再建後
1966年(昭和41年)7月22日に大鳥居が落雷によって破損したため、新たな鳥居を1975年(昭和50年)12月23日に建立した。初代の鳥居は台湾の阿里山で伐採された樹齢1200年超の大檜を用いていたが、2代目の大鳥居も阿里山連峰の丹大山で発見された樹齢1500年超の大檜を用いている。なお、落雷した鳥居は氷川神社の二の鳥居として翌年移設された。初代の東玉垣鳥居および西玉垣鳥居の二基は、1966年(昭和41年)に福島稲荷神社へ移築された。
2004年(平成16年)4月27日、臨時役員会において、神社本庁との被包括関係の廃止と、それに伴う宗教法人明治神宮規則の変更を協議した。同年8月6日、被包括関係廃止に伴い奉告式を挙行した。単立の宗教法人明治神宮となった。
新たな南参道第一鳥居
2008年(平成20年)10月26日から11月1日にかけて、明治神宮御社殿復興50年記念の特別ライトアップ「アカリウム」奉納行事が開催された。
2010年(平成22年)8月5日、神社本庁に被包括関係の設定許可等を申請し、同23日に神社本庁より承認を受けた。同年10月13日、神社本庁との被包括関係の再設定について東京都より正式に認可を受け、宗教法人明治神宮規則を変更した。
2020年(令和2年)、鎮座100年を迎える。この折に、境内に八つある鳥居のうち唯一の創建時から残っていた南参道の鳥居が老朽化しているため建て替えが決められ、2022年(令和4年)に吉野杉で造られた新しい鳥居がお披露目された。
境内
社殿
社殿の様式については、伊東忠太と関野貞(ともに東京帝国大学工科大学教授)が調査・選定を行った。
まず先例に基づくか、新しい様式を定めるかについては、両者ともに先例にのっとることを選択した。関野は、先に祭式が官国幣社祭式(内務省令第4号)に従うことが規定されたので、社殿の様式もこれらに倣うべきだとした。一方伊東は、新例の創設は理論上は可能であっても、現実問題として作り出すのは非常に困難であるという理屈でもって、やはり先例を支持した。次いで、具体的な様式について様々な類型の比較検討が行われ、大社造(出雲大社)は一地方の様式であること、神明造(伊勢神宮)は簡素すぎて森林の中に鎮座する形でないといけないこと、権現造(日光東照宮)は神仏習合の様式であることといった理由から排除され、最終的にオーソドックスな流造が国民一般の嗜好に合致することから選定された。このように、社殿の様式を数ある中から選び取るという選定過程は、それ自体が革新的なものであったといえる。
2020年(令和2年)12月23日付けで、本殿、内拝殿、外拝殿(げはいでん)などの社殿36棟が国の重要文化財に指定された。
創建時の明治神宮社殿の造営は、内務大臣所管の明治神宮造営局が担当した。設計は伊東忠太の監督下、安藤時蔵と大江新太郎が行ない、1915年(大正4年)に起工、1920年(大正9年)に完成した。1945年(昭和20年)4月、太平洋戦争の空襲で本殿、拝殿を含む中心部分の社殿が焼失したが、拝殿の南に建つ南神門・東神門・西神門や、その周辺の建物群は創建当時のものが現存している。
再建社殿の設計は角南隆が担当し、1958年(昭和33年)に完成した。創建時の社殿は、南北の中軸線上に南から北へ南神門、拝殿、中門、本殿が建ち並ぶ構成であったが、角南のプランでは中門を廃し、拝殿を外拝殿と内拝殿の2棟に分けている。また、社殿の屋根は檜皮葺から銅板葺に変更された。
外拝殿以北の本殿を含む区画を内院、その南の廻廊と神門で囲まれた区画を外院(げいん)と称し、これらの全体を玉垣で囲んでいる。内院には本殿、内拝殿及び祝詞殿(合わせて1棟)のほか、内院渡廊、宝庫(地下に所在)、神庫、内透塀及び北門(合わせて1棟)、神饌所及び渡廊(合わせて1棟)、旧祭器庫、北廻廊、外透塀、北神門が建つ。外拝殿より南の外院には南神門、東神門、西神門、外院廻廊(直会殿を含む)が建つ。このほか、南・東・西の手水舎、南神門の手前にある宿衛舎と祓舎、南参道の神橋、南参道・北参道・西参道の各入口にある制札が重要文化財に指定されている。
宝庫(鉄筋コンクリート造、地下1階建)と神橋(コンクリート橋)以外の重要文化財指定物件は、いずれも木造、銅板葺きである。角南設計の復興本殿は三間社流造で、創建時の形式を踏襲しているが、屋根上の千木と堅魚木を大きくするなど、デザインには創建時との相違がみられる。その他の主要建物のうち、内拝殿は切妻造の主体部に千鳥破風と軒唐破風を設ける。外拝殿は入母屋造、南神門は入母屋造三間楼門、東神門・西神門は切妻造四脚門である。
内苑
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内苑の全敷地の大半を占める。都心部の貴重な緑地として親しまれているだけでなく、人工林が意図的に自然林化されたものとしても注目されている。この中には、ほかの皇居などを除けば広い緑地が少ない東京都心部では通常見られないような生物が生息し続けており、動物学・昆虫学的にも非常に貴重な例となっている。
神宮鎮座以前、社地のほとんどは原野が広がっており、地元では「代々木の原」と呼ばれていた。そのため、神社設営のために人工林を作ることが必要となり、造園に関する一流の学者らが集められた。設計に携わった人々を挙げると、林学では本多静六、本郷高徳、上原敬二、田村剛、川瀬善太郎、中村斧吉(林苑課長)、大溝勇、山崎林志、中島卯三郎。農学/造園では原煕、大屋霊城、狩野力、太田謙吉、森一雄、水谷駿一、田阪美徳、寺崎良策、高木一三、森一雄、井本政信、北村弘、横山信二、石神甲子郎。また、奈良女子高等師範学校(現:奈良女子大学)の折下吉延らが参加した。折下らは、神宮外苑のイチョウ並木などもデザインする。
こうして集められた明治神宮造営局の技師らは、1921年(大正10年)に『明治神宮御境内 林苑計画』を作成した。現在の生態学でいう植生遷移(サクセッション)という概念がこの時に構想され、林苑計画に応用された。通常、神社の荘厳な鎮守の杜としてイメージされるのは杉やヒノキ(檜)などの針葉樹林であったが、代々木は暖帯であり、なおかつ都心に近く、煙害に強い必要があることから、針葉樹は不適とされた。そのため、最終的には広葉樹、特に樫、椎、楠を中心とした広葉樹林を目指すことを提言した。当初は成長の早い針葉樹もあわせて植林し、遅れて広葉樹を成長させ、年月を経て、およそ100年後には広葉樹を中心とした極相林(クライマックス)に到達するという、手入れや施肥など皆無で永遠の森が形成されることを科学的に想定した。いわば、これが造園科学的な植栽計画の嚆矢であって、日本における近代造園学の創始とされている。
提言が発表された当初、一部世論では「神聖な神宮の杜にやぶはよろしくない」と、反対意見が出た。時の首相大隈重信も、伊勢神宮のような杉林を想定していたが、設計チームらが直談判し、仁徳天皇陵などを参考にしたことを説明して、大隈の同意を取り付けた。なお、植林事業そのものは、1915年(大正4年)には開始されている。
創建当初、外地の朝鮮半島、台湾を含めて全国から365種約12万本が献木され、計画的に植えられた。戦後から1960年代にかけてクロマツが約2000本、アカマツが約1000本が公害や病虫害の影響により枯死、一方1970年代には煙害に抵抗力があるとして植えられたクス類が確実に本数を伸ばし、森林の遷移が順調に進んでいることが確認された。1970年(昭和45年)の調査時には247種17万本、2019年時点では樹木数は約3万6000本に減っている代わりに、残った木が巨木化しつつある。これは参道を掃き清める際に集めた落ち葉を森に戻す以外は人為的な手を加えず、森の変化を自然淘汰に任せているためである。
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