2018/10/03

入滅(釈迦の思想5)


やがて雨期も終わって、釈迦はヴァイシャーリーへ托鉢に出かけ托鉢から戻ると、アーナンダを促してチャーパーラ廟へ向かった。永年しばしば訪れたウデーナ廟、ゴータマカ廟、サッタンバ廟、バフプッタ廟、サーランダダ廟などを訪ね、チャーパーラ霊場に着くと、ここで聖者の教えと神通力について説いた。

托鉢を終わって、釈迦は、これが「如来のヴァイシャーリーの見納めである」と言い、バンダ村 (bhandagaama) に移り四諦を説き、さらにハッティ村 (hatthigaama)、アンバ村 (ambagaama)、ジャンブ村 (jaambugaama)、ボーガ市 (bhoganagara)を経てパーヴァー (paavaa) に着いた。

ここで四大教法を説き、仏説が何であるかを明らかにし戒定慧の三学を説いた。釈迦は、ここで鍛冶屋のチュンダのために法を説き供養を受けたが、激しい腹痛を訴えるようになった。

カクッター河で沐浴して、最後の歩みをマッラ国のクシナガラに向け、その近くのヒランニャバッティ河のほとりに行き、サーラの林に横たわり、そこで死んだ。仏教ではこの死を入滅、釈迦の入滅を仏滅という。腹痛の原因はスーカラマッタヴァという料理で、豚肉、あるいは豚が探すトリュフのようなキノコであったという説もあるが定かではない。

死後
釈迦の死後、その遺骸はマッラ族の手によって火葬された。当時、釈迦に帰依していた八大国の王たちは、釈迦の遺骨(仏舎利)を得ようとマッラ族に遺骨の分与を乞うたが、これを拒否された。そのため、遺骨の分配について争いが起きたが、ドーナ(dona、香姓)バラモンの調停を得て舎利は八分され、遅れて来たマウリヤ族の代表は灰を得て灰塔を建てた。

その八大国とは
・クシナーラーのマッラ族
・マガダ国のアジャタシャトゥル王
・ベーシャーリーのリッチャビ族
・カビラヴァストフのシャーキャ族
・アッラカッパのプリ族
・ラーマ村のコーリャ族
・ヴェータデーバのバラモン
・バーヴァーのマッラ族
である。

弟子たちは亡き釈迦を慕い、残された教えと戒律に従って跡を歩もうとし、説かれた法と律とを結集した。これらが幾多の変遷を経て、今日の経典や律典として維持されてきたのである。

宗教
上座部仏教では、釈迦は現世における唯一の仏とみなされている。最高の悟りを得た仏弟子は阿羅漢と呼ばれ、仏である釈迦の教法によって解脱した聖者と位置づけられた。

一方、大乗仏教では、釈迦は無量の諸仏の一仏で、現在の娑婆の仏である、等と拡張解釈された。また、後の三身説では応身として、仏が現世の人々の前に現れた姿であるとする。

釈迦の死後、インドで仏教とヴェーダの宗教は互いに影響を与え、ヴィシュヌ派のプラーナ文献に釈迦はヴィシュヌのアヴァターラとして描写されている。ただしヴェーダを否定した釈迦は、神の化身とはいえ必ずしも肯定的な評価ではない。この件に関して、20世紀に新仏教運動を興したアンベードカルは、ヴィシュヌ派による釈迦の扱いを「偽りのプロパガンダ」と呼んで非難している。

一方で、新ヴェーダーンタ学派のサルヴパッリー・ラーダークリシュナンは、『法句経』を英訳した際の註釈で、釈迦の思想が極端に誇張されて伝わったのは当時とそれ以降の時代背景のせいで、釈迦の思想はウパニシャッドから派生したものと評価している。インド憲法でも、仏教はシク教・ジャイナ教と並んでヒンドゥー教の分派のひとつとして扱われている。

マニ教の開祖であるマニは、釈迦を自身に先行する聖者の一人として認めたが、釈迦が自ら著作をなさなかったために後世に正しくその教えが伝わらなかった、としている。

マルコ・ポーロ
マルコ・ポーロの体験を記録した『東方見聞録』においては、釈迦の事を「彼の生き方の清らかさから、もしキリスト教徒であればイエスにかしずく聖人になっていただろう」あるいは、「もし彼がキリスト教徒であったなら、きっと彼はわが主イエス・キリストと並ぶ偉大な聖者となったにちがいないであろう」としている。

また『東方見聞録』の記述では仏教という言葉は無く、アブラハムの宗教以外の宗教は全て「偶像崇拝教」と記述されているが、その偶像崇拝の起源は釈迦の死後にその生前の姿を作ったのものとしている。

釈迦の像
入滅後400年間、釈迦の像は存在しなかった。彫像のみならず絵画においても釈迦の姿をあえて描かず、法輪や菩提樹のような象徴的事物に置き換えられた。崇拝の対象は専ら仏舎利または仏塔であった。

釈迦が入滅した当時のインドでは、バラモン教を始めとする宗教はどれも祭祀を中心に据えており、像を造って祀るという偶像崇拝の概念が存在せず、釈迦自身もそのひとりであった。
初期仏教もこの社会的背景の影響下にあり、またそもそも初期仏教は偶像を作る以前に釈迦本人に信仰対象としての概念を要求しなかった。

仏像が作られるようになったのは、ヘレニズムの影響によるものである。そのため初期のガンダーラ系仏像は、意匠的にもギリシアの影響が大きい。しかし、ほぼ同時期に彫塑が開始されたマトゥラーの仏像は、先行するバラモン教や地主神に相通ずる意匠を有しており,現在にも続く仏像の意匠の発祥ともいえる。ラホール博物館には、苦行する釈迦の像が所蔵されている。

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