大和盆地の東、奈良県桜井市初瀬の長谷寺は西国三十三札所巡り第八番のお寺で、初夏は牡丹、秋は紅葉の名所としても名高い名刹である。実は、このお寺も地獄に関係がある。もとより三十三カ所巡りは「極楽往生したい。地獄には堕ちたくない」という庶民の思いが観音信仰と結びついたものだから、長谷寺に限らず全てが関係あると言えばあるのだろうが、ここはとりわけ創建者の徳道上人が地獄から生還してきたという言い伝えが、縁起として残されているのである。
昔は生きることだけでも大変で、ちょっとした病気でも死んだし、必死になって働いても収穫時期に台風が吹いて薙ぎ倒されたり、洪水で全てが水浸しになって全ての努力が水の泡になったりもした。それでもきつい税金を取られ、現世が地獄そのものと言えた。そんな状況だけに、せめてあの世くらいは極楽でゆっくりさせてほしい、地獄で無限の苦しみを味わうようなことは堪忍してほしい、と思うのは無理からぬことであった。
人々は
「何とか極楽往生したい。あのやさしい観音様は、真面目に働き、誠実に生き、ひたすらに信じ、おすがりするものをきっと救ってくださる」
ということで、各地の観音を巡って祈りをささげたのである。単に極楽往生させてくださいと祈るだけではなく、自らが生きるにおいて様々に犯してきた罪を反省することが前提になった。
「南無大慈大悲観世音菩薩、種々重罪、五逆消滅、自他平等、即身成仏」
と唱えるのが、その意味である。
長谷寺に鎮座ましますはご本尊は、長等身十一面観音でして御詠歌は
「いくたびも まいるこころは はつせでら やまもちかいも ふかきたにがわ」
同寺の縁起によれば、聖武天皇の神亀四年(七二七)に徳道上人が創建したとのことです。この徳道上人、ある時、病気となってもはや寿命ということなり、あの世に行かざるをえなくなった。さすがに修業を積み、悟りを得ておられたものですから
「まだ死にとうない。し残したことがたくさんある」
などと往生際の悪いことを言うこともなく、従容としてあの世に向かわれたのであるが、冥界に着いたところ閻魔大王が上人を閻魔庁に招き入れたのであった。
招き入れたといっても、例の地獄の鬼どもが有無を言わさず荒っぽく引っ張っていき「ここに座って待っておれ」と命令いたしましたものですから、いったい何事が起きたのかと驚くほかありませんでしたが、ほどなくして参りました閻魔大王、獄卒の鬼どもの無礼を詫びた後、次のように話したそうであります。
「御上人をわざわざお呼び立てしたのは他でもない。日本には、ここを訪ねて巡れば一切の罪障が消滅し、極楽往生できるという観音浄土が実は三十三カ所もある。にもかかわらず、誰も知らない。それゆえに、あたら地獄に堕ちなくていいものまで地獄に堕ちておる。地獄が賑やかな方が仕事のしがいがある閻魔がこういうことを言うのは何だが、これは些か残念なことである。そこで御上人、いま一度、娑婆に戻ってもらうゆえ、ぜひとも衆生に三十三カ所の観音霊場を訪ね巡るようにしてもらいたい」
この話が終わると、上人は、その場所を書いた地図と宝印を渡され、この世に戻ることを許されたのであります。その第一番が他のどこでもない今、長谷寺が建っている場所でありまして、早速、上人はここに観音様をお祀りしたのであります。一番目だから、元は初瀬寺と名付けられておりましたが、後に三十三札所巡りが再整理された折に一番札所が那智山青岸渡寺とされたことから、長い深い谷の地に建っている寺ということで長谷寺ということになったのであります。
徳道上人は斉明天皇二年に播磨国揖保郡に生まれ、若いうちに両親を亡くし仏門に入りました。長谷寺の入口近くに法起院というこじんまりした寺がありますが、ここに上人はまつられています。この寺は、三十三カ所巡りの番外と位置づけられ
「極楽はよそにはあらじ わがこころ おなじ蓮(はちす)のへだてやはある」
という御詠歌もあります。極楽というのは何処か他所にあるというのではなく、他所のどこでもない自分の心の中にある、ひたすら真面目に生き、祈り続けなさいと教える歌であります。
これは、あの達磨(だるま)大師が「地獄は、何処にございましょうか」と問われて
「他所の何処でもないよ。あんたの心の中の『三毒』にある」(三毒とは、欲深い心である「貪(どん)」、すぐに怒ってしまうせまい心である「嗔(しん)」、ばかな心である「痴(ち)」)
と答え、さらに
「では、極楽は何処にございましょうか」と問われ
「あんたの心の中の三毒がなくなったら、そこが極楽浄土じゃよ」
と答えられたという逸話が残っていますが、まさにこれと同じであります。
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