明治神宮は、日本の東京都渋谷区にある神社。祭神は明治天皇と昭憲皇太后で、明治天皇崩御後の1920年(大正9年)11月1日に創建された。旧社格は官幣大社で、勅祭社。
概要
境内は、そのほとんどが全国青年団の勤労奉仕により造苑整備されたもので、現在の深い杜の木々は、全国からの献木が植樹された。
また、本殿を中心に厄除・七五三などの祈願を行う神楽殿、「明治時代の宮廷文化を偲ぶ御祭神ゆかりの御物を陳列する」明治神宮ミュージアム、「御祭神の大御心を通じて健全なる日本精神を育成する」武道場至誠館、神道文化の国際的な発信を行う明治神宮国際神道文化研究所などがある。
新年には、毎年のように国内外から観光客が集まり、初詣では例年の参拝者数が全国1位となっている。
社名
称号については、天皇を祀ることから「神宮」とされた。検討段階では新たな称号を創設することも議論されたが、実現しなかった。
また、社名としては、同じく天皇を祀る神社として「橿原神宮」(神武天皇)や「平安神宮」(桓武天皇、孝明天皇)のように、宮城所在地名を冠する例があったことから「東京神宮」とする案も出されたが、元号・時代としての「明治」も加味して「明治神宮」となった。
「宮」の表記について
明治神宮が授与する神札は、「宮」の字の「呂」の中間に「ノ」を入れない「宫」の字を用いている。神札の書体は明治神宮創建時に当時の造営局副総裁の床次竹二郎が書いたもので、それに「ノ」が入っていなかったため、現在も「ノ」を入れていない。一方、正式な神社名については、大正11年(1922年)の『明治神宮明細帳』で「ノ」が入った「宮」が使われていることから、「ノ」が入る「宮」を使用するのが正式である。
かつては「宫」と「宮」との区別はなく、たとえば1927年の勅令『明治神宮造営局官制廃止ノ件』の署名原本は、上諭(前文)で「宫」と筆記すると同時に、勅令本文で「宮」の活字を用いていた。
祭神
明治天皇 - 第122代天皇。
昭憲皇太后 - 明治天皇の皇后。
創建が内定した当初は明治天皇一柱の予定で、また特に明治維新に功績があった臣下の者を合祀することも検討されていた。また、神社創建前(鎮座地が決定した段階)に崩御した昭憲皇太后も合祀し、合計二柱鎮座となった。
歴史
創建
73ヘクタール(約22万坪)に及ぶ広大な神域は、江戸時代初めには肥後藩主・加藤家の別邸であり、寛永17年(1640年)より彦根藩主・井伊家の下屋敷となっていたもので、この土地が1874年(明治7年)、井伊家から明治政府に買い上げられて南豊島御料地となっていた。
1912年(明治45年)に明治天皇が崩御した際、その死に関する法律は整備されておらず、立憲君主制下での天皇の崩御後の細目についてははっきりしていなかった。明治天皇により首都と定められた東京市においては、数年後に迫っていた即位50年の記念行事の各種計画が進んでおり、天皇崩御直後、これらの施設を明治天皇、あるいは明治という時代を記念するものとして、東京に構えるという構想が続々と唱えられた。この内、東京に天皇陵を構えるという意見に対しては、明治天皇の遺志により京都(伏見桃山陵)に山陵が造営されることとなり決着したが、今度はそれ以外の記念施設の東京への創設を求める運動が起こり、それらの中には「明治天皇を祀る神社」もあった。
百出する意見の多くは、銅像や記念碑、美術館など、明治天皇を「記念」するものであったが、神社の建立は、「記念」を上回る、国民の天皇に対する尊崇の念を加味したものとみなされた。この頃、宗教学の分野で神道と宗教との関係性が議論されており、神道における「崇敬」の概念が、国民と天皇との関係とリンクする、とされたのである。
天皇崩御の直後、大正元年8月12日には早くも実業家渋沢栄一、東京市長阪谷芳郎といった有力者による有志委員会が組織され、神宮創設の具体案を明記した『覚書』が公表された。骨子は以下のとおりであり、実現した神宮の構成と非常に近いものであった。
ü 神宮は内苑と外苑からなる。
ü 内苑は国費により政府が、外苑は献費により奉賛会がそれぞれ造営する。
ü 内苑には代々木御料地、外苑は青山練兵場を最適とする。
ü 外苑には記念宮殿、陳列館、林泉などを建設する。
これらのうち、宗教施設を置かず公園として整備される「外苑」は従来の神社にはないものであった。これは神社のほかに計画されていた記念施設案を包括するものであり、これによって神社には、これら記念施設の全てを包括する立場が与えられたといえる。外苑の構想は、現存する明治神宮外苑として具現化した。
また、代々木御料地と青山練兵場については元々、当年(1912年)をめどに日本大博覧会が開催予定で、具体的なパビリオン計画も進んでいたが財政的な事情で中止になった経緯があり、これが阪谷らの念頭にあったため両地を用いた神宮建設というアイデアが生まれた可能性もある。
一方で、これらの『覚書』と並行して、関東一円の各自治体から神社創設を求める請願が多数寄せられ、東は国見山から西は富士山まで、最終的には20以上に上った。これらは、以前に天皇の行幸があったという「由緒」や、土地が清浄で神社創建に適しているという「風致」を推薦の理由として挙げている。また、明治天皇を祀る神社を一か所ではなく複数個所創設してもいいのではないか、とされたが、慣例として天皇を祀る官国幣社は一祭神について内地では一社に限定していたため、この案は採用されなかった。また、東京以外の各地の誘致は、それぞれの地元自治体(拡大して県単体)でのレベルにとどまっており、「首都」という大きなアドバンテージがあった東京府内への創設に比べると、規模で劣勢であった。
渋沢、阪谷ら委員会メンバーは、『覚書』の完成直後から西園寺公望内閣総理大臣、原敬内務大臣、渡辺千秋宮内大臣らに陳情を繰り返し、9月27日に正式に帝国議会へ請願書が提出された。そのほかの地域の請願書も提出されていたが、東京推薦の請願が「由緒」を理由に受け入れられ、大正2年(1913年)2月27日に貴族院本会議で採択後に内閣へ送付された。また衆議院でも、具体的な地名は伏せつつも、神社の創設を求める建議が3月26日に本会議で可決した。
8月15日、内務省が『明治天皇奉祀の神宮創設に関する件』を閣議に提出した。本件は、提出後2か月以上経って10月28日に閣議決定された。そのおよそ3週間後の11月22日、原内相が大正天皇に上奏して翌日に口頭で裁可を受け、神社創設が事実上「内定」する(正式な告示に必要な事項(社名、鎮座地など)は未定であったため、文書ではなく口頭での裁可となった)。12月20日、内務大臣隷下に「神社奉祀調査会」が設置され(勅令308号)、官民各部門の有力者によって、神社創設にかかわる概要事項の審議が行われた。一番の懸案であった鎮座地については、翌大正3年1月15日に早くも、皇居が置かれたという由緒を理由として、東京に置くことが決定される。2月15日には、東京府内の候補地の内から、「風致」を理由として代々木御料地が決定した。
骨子が固まり、4月2日に大正天皇へ上奏された。これを受けて6日に大学教授や内務官僚などの実務家が新たに調査会に加わり、細部具体的な検討が行われた[要出典]。大正4年(1915年)5月1日、明治神宮の創建が告示された。下記のとおり、天皇の仰せ出とされた。
一 明治神宮 祭神 明治天皇 昭憲皇太后
右、東京府下豊多摩郡代々幡村大字代々木に社殿創立、社格を官幣大社に列せらる旨仰出さる
大正四年五月一日 内務大臣 子爵大浦兼武
— 大正四年内務省告示第三十号
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