リストは、1848年からヴァイマル宮廷楽団の宮廷楽長の座にあった。ワーグナーより2歳年長のリストは、ワーグナーの音楽の紹介に努め、1849年5月に『タンホイザー』をヴァイマルで上演していた。同月にドレスデンの革命蜂起が失敗し、これに荷担していたワーグナーの逮捕状が出ると、リストはワーグナーのスイスへの出国に手を貸し、チューリヒでの亡命生活にも援助を惜しまなかった。
リストが、ヴァイマルで『ローエングリン』を初演指揮した直後、1850年9月2日付けのワーグナー宛の手紙には
「君の『ローエングリン』は始めから終わりまで崇高な作品だ。少なくないところで私は心底から涙を流したほどだ」
と書いている。
2人の交友関係は、リストの弟子であったハンス・フォン・ビューローと結婚した娘コジマが、不倫関係の末にビューローと別れ、1870年にワーグナーと結婚したことでいったん絶縁状態となるが、1872年にはワーグナー夫妻の熱心な招きに応じたリストがバイロイトを訪問し和解している。
これだけ世話になった師匠といえど、己の欲望の前には平気で裏切るのがワーグナーの真骨頂といえるが、当時「音楽の帝王」と崇められたリストの度量が大きかったのか、はたまたよほどワーグナーの才能に惚れこんでいたのか?
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