春秋時代の周は洛邑(王城・成周)周辺を支配する小国となり、往時と比するべくもない程まで没落した。更に平王の孫である桓王が繻葛の戦い(前707年)で、一諸侯に過ぎない鄭に敗れた事で諸侯に対する統制力を喪失した。それでも権威だけは保持しており、諸侯たちはその権威を利用して諸侯の間の主導権を握ろうとした(春秋五覇)
そのわずかな権威も戦国時代に入ると完全に無くなり、各諸侯がそれぞれ「王」を称するようになった。その小さな王朝の中でも権力争いは続いており、東西に分裂したり、何度となく王が殺されることが起きた。
滅亡
最後の王である赧王の在位中は、周王室の影響力はわずかに王畿(現在の洛陽附近)に限定され、周王室も貞定王の末子掲(桓公)を始祖とする西周公(武公)と東周君(君傑)の勢力に分裂しており、赧王は西周の武公を頼って西周(河南)に遷都した。祖父の顕王の時代より秦の勢力が急速に拡大しており、諸々の政策でも周の勢力挽回は成功しなかった。
紀元前256年、武公の西周は諸侯と通じて韓と交戦中の秦軍を妨害したため、秦の将軍摎の攻撃を受けた。西周君は秦へおもむき謝罪し、その領土を秦に献上した。このため赧王は秦の保護下に入り、まもなく崩御した。秦が九鼎を移し、王畿を占拠したことで西周は滅亡することとなった。
赧王の死後も、昭文君の東周は7年間存続した。昭文君は楚の力を借りて六国の諸侯を連合させ、秦を討伐しようとしたが失敗し、その統治する地域は秦に奪われた。
ただ、国として滅びたのみで元の王族だった者達は、そのまま存続を許された。
政治
周の官制については、周の諸制度について周公旦が纏めたとされる『周礼』に非常に詳しい記述があるが、この書物の成立は戦国時代以降と見られているので、これを以って周の官制を論ずるには無理がある。金文によると、周には卿事寮(けいじりょう)・大史寮(たいしりょう)と呼ばれる2つの組織があった。卿事寮の長官は太保・太師の2つがあり、のちに太師だけになる。下に司馬(軍事担当)・司土(土地管理担当)・司工の職があり、各諸侯の下にも同じ職があった。大史寮の長官を太史と呼び、歴史の編纂・各種儀礼・祭祀などを行う。
『春秋左氏伝』によると、身分制度については王の下に諸侯がおり、その下に大夫(たいふ)と呼ばれる一種の貴族層があり、その下に士と呼ばれる層があり、その下が庶民となっている。ただし大夫と士と言う階級は金文には無い。前述したように、取引される対象である一種の奴隷階層があったことは間違いなく、主に主人に代わって農作業を行っていた。この中には職工と思われる職もあり、青銅器の鋳造に関わっていたと考えられる。
土地制度については井田制が行われていたとされるが、この制度も実際に行われていたかは疑問視する声が多い。
文化
殷の青銅器文化は、その芸術性において最高の評価を与えられている。周も基本的にはその技術を受け継いでいたのだが、芸術性においては簡素化しており、殷代に比べればかなり低い評価となっている。
この時代の青銅器はほぼ全てが祭祀用であり、実用のものは少ない。器には占卜の結果を鋳込んである。これが金文と呼ばれるもので、この時代の貴重な資料となっている。殷代と比べて、周代はこの文が非常に長いものとなっていることに特徴がある。
また、それまでの絶対的な祖先崇拝が薄められたことも、殷と周との違いとして挙げられる。殷では祖先に対する崇拝と畏れが非常に強く、祭祀を怠ったりすればすぐにでも祟られるという考えを持っていた。
これらの青銅器に文字を鋳込む技術は王室の独占技術であったようで、諸侯には時に王室から下賜されることがあった。春秋時代に入るときの混乱から技術が諸侯にも伝播して、諸侯の間でも青銅器に文字を鋳込むことが行われ始めた。
建築の分野では、周に入ってからそれまでの茅葺きから瓦が一般的になったことがわかっている。投壺(とうこ)が始まったのも周代とされる。
都市と領土
西周王朝、領土は点と点とを結んだネットワーク状のもので面領域ではない。よって周王朝の勢力領域を確定するのは困難であるので領域は設定せず、邑名だけ記入した。
殷代から春秋時代にかけての華北は、邑と呼ばれる都市国家が多数散在する時代であった。殷代、西周時代の邑は君主の住まいや宗廟等、邑の中核となる施設を丘陵上に設けて周囲を頑丈な城壁で囲い、さらにその周囲の一般居住区を比較的簡単な土壁で囲うという構造のものであった。戦時に住民は丘陵上の堅固な城壁で囲まれた区画に立てこもり防戦した。
東周時代には、外壁が強化され、内壁=城と、外壁=郭からなる二重構造、つまり「内城外郭式」がとられるようになった。華北の城壁は、無尽蔵にある黄土を木の枠にしっかりとつき固め、堅い層を作りそれを重ねてゆく版築という工法によって築造されている。こうして作られた城壁は、極めて堅固な土壁となる。水には弱いが、もともと華北は雨量が少ない上、磚と呼ばれる黄土を焼成して作られた煉瓦で城壁を覆い防水加工を施すため、あまり水の浸食を受けることもない。人為的破壊が無い限り、城壁はかなり長い寿命を維持することができる。
邑は城壁に囲まれた都市部と、その周辺の耕作地からなる。そして、その外側には未開発地帯が広がり、狩猟・採集や牧畜経済を営む非都市生活の部族が生活していた。彼らは「夷」などと呼ばれ、自らの生業の産物をもって都市住民と交易を行ったがしばしば邑を襲撃し、略奪を行った。また、邑同士でも農耕や交易によって蓄積された富などを巡って、武力を用いた紛争が行われていた。こうした紛争などにより存続が難しくなった小邑は、より大きな邑に政治的に従属するようになっていった。
さらに春秋時代の争乱は、中小の邑の淘汰・併合をいっそう進めた。大邑による小邑の併合や、鉄器の普及による開発の進展で農地や都市人口が大規模に拡大したために、大邑はその領域を拡大して邑と邑の間に広がっていた非都市生活者の生活領域や経済活動域を消滅させてゆく。また、軍事が邑の指導者層である都市貴族戦士に担われる戦車戦から、増大した農民人口によって担われる歩兵戦に重点が移行するとともに、それまで温存されていた大邑に従属する小邑が自立性を失って、中央から役人が派遣されて統治を受ける「県」へと変えられていった。こうして春秋末から戦国にかけて、華北の政治形態は都市国家群から領域国家群の併存へと発展していった。