2016/06/19

黄泉戸喫『古事記傳』

○悔哉は「くやしきかも」と読む。「哉」の字は、書紀に「かや」【神武の巻】とか「かね」【顕宗の巻】とか註されているが、やはり「かも」と読むのが普通である。【最近のように「かな」と読むのは、奈良朝の頃までは例がない。】これは、既に黄泉戸喫(よもつへぐい)してしまったことを悔いて言う言葉である。

○不速來(トクきまさずて)。この「ずて」は、悔しい気持ちのある言葉である。 万葉巻三【廿丁】(277)に「速来而母見手益物乎、山背高槻村散去奚留鴨(トクきてもミテマシものを、ヤマシロのタカツキのむらチリにケルかも)」

黄泉戸喫(よもつへぐい)。 書紀には「餐(正字はにすいへん+食)泉之竈、此云2譽母都俳遇比1(よもつへぐい)」とある。【この「俳」の字を「火」の意味と見て、古来「比(ひ)」と読んでいるのは間違いだ。この字は「皮皆の反(ヒの音、カイの読み)」で「ハイ」と読む。「ハイ」の読みの字を「ヒ」の仮名に用いた例はない。珮、杯、背、沛などの字はみな「閇(へ)」の仮名であるのを見ても分かる。哀、愛も「え」に用い、開、階を「け」に用い、賣、味、妹を「め」に用いるのと同じ用法である。そのうえ「竈」の字を書き、この記にも「戸」の字を書いているのだから「へ」と読むことに疑問の余地はない。また書紀纂疏の印本に「非」の字を書くのは誤写である。】

「閇(へ)」とは竈のことであって、戸の字を書くのは、竈をもとにして民の戸(いえ)を言うからである。【漢において民家を戸(こ)と言うので、ここでも民家を「へ」と言うのにこの字を用いたのである。民家を竈で言うのは、今の世でも戸数を「幾かまど」と言い、「竈が絶える」などの言い方もある。また「民戸幾烟」と言うのもこれである。】

この黄泉戸喫というのは、黄泉国の竈で煮炊きしたものを食べることを言う。これこそ火を忌み清めることのもとである。【であれば、今の世でも言うように「黄泉の火を食らう(よもつひぐい)」という読みができるのではないかという意見があるだろうが、俳も戸も「ひ」とは読めないことは既に述べた通りである。

纂疏に「質問-水火は天然のもので、きれい、きたないは論じないものだが、神事に火を忌むのはなぜか。
答え-火そのものは清浄なものだが、物に触れて穢れるのである。したがって煮炊きしたものを食べないのである」とある。水火は天然の物なので穢れはないというのは漢意の小理屈で、物に触れて汚れることがあるなら、黄泉の物は炊爨の具だけでなく、すべて穢れている中で、特別に竈だけを言うのは、本来その火に穢れがあるからではないだろうか。後の段で、男神が衣服を「穢れた」と言って投げ捨てたのは、黄泉のすべての穢れである。だがここでは、他の物には言及せず、戸喫(へぐい)したことだけを言っているのは、火の穢れが重いからである。

こうして火に清浄なものと穢れたものがあることは、どうしたわけかは測り知れぬことであるのに、その理由はないものと思い込むのは、神の理を信ぜず、みだりにおのれの考えを信じているのである。今の世では、神事の時や神の鎮座する場所でこそ火の忌みを重視するが、日常の暮らしではさほどの注意もしないのは「火の穢れなど愚かしい」と、さかしらな漢意が広がったためである。】

畏れ多くも、万事の禍(まが)は、火の穢れから起こるのである。禍が起こるのは、この黄泉の穢れから生まれた禍津日(まがつひ)神の御霊による。火が穢れたときは、この神が所を得て荒びるので、いろいろな禍が起こるのである。神の道を志す人は、あさはかな漢意を捨てて、ここのところをよく考えるべきである。
だから世の中を治めるには、まず天下の火を忌み清めて神の心を取り鎮める必要があるのだ。

ところでここで伊邪那美命が言ったことは、夫や子からは別れがたい心があり、この世に戻りたいと思われるのに、この黄泉戸喫の穢れによって、帰ることができないのである。このお言葉をよく味わって、火の穢れをなおざりにしてはならぬことを悟るべきである。【○書紀に「私はもうヨモツヘグイしてしまいました、でも、私は寝ましょう」と言っているのは、「竈矣」の下に文が脱けているのである。試みに言うと、この記にあるように「それでもあなたがいらっしゃったのは畏れ多いことですから、帰りましょう」などの文があったに違いない。ここで書紀の「でも、私は寝ましょう」というのは、この記の「黄泉の神と相談しましょう」というのに当たっている。おそらく古い本にはそうした言葉があったのを、いずれも文頭に「雖然(しかれども)」という語があったので、紛れて写し損なったのだろう。そういうことはよくあるものだ。現行本では、言葉が続かず、何か不可解である。それなのに世の注釈者たちは、どう思っているのか、何ら疑いを抱いていないらしいのは、たいへんおかしいことである。】

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