2015/07/15

淤能碁呂嶋『古事記傳』



神代二之巻【淤能碁呂嶋の段】
本居宣長訳(一部、編集)
口語訳:この時、天の諸神から伊邪那岐命、伊邪那美命の二柱の神に仰せがあり「この漂っている国を造り固めて、国土を完成させよ」と言って、天の沼矛を授けた。そこで二柱の神は天の浮き橋に立ち、その沼矛を指し下ろしてかき回した。塩こおろこおろとかき回して引き上げた時、矛の先から滴り落ちる塩が積もって嶋となった。これが淤能碁呂の嶋である。 天神諸(あまつかみもろもろ)。

天神は、最初に現れた五柱の神々である。【後の方では、何事も「高御産巣日神の命以て(みこともちて)」とあるのだが、ここだけはこの大神の名を特に挙げないで、このように天神もろもろと全てを挙げているのは、何か理由があるのだろうか。】もろもろとは、五柱を合わせて呼んでいるので、天神について言っている。(天神が、もろもろの命を下したと言うのではない。) 天の石屋(いわや)の段で「八百萬神諸咲(ヤオよろずのカミもろもろワラウ)」、中巻、倭建命の段に、「后等及御子等諸下到而(キサキたちミコたちモロモロくだりキマシテ)云々」、孝謙紀の皇太后の宣命に、「汝多知諸者吾近姪奈利(イマシたちモロモロは、アがチカキおいナリ)」、称徳紀の宣命に「天下能人民諸乎愍賜(アメのシタのオオミタカラもろもろをメグミたまい)云々」などがあり、これらと同様、古語の用法である。また諸々とだけ言うことも多い。

万葉巻二十に「母呂母呂波佐祁久等麻乎須(もろもろはサケクとモウス:誰も皆幸いに[ご無事で]と[神に]祈る)」、薬師寺の仏足石に「都止米母呂母呂(ツトメもろもろ)」などとあるのがそれだ。【この「諸」の字を「かたえの」と読むのは間違いだ。これは真名字の伊勢物語に「諸之人(かたえのひと)」というのがあり、漢籍でもそう読むことがある。それは誰であれ、一人の人について言っている時に、その傍ら(かたえ)の人すべてを指して言うために「かたえの人」という言葉になるのだから、その意味合いを考えず「諸」の字は全てそう読むと思うのはみだりごとである。なお、これを旧印本にも「元々集」という本に引いたところにも「コク(言+告)」の字を書いているのは誤写である。】

命以(みこともちて)命は御言(みこと)である。延喜式の祝詞に「天津神御言以弖、更量給弖(アマツカミのミコトもちて、サラニはかりタマイテ)云々」などの例があることで理解すること。【すなわち命の字の意味(命令)である。】これを神の名に「~の命」とある「命」の意味(尊称)に解するのは誤っている。「以」は「もちて」と読む。【このことは一之巻の訓法の條に書いた。また「ミコトを」と「を」を付けず「ミコトもちて」と読むことは、延喜式の例や訓法のところに引いた歌で理解すべきである。】ところで、この「ミコトもちて」は国司(クニのミコトもち)の「もち」とは異なる。そちらは命(みこと)を承ってその任を負う、持つという意味である。ここは「ミコトにて」とでも言うようなことで「以て」は軽い意味である。

伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)。前段では伊邪那岐神、伊邪那美神とあったが、これ以降は「命(みこと)」となる。【特別な意味があるわけでなく、前段では他の神々をみな「神」と呼んでいたので、この両神も「神」としたのである。】しかし、後では「大神」と呼んだところもある。およそ「~の命」と名の下に「」を添えて言うのは尊称である。固有名だけでなく、天皇命(すめらミコト)、神命(カミのミコト)、御祖命(ミオヤのミコト)、皇子命(ミコのミコト)、父命(チチのミコト)、母命(ハハのミコト)、那勢命(ナセのミコト)、那邇妹命(ナニモのミコト)、妻命(ツマのミコト)、妹命(イモのミコト)、汝命(ナがミコト)などとも言い、記中、また万葉集にもある。この「美許登(みこと)」という言葉の意味は、よく分からない。【人の言うことは、字の意味から推量する説が多いので信じがたく、さりとて論破するのも難しい。この「こ」を濁って読む人もあるが、記、書紀、万葉のいずれに於いてもすべて清音の文字だけを用いているので、濁ってはいけない。濁音に書いたのは、漢文の書に天皇を「主明楽美御徳(スメラみこと)」と書いたのが唯一例だが、これはめでたい字を書き連ねたものであるから、例証とすることはできない。】

「命」の字を書くのは、元は「御言」と書いていたのを意味が通じることから尊称の「みこと」に借りて用いたのである。一般に言葉さえ同じであれば文字の意味にはこだわらず、自由に文字を借りていたのが古代には普通のことであった。【こうして借りたに過ぎない字の意味を、あれこれ考えてはいけない。】書紀では、この「みこと」を「」と「」に使い分け「至って貴いのを尊、その他は命と言い、美許登と読む」とある。これは君主と臣下の称号が同じになることを嫌って、あえて書き分けた撰者の作為である。ところで、その「」は字の意味を取って書かれるので正字である。「」は古くから書き習わした字をそのまま書いたので、やはり借り文字である。【それなのに「尊」に対してこの「命」の文字を考え「臣下は君主の命を承る意味だ」などと論じるのは、こじつけである。命令する人を「命」と名付けたのならそうかも知れないが、命を受ける方をそう呼ぶのは事を取り違えている。】

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