原宿というのは、非常にユニークな街である。ワタクシにとって「原宿」のイメージは、やはり子供の頃に流行った「竹の子族」のイメージが強い。今でこそ驚かないが、当時としては画期的な奇抜なファッションに身を包んだ、ローティーンからハイティーンの若者たちが踊る竹下通りからは、アイドルタレントも生まれるなど、ファッションの発信地的なイメージが強かった。当時、まだ地元の愛知に住んでいた学生時代のワタクシの目には、あたかも別世界の如くに煌びやかに映ったものだった。
大学受験で上京したころには、既に竹の子族のブームは終わっていたが、TVで観ていたようなファッションそのままの若者たちを目にして
(これが東京・・・これが原宿か・・・)
などと、ある意味で渋谷や新宿以上に感心したものだった。
その後、大人になるまで東京には縁ががなく、上京後もわざわざあの混雑する原宿に出向くような歳でも酔狂でもないから、しばらくは縁遠かった。
その後、明治神宮を訪れた時に、あの神聖な一の鳥居を目の前にして、真っ赤なトサカ頭のニーちゃんや、コスプレのような格好をしたネーさんたちが屯っているのを目にし
(そーいや、ここは原宿だったんだ・・・)
と、改めて気付かされたのである。
ファッションに命を掛けているような、あの若者たちの醸す独特のエネルギーと、それを吸収してしまうような不思議な空気を漂わせている神聖な神宮という、このミスマッチの妙が同居する不思議な風景こそは、何でもありの東京らしさといえるのかもしれない。
<江戸時代以前は、鎌倉街道の宿場町があった。後三年の役の際には、源義家がこの辺りで軍勢を揃えたとも言われ、この坂は勢揃い坂と呼ばれている。1582年の本能寺の変の際に、徳川家康を堺から三河まで無事に帰国させた「伊賀越え」の行賞として、1590年に伊賀者に隠田村と共に原宿村が与えられた、という記述もある。
江戸時代に入ると、甲州街道の南にある原宿には江戸の防衛のために、伊賀衆の組屋敷が置かれた。また、数多くの幕臣の屋敷もあった。農民の暮らしはというと、渋谷川などでの水車による精米、製粉が中心であった。しかし痩せた土地であったために生産は上がらず、生活は苦しかった。そのために農民は、雨乞いをよく行っていたという。丹沢の大山阿夫利神社や榛名山に日帰りで詣でた、という話も残されている。
出典Wikipedia
なお1738年、町並が立ち並んだ箇所に青山原宿町が起立したが、これは1872年に青山北町5丁目に組み入れられ、現在は港区北青山三丁目になっている(青山との関係で言えば、1966年の住居表示の際に原宿1丁目の一部(東京都立青山高等学校の周辺)が、港区北青山二丁目に編入されている)
明治時代以降は、東京中心部と郊外を結ぶ要所として発展。1906年の山手線延伸により、原宿駅が開業。1919年には、明治神宮創建に合わせて表参道ができた。神宮参拝の利用客増加に対応するため、1924年には原宿駅が現在の位置に移動した。1927年に同潤会青山アパートが建設され、表参道の顔となった。
戦後は、代々木錬兵場跡地にアメリカ軍の宿舎「ワシントンハイツ」が建設され、表参道沿いにはキディランドや富士鳥居といった、米兵向けの店が誕生した。
1964年の東京オリンピックの際には、ワシントンハイツの場所に選手村が建設され、外国文化の洗礼を受けた若者たちによって「原宿族」が出現した。
1970年代は、1972年に地下鉄・明治神宮前駅が開業、1973年のパレフランス、1978年のラフォーレ原宿のオープンや、創刊されたばかりのファッション雑誌「アンアン」や「non-no」により原宿が紹介され、アンノン族が街を闊歩、原宿はファッションの中心地として全国的な名声を手に入れた。
出典http://www.tour-harajuku.com/history.html
出典http://www.tour-harajuku.com/history.html
原宿セントラルアパート(1958年完成)には、デザイナーやカメラマンなどのクリエーター達が事務所を構え、文化を牽引した。1980年代になると竹の子族の影響により竹下通りが発展し、1977年から始まった歩行者天国(ホコ天)にはたくさんの若者が集った。
1990年代は表参道に、海外有名ファッションブランドの旗艦店が続々とオープンした。その傍ら神宮前三丁目、神宮前四丁目の住宅地には新たなファッショントレンドの店が並び「裏原宿(ウラハラ)」と呼ばれる一角が形成された。
原宿村。明治22年、千駄ヶ谷村大字原宿、同40年千駄ヶ谷町大字原宿、昭和7年原宿の字北原・南原宿・竹ノ下・灰毛丸・石田が渋谷区原宿1~3丁目となり、同 33年一部を千駄ヶ谷2丁目に譲り、同40~43年神宮前1~4丁目と名を改め、一部は千駄ヶ谷2~3丁目・代々木神園町に分かれ原宿の名は消滅した。
区は原宿駅の名前まで消そうとしたが、国鉄(当時)は丁重に断った。かつては天皇陛下が列車で出発される駅で、国鉄(当時)としてはおいそれと改名できなかったのだろう。ご乗車当日は警察が物々しく、警戒配備について歩くのも大変だった。
地名の由来は、往古相模から奥州に向かう鎌倉道が村内を通過していて、宿駅があったことから起きたという。宿駅があった当時は、草原か土原か判らないが原っぱだったのだろう。明治神宮のところが代々木原で、土筆ヶ原・白銀原・高輪原・駒場原に続いていたことから考えると、大森や久ヶ原のように鬱蒼たる森林地帯ではなかったようだ。
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