※「ロッシーニの料理」より引用
「ちょっと失礼
」
と断って、ベートーヴェンがキッチンへ消えてから、かなりの時間が経った。
ロッシーニは、今日ここへ案内して来てくれた同国人カルパーニと、怪訝そうに顔を見合わせた。
「どうなさったんだろう?
何かあったんだろうか?」
「まさか、急に病気の発作をおこされたわけでもあるまい・・・」
その時、二人はキッチンから低い声が漏れてくるのに気づいた。
「159、160、161、162、163、164」
一心に数を数えるその不気味な声を訊いているうち、ふたりは背筋に氷をあてられたような冷たいものが走って、思わず浮き足立った。
「165、166、167、168、169、170・・・・」
「お化けが、数を数えてる?」
「様子を見にいこうか?」
ベートーヴェンの身を案じた二人は、勇気を出してそろりそろりとキッチンのドアの方へと歩み寄る。
「176、177、178、179、180」
するとその声はぴたりとやんで、今度はガラガラと小さな嵐のような、やかましい音が響き始めた。
「こりゃ、いったい何の音だ?
騒々しい幽霊のご入来か?」
二人が驚いていると、まもなくキッチンから芳しい香りが漂ってきたではないか。
しばらくするとキッチンのドアが開き、コーヒーポットと茶盆を手にしたベートーヴェンが、姿を現した・・・
「いやあ、大変お待たせしました。
お二人に、お茶を差し上げようと思いましてね。
私はコーヒー党なものですから、お茶といってもこれですが」
ポットを振って見せながら茶盆とともにテーブルに置くと、ベートーヴェンは3つのカップに褐色の液体を細心の注意で注ぎ分けた。
「こればかりは、決して家政婦には淹れさせません。やり方があるんです。
コーヒー豆は、一人分60粒。これより多くても、少なくてもいけません。旨いコーヒーを淹れるには、これをきちんと数える事が何より大切です。
それから豆を挽いてやらなくちゃならんが、わたしの使っているのは、トルコ式のコーヒー・ミルです。これだと、ちょうどいい按配に挽けるんです。
さあ、冷めないうちにどうぞ」
巨匠は上機嫌で、二人に淹れたてのコーヒーを勧めてくれた。
あの押し殺したような不思議な声は、間違えてはならじと必死にコーヒー豆の数を数える、巨匠自身の声だったのである。
さぞ気難しい人であろうと覚悟して、巨匠を訪問したロッシーニは大いに呆気にとられながらも、ベートーヴェン心尽くしのコーヒーをありがたく味わい、その後ほとんど筆談で音楽談義を交わしたのだった。
ベートーヴェンは、この時ロッシーニに
「あなたの《セヴィリャの理髪師》は、実に傑作です。
この世にイタリア・オペラが存在する限り、あれは上演され続けることでしょう」
と、太鼓判を押したといわれている。
1822年3月も末のこの日、30歳になったばかりのロッシーニは、ベートーヴェンに絶賛された《セヴィリャの理髪師》を始めとする、およそ30作ものオペラを世に送った人気絶頂のオペラ作曲家であり、片や51歳のベートーヴェンは、第8番までの交響曲を発表して心ある人々の尊崇を集めてはいたものの、経済的な不遇やら耳の疾患やらを抱えた悩み多き晩年にあり、余命はあと5年に迫っていた。
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