同日の勅令公布により、調査会が廃止され、内務大臣所管の明治神宮造営局が設置され、神宮創建が開始された。
政府内に神社造営の担当機関が置かれたのは、造神宮使庁(伊勢神宮の式年遷宮に対応するもの)以来のことであった。内苑については造営局が直接国費による造営を行い、一方外苑については、国民からの寄付金を奉賛会が取りまとめて拠出し、これに基づいて造営局が奉賛会からの委嘱を受ける形で実務作業にあたった。この寄付は、明治神宮が「国民の神社」であるという理念の下、全国の国民各層から行われるよう広く呼びかけられており、内地が済生会のデータをもとに都道府県別に割り当てられて合計450万円、外地(南樺太、朝鮮、台湾、関東州)が20万円、さらに在外邦人から25万円の調達見込みが設定された(合計495万円)。この金額は最終的に全て達成され、最終合計額は676万円に上った(最終的に必要とされた額は670万円)。
金額の多寡はともかくとして、庶民層からの寄付も報道で取り上げられるなどして注目された。また、官吏については、首相の100円を筆頭に、寄付の目安額が定められていた。大正4年(1915年)10月7日に明治神宮地鎮祭が行われた。外苑の地鎮祭は大正7年(1918年)6月1日に青山練兵場中央において行われた。
大正8年(1919年)、第一次世界大戦終結後の好景気に伴う造営工夫の賃金上昇と労働力払底という状況下、全国の青年団による勤労奉仕が行われた。これも「国民の神社」という理念に則り、全国の青年団が神宮造営に参画した。また、外苑の設備についても、当初予定の陸上競技場に加え、野球場、相撲場、水泳場など、運動施設が当初計画に付け加えられ、実態としても「青年のための外苑」という色彩を強めていった。後に、この勤労奉仕の功績を皇太子裕仁親王(昭和天皇)が称えたことを記念して、青年団の寄付により隣接地に日本青年館が建設されることになる。勤労奉仕人数は、大正11年(1922年)末の時点で10万人を超えた。
1938年、当時の同盟国ドイツのヒトラーユーゲントが来日し、明治神宮も訪問した。鎮座祭は1920年(大正9年)11月1日に行われ、明治神宮はこの日を以て創建としている。掌典長九条道実が勅使として御霊代を奉じて参向した。正午、一般人の参拝が許可された。総数50万人以上が参拝した。参拝者が殺到し混乱を来たしたため、神符や守札の授与が中止された。群衆殺到により38人の死傷者も出た。翌2日には大正天皇の名代として、皇太子裕仁親王が参拝した。初代宮司には公爵、一条実輝が任じられていた。
明治神宮外苑については、中心施設である聖徳記念絵画館の竣工を待って、大正15年(1926年)10月に外苑の奉献式が絵画館において行われた。この時点では、展示される絵画は80点中5点しか展示されておらず、80点が全て完成したのは昭和11年(1936年)4月のことである。
戦災による焼失と復興
太平洋戦争末期、東京空襲が相次ぐと、不測の事態に備えて本殿脇に宝庫(事実上の防空壕)を設営し、御霊代を遷していた。昭和20年(1945年)4月13日深夜に空襲警報が発令され、翌14日未明、境内付近一帯にも焼夷弾が投下され始める。宿直の神職らが防火に努める一方、「猛火の内に御祭神を奉安するのは恐懼に耐えない」ことから御霊代の遷座を決断し、一部神職が御霊代を奉持して森を抜け、宝物殿に避難した。
翌14日午前1時40分、動座が終わるとほぼ時を同じくして本殿がついに炎上、朝まで燃え続け、灰燼に帰した。この時、本殿内陣に残されていた神物の一部は救出され、御霊代とともに宝物殿に収められた。16日には、御霊代は宝庫に還御した。17日には一般の参拝を再開したが、仮社殿もない状態であったので、焼け残った南神門を「拝所」として、神門を閉じて焼け跡をうかがえないようにして対処した。29日の天長祭は、組み立て式の幄舎を祭場として急場をしのいだ。5月25日には二度目の東京大空襲によって明治神宮では貴賓館と附属の禊ぎ場を焼失し、外苑の聖徳絵画館と野球場の一部も被災した。翌日にかけて勅使殿、斎館、社務所なども焼失した。
1946年(昭和21年)2月2日、宗教法人令改正により神社も宗教法人に加わることになり、翌日、宗教法人神社本庁が発足し、5月13日、宗教法人令に基づく明治神宮規則を届け出た。1948年(昭和23年)9月30日、神社本庁の通達に別表神社が掲載された。1951年(昭和26年)4月3日に宗教法人法が公布、10月22日に宗教法人明治神宮規則の登録が完了し、ここに宗教法人明治神宮が成立した。また、神社が一般に持つ「氏子」が明治神宮にはなかったことから、これに代わる団体として崇敬者による団体を創設することが決定された。
昭和21年(1946年)5月31日、仮殿が竣工され、「仮殿遷座の儀」等の祭典が6日間にわたって執り行われた。翌6月1日より、閉じられていた南神門が一般参拝者に開放される。翌昭和22年(1947年)5月1日、第1回崇敬者大会が挙行され、秋の例祭とあわせて「春の大祭」として恒例となる。昭和27年(1952年)3月31日、レクリエーション施設として接収されていた外苑が翌日の独立回復に先立って返還され、あわせて神宮の機関として「外苑運営委員会」が設立された。
日本の主権回復と前後して創建当初の社殿復興に対する機運が高まり、昭和28年(1953年)7月27日、「明治神宮復興奉賛会」が結成される(会長:宮島清次郎)。復興資金としては創建時と同じく募金が幅広く募られ、法人募金、都内各地区、全国都道府県に合計6億円が呼びかけられた。結果、現金による募金だけでほぼ6億円に達し、物品奉納を含めると目標額をはるかに上回る成果を上げた。また、在外邦人社会でも、奉賛会の設立、寄付があった。さらに、これも創建時と同じく、各地の青年団による勤労奉仕も行われた。
新社殿の設計を主に行ったのは、角南隆(すなみたかし)であった。新旧社殿の最大の差異は、本殿と拝殿とを隔てた中門を取り払ったことであった。旧来の神宮は、官吏や地方長官などの限られた人々が祭祀を行うことを目標としており、一般大衆は中門で祭祀の場から切り離されていた。しかし戦後の神社は、政府から切り離されて氏子崇敬者に開かれた神社となった。そのため中門による隔絶を取り払い、外拝殿(従来の拝殿)との間に新たに内拝殿を設けることで、祭祀と一般大衆との距離をより近づけようとしたのである。
昭和30年(1955年)4月1日、臨時造営部(角南隆部長)が発足、最大で150名の工員が全国から集められ、宝物殿近くに事務所・工場・寮などが設けられた。6月26日、岐阜県加茂郡七宗村の国有林にて木本祭が執り行われ、最初に切り出された本殿用の御用材については、9月11日、お木曳の式が行われた。新宿駅まで貨車で送られた御用材を崇敬会員やボーイスカウト、相撲力士らが神宮宝物殿脇の貯木場まで手ずから搬入した。この式は、伊勢神宮の式年遷宮以外ではほぼ行われず、東京で行われるのは初めてのことであった。
旧本殿跡地では、同所にそのまま建てられた仮殿を南へ数十メートル移動させて、昭和31年(1956年)4月18日に地鎮祭が行われた。同月、復興奉賛会の名誉総裁に高松宮宣仁親王が推戴されており、高松宮も列席した。以降、宝物殿脇の作業場で調製された御用材は、特別に敷設されたトロッコ線路で本殿まで運ばれた。翌昭和32年(1957年8月24日)、上棟祭を迎える。
以降、屋根付工事や内部造作取付工事が行われる。この時、旧殿では檜皮葺だった本殿の屋根を銅板葺に改め、その他金具類は奉賛会が主となって社頭で献納運動が行われた。時の鳩山一郎内閣の全閣僚も銅板を奉納している。金具の取付作業が全て終わったのは、遷座祭当日の朝であった。
昭和33年(1958年)10月31日夜、仮社殿から新本殿へ、遷座の儀が行われ、勅使室町公藤掌典、名誉総裁高松宮、明治天皇の皇女で存命の北白川房子、東久邇聡子らが参列。11月4日には昭和天皇が参拝したほか、14日まで都内各所で奉祝行事が行われた。
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