族が、大臣の屋敷を訪れた際の接待料理の形式。平安末期の『兵範記』に書かれた藤原基実の保元元年(1156年)「大臣大饗」は、永久4年(1116年)の藤原忠通のそれを参考とし、事前の準備は宴会予定日の9日前から始められ、赤漆塗の膳を特別に誂え、その膳の上には白絹を現在のテーブルクロスの如く敷き、これまた特別に誂えた折敷や漆塗の食器に料理を盛りつけたとある。

 

この時の具体的な内容は『類聚雑用集』に記録されているが、それによると献立の内容は参列者の身分によって異なっており、皇族の正客(「尊者」と記述される)は28種類、三位以上の陪席公卿は20種、少納言クラスでは12種、接待する主人が最も少なく8種となっていた。

 

献立内容は「飯」、調味料、生もの、干物、唐菓子(今のドーナツに近い)、木菓子(=果物類)、生ものには獣肉類は無く、魚介類、鳥類(雉など)で占められ、干物もアワビやタコ、蛙などで獣肉類は無い。調味料が別皿になっているところから見て、料理自体には味はなく食べる時に好みで調味料を付けながら食べた物と考えられる。

 

この調味料も身分によって差があり、尊者や公卿はひしおなど4種あったが、主人には塩と酢のみであった。また、食器として箸の他に鎌倉時代以降は衰退する匙(スプーン)が存在し、各料理を盛りつけた容器の大きさがほぼ同じで料理の序列が判然としていない点も、後の時代の料理とは異なる特徴といえる。

 

有職料理の誕生

鎌倉時代になり政治の実権が貴族から武士に移ると、大饗料理を維持することは困難となった。室町時代になると経済的・文化的にも武士の優位は動かしがたい物となり、武士も公家の文化を採りいれ武士独自の饗応料理として「本膳料理」の形式を確立する。公家も本膳料理の形式を取り入れつつ、独自の式典料理として「有職料理」の形式が次第にまとまっていった物と考えられる。この過程で、大饗料理には存在していた台盤や唐菓子などのチャイナ文化風味が欠落していったと思われる。

 

有職料理の変遷

江戸時代初期、徳川家光が行った二条城での後水尾天皇御成行事の際、天皇家側の料理人2名(高橋家、大隅家)、徳川幕府側の料理人2名(堀田家、鈴木家)の他、京都の町方の料理人から生間(いかま)家が抜擢されて調理に携わったことから、生間家は八条宮家の料理人をその後、代々拝命することになる。明治時代になり、桂宮家(八条宮家の後裔)が子孫断絶により絶家したため生間家も下野し、その料理法は京都の民間の限られた料亭に伝えられた。

 

現在、宮中でも皇族の結婚式などの中継で、会席料理などとは大きく異なる盛りつけの日本料理が見られることから、生間家が伝えた物とは別の有職料理が伝えられている物と思われるが、外国要人などの接待にはもっぱらフランス料理が使われており、極限られた儀式でしか食べられない物のようである。

 

形式

生間流29代家元でもある小西重義氏(生間 正保)が店主の料亭「萬亀楼」での有職料理の形式は、以下の通りである。

 

初箸

会席料理の「先付」にあたる

 

添え

会席料理の「小付」にあたる

 

椀物

お造り

 

嶋台

など。

 

特に生間流の場合は、造りの捌き方に「式包丁」という作法がある。一切魚に手を触れず、包丁と菜箸のみを使うのが特徴。

出典 Wikipedia

2015/01/20

くらげなすただよえる『古事記傳』



神代一之巻【天地初發の段】本居宣長訳(一部、編集)
次に、まだ国が生まれたばかりで、水に浮く脂のように形がはっきりしないまま虚空を漂っていた時、葦の芽のように萌え上がるものによって生まれた神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遲神、次に天之常立神。この二柱の神もまた単独の神で、そのまま隠れた。ここまでの五柱の神は、続く神とは少し違って別天神である。 次は「成りませる」へ係る。「国稚くして云々」に係るのではない。】「次に成りませる神の名は国之常立神」などとあるのに同じ。その他も、前後みな「次~神」とあるが、ここはその神の生まれた原因を述べたために、係る言葉が隔たっているのである。

○國稚、稚は「わかく」と読む。【書紀では「わか」の意味に、みなこの字を用いている。 だがこの記では、一般的に「わか」の意に「若」の字を用いて「稚」を用いる例がないので、ここは「わかく」ではないかもしれないとも思われるが、他に読み方が思いつかない。 「わかし」とは物がまだ完成しないことを言い、書紀などでは「幼」の字もこう読み、中昔の物語でも人が幼稚(いとけな)いさまを言うことが多い。万葉では三日月を「若月」とも書き【月の形がまだ整わないのを「若い」と形容したわけである。】 推古紀には「肝稚く」とある。【また勢いが盛んで、美しいのを言うこともある。美称に「若某」とあるたぐいだ。これは、まだ完成しないのを言うのと少し違うが、元は同じである。】 ところで国土は伊邪那岐、伊邪那美両大神によって生まれたのだから、ここではまだ「国」というようなものは存在しないのだが、完成した後の名を借りて、その原初の姿を書いたのである。

○浮脂は「うきあぶら」と読む。浮雲、浮草というたぐいの名であり、脂が水に浮かんでいるのにたとえてこう言った。【「ウカベルあぶら」という読みは良くない。】 「脂」は「和名抄」に【形態の部、肌肉類】「脂膏は和名『あぶら』」、また【燈火具に】「油。四聲字苑に、油は麻をしぼって取る脂とあり、和名『あぶら』」とある。 他に「脂」にたとえた例として、朝倉の宮(雄略天皇)の段に、盃に槻の葉が散って浮かんだのを、三重の采女(女+妥)が歌に「ウキシあぶら」と詠んでいる。【盃の酒に木の葉が漂うのを考えて、ここの状態を理解せよ。】 そもそも、この段は天地の初発を言っているので、まず始めにこういったものが一群(ひとむら)生え出たということである。【「如2浮脂1」というのは、その漂う姿が似ているだけだ。それが脂のような物体だというわけではない。書紀の伝えでは、魚や雲にたとえているので分かる。 一書には「その形は言葉に表しがたい」とあり、正確な形は言い難い。】

○久羅下那洲(くらげなす)は「多陀用幣琉」の枕詞である。【ここは「ウキアブラのようなもの」が漂っている様子を述べたのではない。 それはもう「ウキアブラのようなもの」という言葉に言い尽くされている。 もし「如2浮脂1物(うくアブラのゴトキもの)」と書いてあったなら「浮脂」はそのものの形状を言い「くらげ」は、その漂う様子を喩えたと言えるが、この文はそういう書きぶりではない。】 「くらげ」は和名抄に「崔禹錫の『食經』に曰く、海月、一名水母。そのさまは海中に月があるのに似ているので、この名がある。 和名『くらげ』」とある。この生物は海の中を漂うもので、その形は昼の晴れた空に月が白く見えるのによく似ており、なるほど「海月」とはよくも名付けたものだ。 「なす」は「ようだ」ということで、私の友人稻掛の大平が「似す」の転訛だろうと言うが、そうらしい。【「な」と「に」は通音であり「なす」を「のす」という例があるとして、たとえば和名抄の備中の郷の名に「近似は『ちかのり』」と出ていて「似」を漢籍で「ノレリ」と読むなども考え合わせると「似す」を「なす」と言ったとしてもおかしくない。】

○多陀用幣琉(ただよえる)は、書紀に「漂蘯」とある字の通りである。【書紀には「くらげなす」が省略されている。 このことでも枕詞だと分かる。 弘仁私記には、この「漂蘯」を「クラゲナスただよえり」と読むということが書かれている。 上宮記、大倭本紀などの古い書物にも、この「くらげなす」という言葉があるそうだ。】 万葉にも、この言葉がある。なお「琉」の下にある「之」の字は読んではいけない。【読むのは間違いだ。】このものが漂っていたのは、どんなところかと言えば虚空中(おおぞら)である。 次に引くように書紀に虚中、空中とあるのを見れば分かる。 【それなのに「浮く脂のように」とか「くらげなす」と言うので、これは海の上を漂っていたと解するのは、大きな間違いである。 この時、まだ天地はなかったので海もなく、ただ虚空を漂っていたのだ。だから海もまた、この漂っていたものの中に備わっていたに違いない。】 書紀には「開闢之初、洲壞浮漂、譬3猶游魚之浮2水上1也(アメツチのハジメのトキ、クニつちタダヨイテ、ウオのミズにウケルがゴトシ)云々」、一書に曰く「天地初判、一=物2在於虚中1、状貌難レ言(アメツチのハジメのトキ、おおぞらにヒトツのモノなれり。そのカタチいいガタシ)云々」、一書に曰く「古國稚地稚之時、譬2猶浮膏1而漂蕩(いにしえクニつちワカカリシとき、ウキアブラのゴトクにしてタダヨエリ)云々」、また一書に曰く「天地未生之時、譬3猶海上浮雲無2所根係1(アメツチいまだナラザリシときに、ウナバラなるウキクモのカカルところナキがゴトクなりき)(口語訳:天地がまだ生まれていなかった頃、たとえば海上に浮かぶ雲がどこから来たともなく、中空にふわふわと漂っているようであった。)云々」などとあり、これらを引き合わせて考え、その時の様子を細かく知るべきである。

【「開闢之初」、「天地初判」などとあるのは、この記(古事記)の始めに「天地初発之時」とあるのと同じで、一応ただ大らかに、この世の始めを言ったのだ。 「天地未生之時」とは、少し詳しく述べたのである。「洲壞云々」は、この記の「国稚」に相当し「猶游魚云々」、「状貌難言」、また「猶海上浮雲云々」なども、記の「如2浮脂1」に相当する。 だから伝えが多少異なるように思えたとしても、よく見ればそのありさまはいずれも同じである。】 この漂っていたものは何かと言うと、これは後に天地に成るものであって、天に成るべきものと地に成るべきものがまだ別れず、一つに入り混ざった混沌の状態である。 書紀の一書に「天地混成之時(アメツチむらかれナルトキ)」とあるのがこれだ。【「混」とはまだ分かれず、入り混じって一沌(ひとむら)であることで、浮き脂のようなものが初めて生まれ出た状態を混成(マロカレなる)と言う。

ある人の質問で「天に成るべきもの、というのは分からない。天には形がなく、始めから物は存在しないと思うが?」 と言う。私は答えて「天は高天の原であるから、実体があることは言うまでもない。 仰ぎ見ても見えないのは、ただ遠すぎて目に見えないだけだ。 それを天はただ気であるとか、理屈であれこれ言うのは外国のこじつけの説であって、甚だしく古伝の趣旨に違背する」 
また問う。「では、まだ分かれていなかったとき、天になるべき物は何物だったのか?」 答え。「天になるべき物が何物であるとも伝えられていないので、分からない」 
また問う。「地に成るべき物は何物だったのか?」 答え。「海水に泥が混じって濁っているような物であった。というのは、以下に女男の大神が『指2下沼矛1以畫者、鹽許袁呂許袁呂邇(ヌボコをサシおろしてカキたまえば、シオこおろこおろに)云々』とあり、書紀にも『以2天之瓊矛1、指下而探之、是獲滄溟(アメのヌボコをモチテ、さしオロシテかきさぐる。ココニあおウナバラをエき。)』などとあるので分かる。」 詳しいことは、その段で述べる】

2015/01/13

造化三神(御復習い)

 古事記では「最初に現れた神々」として別格的な感じの「造化三神」だが、日本書紀では本文でもない「一書の4」の「異伝」でやっと登場するのみという、極めて大きな差異がある。

●天之御中主神
天地開闢で宇宙で最初に現れた神。

宇宙が混沌している中で現れ、高天原の主宰神となった。

理屈上では創造神的な位置づけであり、記紀の中では一番最初に登場する神様。

そんな中心的な神でありながら、その後はまったく登場して来ないことからイメージが難しいためか、最初に登場した神の割に知名度が甚だ低い。

しかし最初に登場することに加え、その名前からも世界の中心的な存在のはずなのである。

そこで江戸時代に起きた復古神道では、天之御中主神と高御産巣日、神産巣日神を併せた造化三神を最高位の神とし、中でも天之御中主神は特別な究極の神とした。

日本書紀では「第一段一書(四)」で「高天原に生まれた神」として登場するのみで、そもそも最初に生まれる神となっていない点は、古事記と大違いだ。

このようなことから「天之御中主神は、古事記編纂の時に作られた神じゃないか?」という説もある(確かに、名前も出来すぎている気がする)

続日本紀(797年完成)では、中臣氏の先祖が天之御中主神と書かれている。

ここから当時は藤原氏の勢力が強く、藤原氏の先祖である中臣氏を持ち上げたとも考えられる。

続日本紀の後に書かれた「日本後紀(840年完成)」の直後に出来ている倭漢惣歴帝譜図や宋史(1345年完成)には、天之御中主神が「皇室の祖先」として書かれている。

●ムスビかムスヒか「高御産巣日神」
当初は、何かを生み出す力として「産巣日」を持つものと見られていたが、現在は「産巣」+「ヒ(日)」で「太陽神」と見る説が強い。

高御産巣日神の別名である「高木神」は高い木、樹霊信仰を表し、それは天に伸び「太陽」へと続くというのが根拠となる。

この「天」という思想が「高天原」のイメージを作ったのかもしれない。

天照大御神信仰が成立したのは天智・天武天皇の頃で、それ以前は天照大御神も八百万の神々の1柱でしかなかった、と言われる。

それ以前に伊勢神宮に居た神が、実は高御産巣日神であった。

そのご神体が「心の御柱」と言われる。

高御産巣日神は、事実上の高天原の主宰神として辣腕を振るう。

天の安河に神々を集めて指令を下す時など、常に天照大御神の横に並ぶようにおり、出雲に国譲りを迫る時も高御産巣日神が天照大御神と並んでいた。

時には「天照大御神をもさし措いて」高御産巣日神が単独で様々な指令を下すこともある。

このことから「実は本来高天原の中心神だったのが、後から登場してきた天照大御神に「権力を奪われた」ようにも見える。

天岩戸を境に、すっかり弱弱しくなってしまった天照大御神から「権力を乗っ取った」とされるイメージが強い高御産巣日神だが、実際には逆で天照大御神の登場により主導権を奪われたが、スサノオの乱暴狼藉によってお隠れになった(?)「天岩戸事件」後、すっかり衰えた感のある(二代目に代替わりした説も)天照大御神に代わり、高天原の主宰神として復活したとも言える。

『古事記』では、即位前の神武天皇が熊野から大和に侵攻する場面で夢に登場し、さらに天照大御神より優位に立って天孫降臨を司令している伝も存在することから、この神が本来の皇祖神だとする説もある。

●神産巣日神
高御産巣日神と、対になる神である。

高御産巣日神、天之御中主神、そして神産巣日神を合わせて「造化三神」と呼ぶ。

宇宙開闢の祖、というよりは宇宙そのもののイメージである。

この造化三神のうち、高御産巣日神を男神、神産巣日神を女神とする(古事記の記載は、どちらも性別のない「独神」だが、実質的には男女として捉えられる)  天之御中主神には、このような性別の属性はない。

出雲地方と特に深く関係し、なぜか大国主神(大己貴神)とは母子のような関係にも見える。

大国主神が兄弟の八十神に殺された時は、キサガイヒメ・ウムガイヒメを派遣して生き返らせた。

大国主神が国造りを行う際に強力なパートナーとなった少彦名神は、神産巣日神の指の隙間からこぼれ落ちた子供とされる(日本書紀では、高御産巣日神の子になっているが)

国譲りの後、大国主神は出雲大社に隠遁するが、その出雲大社の造営のために全国の神々を集め、指揮をとったのが神産巣日神である。

このように高御産巣日神とともに、死んだものを簡単に生き返らせるなど「生成」を司る神と言える。

高御産巣日神とは同時に登場したことはなく、必ずどちらか一方が単独で登場することから「実は同一神では?」とする説もある。

≪参考≫
※ Wikipedia引用
※ http://kumoi1.web.fc2.com/CCP081.html