ポンペイと、その周辺の別荘からは多数の壁画が発掘され、古代ローマの絵画を知る上で重要な作品群となっている。ポンペイの壁画の様式には年代により変遷が見られ、主題も静物、風景、風俗、神話と多岐にわたっている。男女の交わりを描いた絵も有名で、これらはフォルム(市民広場)や浴場や多くの家や別荘で、よい状態で保存され続けていた。1000平方メートルの広さをもつホテルは、町のそばで見つかった。現在、このホテルは、「グランドホテル Murecine」と呼ばれる。
ポンペイの壁画が豊かな色彩を失わなかった秘密は、この街を襲った悲劇にあった。79年8月24日、町の北西10kmにあるヴェスヴィオ火山の噴火により押し寄せた火砕流や有毒ガスが、ポンペイの人々の命を次々と奪っていった。一瞬にして5メートルの深さに町全体を飲み込んだ火砕流が、当時の人々の生活をそのままの状態で保存した。
ポンペイが人々の前に、その姿を再び現した18世紀半ばから、発掘は今に至るまで続けられている。地中から次々と現れるローマ時代の遺品の美しさに世界が驚愕したが、その美しさの秘密は実は火砕流堆積物にあった。
火山灰を主体とする火砕流堆積物には、乾燥剤として用いられるシリカゲルに似た成分が含まれ、湿気を吸収した。この火山灰が町全体を隙間なく埋め尽くしたため、壁画や美術品の劣化が最小限に食い止められたのであった。当時の宗教儀式の様子を描いた壁画の鮮烈な色合いは「ポンペイ・レッド」と呼ばれている。ポンペイの悲劇が、皮肉にも古代ローマ帝国の栄華を今に伝えることになった。
ポンペイは、建造物や街区が古代ローマ当時のままの唯一の町として知られている。後の歴史家たちは、その歴史家の時代のローマは古代ローマをそのまま伝えていると誤解していたが、ポンペイこそが最も純粋に古代ローマの伝統を守り、ほぼ直角に交差する直線の大通りによって規則的に区切られ、計画的に設計された町であった。通りの両側には、家と店がある。建造物は石で出来ていた。居酒屋のメニューも残っていて、こう記されている。
「お客様へ、私どもは台所に鶏肉、魚、豚、孔雀(くじゃく)などを用意してあります。」
石膏で復元した遺体
件の噴火時に発生した火砕流の速度は時速
100km以上で、市民は到底逃げることは出来ず、一瞬のうちに全員が生き埋めになった。後に発掘された際には、遺体部分だけが腐敗消失し、火山灰の中に空洞ができていた。考古学者たちは、ここに石膏を流し込み、逃げまどう市民の最期の瞬間を再現した。顔までは再現できなかったが、母親が子供を覆い隠して襲い来る火砕流から子供だけでも守ろうとした様子、飼われていた犬がもだえ苦しむ様子が生々しく再現された。
この様子は、火砕流が一瞬にしてポンペイ市を埋め尽くしたことを示している。この石膏像の制作によって遺骨が損傷したため、ポンペイ市民の法医学的な調査は長らく滞っていたが、オプロンティス荘近くの商館と思われる建物の地下室から、老若男女身分がバラバラ(居場所は身分別に、ある程度グループを作って固まっていた)な54体の遺骨が発見された。彼らは火砕流からは難を逃れたが、火山性ガスによる窒息で死亡して火山灰に埋もれていた。
町は、1世紀の古代ローマ人たちの生きた生活の様子をそのまま伝える。焼いたままのパンや、テーブルに並べられたままの当時の食事と食器、コイン、クリーニング屋のような職業、貿易会社の存在、壁の落書きが当時のラテン語をそのまま伝えている。
保存状態のよいフレスコ画は、当時の文化をそのまま伝える。当時のポンペイは、とても活気のある都市だった。整備された上下水道の水道の弁は、水の量を調節する仕組みが現在と殆ど変わらず、きれいな水を町中に送っていた。トイレが社交の場となっていたらしく二人掛けのトイレが存在し、トイレは奴隷とその主が共同で使用しており、トイレの壁に「見事だ」と奴隷による落書きが残された遺構がある。発掘された排泄物や骨の調査から、身分によって食事の内容に違いはなく、皆健康的な食生活を送っていたらしい。
爆発時の町の人口は1万人弱で、ローマ人(ローマ市の住民)の別荘も多くあり、また彼ら向けのサービスも多くあった。Macellum(大きな食物市場)、Pistrinum(製粉所)、Thermopolia(冷たいものや熱いものなど、さまざまな飲料を提供したバー)、cauporioe(小さなレストラン)、円形劇場などがあり、噴火直前までこれらが営業していた痕跡がある。2002年には、サルノ川河口にボートを浮かべ、ヴェネツィアのような船上生活をしていた人がいたことが判明するなど、現在も新事実が続々と報告されている。
「市民全員が噴火で死亡し、唯一の生き残りの死刑囚がポンペイの町のことを語ったが、誰も信用しなかった。しかし、それは伝説として残り、発掘されることになった」という逸話が伝わるが、事実ではないと思われる(とりわけ死刑囚に関する事項)
火砕流は歴史的にはまれな現象であり、目撃者は殆ど全員が死亡するので伝説としても残りにくく、一般人に理解されることは困難である[独自研究?]。この逸話は1902年に、西インド諸島のフランス領マルティニーク島にあるプレー火山で起きた同様の火砕流噴火を下敷きにしていると思われる。この噴火では、火砕流以外に麓のサンピエール市で泥流が発生し、警察の留置場に拘留されていた囚人を含めた3名のみを残して、住民約2万8千人が一瞬にしてほぼ全滅した。
ポンペイの建築物が発掘により白日の下にさらされたことにより、止まった時計が再び動き出すかのごとく、雨風による腐朽が進行するようになった。2010年11月8日には「剣闘士の家」と呼ばれた建物が倒壊、翌2011年10月21日には「ポルタノラの壁」が倒壊している。
噴火日についての論争
壊滅的な被害を受ける噴火の発生日は79年8月24日とされているが、18世紀に発掘が開始されて以来、発見された衣類、農作物などから実際に噴火したのは8月24日より後である可能性が示唆されていた。また、2018年の発掘調査では、家屋の壁に「11月の最初の日からさかのぼって16番目の日」と書かれているのが発見された。
これにより、実際に噴火が発生したのは79年10月17日以降である可能性が指摘されている。
出典 Wikipedia
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