2018/09/28

欠史八代

欠史八代(けっしはちだい、かつては闕史八代または缺史八代とも書いた)とは、『古事記』・『日本書紀』において系譜(帝紀)は存在するが、その事績(旧辞)が記されない第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のこと、あるいはその時代を指す。

 

1945年(昭和20年)1215日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が政府に対して発した覚書「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(神道指令)により神道は衰えた。軍国主義の排除、国家神道を廃止、神祇院を解体し政教分離を果たすために出されたものであり、戦前の教科書や国家神道の書籍の類はことごとく廃棄され、神武天皇を否定する教科書だけが出版されるようになる。これらの方針を元に現代の学説も形成されて、津田左右吉の説が主流になる。その影響を受けて現代の研究では、これらの欠史八代の天皇は実在せず後世になって創作された存在であると考える見解が有力だが、実在説も根強い。

 

歴史学者津田左右吉が始めに主張した説では、欠史八代に次ぐ崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇と神功皇后夫妻も存在を否定されており、津田は「欠史十三代」を主張していた。1942年(昭和17年)5月に裁判では敗北したが、戦後にGHQの指導で、教科書から強制的に神武天皇から神功皇后の存在が削除されると同時に、津田の説が歴史学の主流となった。ただ、その後に津田説に次々と矛盾点が発見されて崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇と神功皇后夫妻の非実在説が薄らいだために「欠史十三代」から「欠史八代」へと津田左右吉の説は変貌した。

 

    綏靖天皇 - 神渟名川耳天皇(かむぬなかわみみのすめらみこと)

    安寧天皇 - 磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)

    懿徳天皇 - 大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)

    孝昭天皇 - 観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)

    孝安天皇 - 日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)

    孝霊天皇 - 大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)

    孝元天皇 - 大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)

    開化天皇 - 稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおびびのすめらみこと)

 

欠史八代の天皇を非実在と考える代表的な根拠は、以下の通り。

これらの八代の天皇は中国の革命思想(辛酉革命)に合わせることで、皇室の起源の古さと権威を示すために偽作したという推測がある。

 

辛酉とは干支のひとつで、中国では革命の年とされる。21回目の辛酉の年には大革命が起きる(讖緯説)とされ、日本では聖徳太子が政治を始めた601年(厳密には6世紀末とされるが、表立った活動の記録はない)が辛酉の大革命の年である。すると21×60=1260よりAD6011260=BC660(西暦0年はない)が神武天皇即位年と算出される。

 

29代に限らず、古代天皇達はその寿命が異常なほど長い。たとえば神武天皇は『古事記』では137歳、『日本書紀』では127歳まで生きたと記されており、このことは創生期の天皇達が皇室の存在を神秘的に見せるために創作されたことを示唆している。

 

『日本書紀』における初代神武天皇の称号『始馭天下之天皇』と、10代崇神天皇の称号である『御肇國天皇』はどちらも「ハツクニシラススメラミコト」と読める。これを「初めて国を治めた天皇」と解釈すれば、初めて国を治めた天皇が二人存在することになる。このことから、本来は崇神が初代天皇であったが「帝紀」「旧辞」の編者らによって、神武とそれに続く八代の系譜が付け加えられたと推測することができる。また、神武の称号の「天下」という抽象的な語は、崇神の称号の「国」という具体的な語と違って形而上的な概念であり、やはり後代に創作された疑いが強いといえる。

 

1978年、埼玉県稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣に「意富比垝(オホヒコ)」という人物からの8代の系譜が刻まれていたことが確認された。この「意富比垝」は、上述の崇神天皇が派遣した四道将軍の一人・大彦命と考えられる。大彦命は第8代孝元天皇の皇子のはずだが銘文には何ら記載がなく、鉄剣製作時(471年)までにはそのような天皇は存在しておらず、後の世になって創作された存在であることを暗に物語っている。

 

4代・6代~9代の天皇の名は明らかに和風諡号と考えられるが、記紀のより確実な史料による限り和風諡号の制度は6世紀半ば頃に始まったものであり、神武・綏靖のように伝えられる名が実名とすると、それに「神」がつくのも考え難く、やはりこれらの天皇は後世になって皇統に列せられたものと考える見方が妥当である。

 

系譜などの『帝紀』的記述のみで事跡などの『旧辞』的記述がなく、あっても綏靖天皇が手研耳命(たぎしみみのみこと)を討ち取ったという綏靖天皇即位の経緯ぐらいしかない。これらは伝えるべき史実の核がないまま、系図だけが創作された場合に多く見られる例である。

総て父子相続となっており、兄弟相続は否定されている。父子相続が兄弟相続に取って代わったのはかなり後世になるため、歴史的に逆行することにもなってしまう。

 

陵墓に関しても、欠史八代の天皇には矛盾がある。第10代崇神天皇以降は、多くの場合その陵墓の所在地には考古学の年代観とさほど矛盾しない大規模な古墳がある。だが第9代開化天皇以前は、考古学的に見て後世に築造された古墳か自然丘陵のいずれかしかない。その上、当時(古墳時代前~中期頃)築造された可能性のある古墳もなければ、弥生時代の墳丘墓と見られるものもない。

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