神代一之巻【神世七代の段】 本居宣長訳(一部、編集)
○獨神(ひとりがみ)云々。書紀は獨神と女男の偶神を分け、ここまでを一段としたが【書紀には「凡三神牟乾道獨化、所以成2此純男1(すべてみはしらのかみいます。アメのみちヒトリなす。このゆえに、このオトコのカギリをなせり。)
口語訳:この三柱の神は乾(天)道が単独で生んだので、すべてただ男神だけであった」とあるが、古い書物であればこの記のように「此三柱神者獨神成坐也」とあるはずなのに、例によって撰者が、強いて漢籍めかそうと潤色を加えて作文したものである。至ってうるさい語である。】
この記は、神世七代というのを一段としており、ここはすぐ次に続けている。
口語訳:次に生まれた神は宇比地邇の神、次にその妹、須比智邇の神。次に角杙の神、次にその妹、活杙の神。次に意富斗能地の神、次にその妹、大斗乃辨の神、次に淤母陀琉の神、次にその妹、阿夜訶志古泥の神。次に伊耶那岐の神、次にその妹、伊耶那美の神。こうして次々に神が生まれた。以上、国之常立の神から伊耶那美の神までをあわせて神世七代と言う。
最初の二柱の神は独神だったので、一柱で一代と数える。それに次ぐ十柱の神は、それぞれ女男の神が二柱ずつ生まれたので、二柱を一代に数える。宇比地邇神、次妹須比智邇神。書紀では埿土煮尊、沙土煮尊と書き「埿土、此云2于毘尼1、沙土、此云2須毘尼1」という訓注がある。【書紀では「毘」の字が清音濁音両方に用いられている。この訓注によって「ウヒジ(現代仮名遣いではういじ)」を「うびじ」と読んではならない。一般に「連便」によって、下の音を濁ることはよくあるが、その言葉にすでに濁音があれば、頭の音は濁らない。ここは「ひじ」の下が「じ」という濁音なので「ひ」は清音である。】
これによると「宇」は泥である。【ウイ(泥の下に土)の字は泥であると注されている。】後世の歌に、泥を「うき」と言った例がある。これだ。【「う」と言うのは「うき」の「き」を省いて言うのか、あるいは「う」を元々「うき」と言うのか分からない。】「須」は土と水が分かれたのを言う。だから「埿土」とは、かの「浮き脂のようなもの」が海水と土と混ざってまだ分かれない状態【水と土とが混ざったのを泥という。】「沙土」とは海水と土が分かれた状態を言う。【「沙(すな)」の字を使ったのは、この字が「水のほとりの地」と注されているので、その意味を取ったのだと思われる。詩経の大雅に「鳧鷖在レ沙(カモやカモメが沙にいる)」というのがそうだ。「洲」の字にもその意味があり、もと同言である。ただし、これらは水を離れて乾いた土のことで、ここの神名の「沙土」は、まだ海水の中にありながら分かれたのを言うようだ。和名抄では「聲類に砂は水中の細礫(石粒)とあり、和名『須奈古』(すなご)」と書かれていて、水中にありながらも分かれたのを「すな」と言う。砂と沙は同じ。また須奈古の「須」は、須比智邇の須と共通している。】「邇」は豊雲野の「野」に通(かよ)って沼の意である。【「沙土」は海水と土が分かれた状態だが、まだ水の中にあるので大雑把に言うとこれも沼だ。】また書紀に、この二柱の神の「煮」の字は「根」とも言うとある。【「根」なら、「訶志古泥(かしこね)」の「泥」と同じだ。】
ところが師の説では『宇は「浮(うき)」、須は「沈(しず)」【「しず」は「す」に縮まる。】「比地」は「泥(ひじ)」だ。』とある。この解釈も悪くない。【これは、あの一つに混合した泥のようなものが徐々に分かれて、一部は浮かび、一部は沈み始めたのを言う。浮かんだ泥は浮かび散って海になり、沈む泥は凝り固まって国土になる。】この場合「邇」を「土」の意味として【「に」は土(はに)の古名である。粘りのある土を「埴(はに)」、赤い土を「赭(そおに)」、青い土を「青丹(あおに)」というたぐいの例がたくさんある。】「比地邇」は「泥土(ひじに)」とも考えられる。そもそも書紀の字は、師の説と「ひじ」の意味が合致しない。書紀は「土(ひじ)」と書き、「土形(ひじかた)」、「築墻(つきひじ)」などの「ひじ」で土の総称である。師の説では土と水が混じっていて「泥」の字の意味であり、和名抄に『泥は和名「ひじりこ」、一名「古比千(コヒヂ)」』とあり、【後の歌で、「恋路」に掛けて使った例が多い。】俗に「どろ」と言う。
この二説、どちらか一方には決めかねる。