江戸幕藩体制の確立によって、経済的には石高制という形で、大名や村の大きさまでが米の見積り生産高によって表示されるようになり、米を中心とした経済システムが完成をみた。また江戸幕府という高度な中央集権国家によって、先にも見たような全国的流通システムが完備するとともに、大規模な新田開発が進められ農業生産力も相対的に上昇していった。ただ多くの餓死者や、体力不足の状態に蔓延する疾病による死者を出す飢饉に、一般の農民はしばしば食生活を脅かされた。
こうした飢饉は傾向として、米作りが難しかった東北地方に多かったが、これは必ずしも自然災害によるものだけではなかった。石高制というシステムの下で、諸藩のうちには三都の米商人に借金する大名もいた。彼らには、飢饉が予想されると年貢米による返済が迫られ、領内の米が飢餓状態にも関わらず米商人へと送られるため、必要以上の死者を出すという状況も少なくなかった。ただ中世とは異なって肉に対する禁忌が最も高まり、米を中心とした食生活が確立されてはいたが、村によっては水田の開発が難しい場合も多く、米よりも麦や粟・稗などの雑穀が想像以上に食されていた。一方で、生産力の向上と商品流通の進展は、村々におけるいわばグローバル化を進展させていった。
近世も中期を過ぎると、混ぜ飯における米の比率が増えるなど、徐々に食生活も豊かになった。村々で最も豊かな食事が供されるのは、正月のほか様々な年中行事などの時で、これらには米の飯と酒や餅という米を元にした食品が重用された。特に中世に始まる村の宮座などでは、神事に調理された神饌が供され、神への献饌が終わると、これを村人たちが口にする神人共食が始まる。神饌とは豊作など神への祈りの代償に供されるものであるが、それを神事後にそこで食することで、神々と共食した証しとなり、神の恩恵が被るようになる儀式で、それぞれの地域の郷土料理が供えられることが多かった。
さらに伊勢参詣などが全国の村々で行われるようになり、多くの農民たちが講を作って金を貯め、農閑期には順番で伊勢参りに出かけた。この旅は、村の繁栄を願って伊勢神宮で大神楽を奉納することに主な目的があるが、同時に道中の宿の料理や伊勢の御師宿でのご馳走が楽しみでもあった。なお近世の村々には、それぞれに村の料理人と呼ぶべき料理上手がおり、彼らが様々な村の宴会や家々の結婚式などの料理を司っていた。そうした村の料理人にとって、伊勢参りなどで各地の料理に接することは、彼らの料理技術の向上にも大いに役立った。
近世後期になると、都市の料理文化も流入するようになった。先に『料理通』の事例を紹介したが、村々にも出版された料理本を所持する者もあったほか、村々を回る貸本屋から料理本を借りて、その一部を書き写すことも行われた。さらには商用や村の訴訟などの用事で、江戸や京・大坂に出向く場合も少なくはなく、そこで都市の料理文化に触れて、その一端を村に伝えることもあった。特に19世紀以降には、そうした特色が著しくなっていった。
すでに近世においても、初期にはポルトガル系の南蛮料理が伝承されており、後期にも江戸などの大都市には、長崎経由で中国系の卓袱料理屋が伝わり、いくつかの店がこれを扱っていた。また安政元(1854)年、日米和親条約を皮切りに、欧米各国との国交が開始されると、外国人の居留が始まり、新たに西洋の食文化が流入するところとなる。
そして幕末の開国から明治維新期にかけて、箱館・横浜・長崎などに西洋料理屋が出現をみた。ただ西洋料理が日本料理と最も異なる点は、いうまでもなく畜肉の利用にあった。もちろん先にも述べたように、近世社会では現実に肉は食されていた。しかし肉を食べると口が曲がる、眼が潰れるなどと言った俗信が広まっていたように、一般には肉食忌避が支配的であった。これは、まさしく古代国家が発したいわゆる肉食禁止令に起源があるが、原則的に王政復古を基調とした明治政府としては、この法令を改めなければ食事を伴う外交の場で極めて不利な状況に追い込まれることになる。このため、ほぼ1200年後の明治4(1871)年に、改めて天皇による肉食再開宣言が打ち出された。
これを承けて、宮中では女官たちに西洋料理のマナーを講習させるなどの改革が行われた。この明治4年、5年は文明開化が一気に進んだ時期で、一種の西洋ブームが起こり、その一環として、牛鍋人気が高まった。『安愚楽鍋』が評判を呼び「牛鍋喰わぬは開化せぬ奴」という言葉が流行した。ただ、この牛鍋は味噌や醤油・味醂などによる味付けで、基本的には日本風の鍋料理に、牛を用いたに過ぎず、紅葉鍋の系譜に属するが、西洋料理への部分的な心情の傾斜を物語るものといえよう。この時期の本格的な西洋料理屋としては、精養軒などのレストランが知られるが、これも外国人の眼からすればヨーロッパの混淆料理でしかなかった。
また日本の食材を用いたり、畳で食べさせるような西洋料理屋が評判を呼ぶようになった。明治10年頃までには大都市のあちこちに、こうした西洋料理屋が出現し、同10年代には地方都市にも広がっていった。やがて明治末期から、西洋野菜も徐々に一般化して八百屋の店先で売られるようになり、食生活の西洋化が次第に進展していった。これに大きな役割を果たしたのが、ジャーナリズムと学校教育であった。
明治20年代になると『西洋料理法』を表題とする料理本が版を重ね、同30年代には広汎な読者を獲得したほか、西洋料理の調理法を解説した新聞記事なども、しばしば掲載されるようになった。また女学校での調理授業や新たに開設された調理学校などでも、日本料理のほかに西洋料理の作り方も伝授されたが、これと並んで和洋折衷料理という部門があった。例えば、ハムの粕漬けやカレー粉入り味噌汁などといった類で、日本料理の西洋化を必死に志向した努力の産物と見なすことができる。もちろん、こうした女学校での洋風料理教育はハイレベルな人々の事例ではあったが、徐々に西洋料理や肉食は一般にも広がっていった。とくに肉食の普及に関しては軍隊の役割が大きく、そこでの食事には缶詰や肉類が多く用いられている。
むしろ民衆は、軍隊で広く肉食の味を覚えたといえよう。ちなみに牛肉の消費量は、明治10年以降から末年までの間に実に8倍近い伸びを示している。なお、豚肉については初め消費量は少なかったが、明治末年から大正期にかけて牛肉を追い越すという現象がみられる。
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