2020/05/04

ヒンドゥー教(6) ~ 人生の3つの目的(トリヴァルガ)


包容主義(inclusivism)、あるいは多元的な信仰の共存
 ヒンドゥー教の特徴の一つに、多元的な信仰の共存があげられる。宗教の坩堝といわれるほど多数の信仰が、それぞれの独自性を保ったまま、対立し衝突する危険を携え孕みながらも、共存・共栄している。このような状態を支えている精神は、寛容(tolerance)というよりも、包容主義(inclusivism)といわれる。
 
寛容」は、多くの国の憲法に規定される「信教の自由」を根底で支える理念として働く概念である。信教の自由は、キリスト教圏である西洋において、宗教の違いから生まれる軋轢、とりわけ16世紀以後の新教・旧教の凄惨な対立抗争から生まれた不幸を回避するために確立された権利である。この文脈において「寛容」とは、どの宗教を信じようと、あるいは信じまいと、その選択が自由であることを法に規定された個々人に平等な権利として、互いに認め合うことである。ジョン・ロック(1632-1704)らの思想家たちが、近代産業の勃興と市民階級の台頭に伴う人権思想の発展の中で育んだ概念である。

 包容主義は、自由・平等を基盤とする寛容とは異なって、むしろ自分の信仰が絶対正しいという確信の元で、それでもなお他の信仰を排除するのではなく、それらにも何がしかの良さを認め、その程度によって序列化して、自分の信仰を最高とする体系の中に包含してしまうものである。

 『バガヴァッド・ギーター』の第92324には、そのような思想が鮮明に表れる。(辻直四郎訳『バガヴァッド・ギーター』講談社、1980年、p.154)

「他の神格を信奉し、信仰を具えて祭る者、彼らもまた、クンティー夫人の子(アルジュナ)よ、[実は]われをこそ祭るなれ、たとい儀軌(祭式の規定)にかなわずとはいえ。(23
何となれば、われは一切の祭祀の享受者にして、かつまた主宰者なればなり。されど彼らは如実にわれを知らず。それ故に彼らは[人界に]落つ(輪廻)。(24)」

 ヒンドゥー教は、大きくヴィシュヌ派とシヴァ派に分けられるが、ヴィシュヌ派は唯一の神に信仰を捧げる排他的な立場(ekāntivāda)を取り、他派のマントラを唱えることを厳しく禁じる。さらに細かく分ければ教派の数は極めて多数にのぼり、それら教派間で深刻な宗教対立が起こる危険は常にあったし、現に暴力的な衝突は幾度となく起こった。

 『バーガヴァタ・プラーナ』4.2以下は、シヴァの排斥とそれに対する暴力による報復を描くが、何らかの史実を反映しているのであろう。しかし、こうした排他的な側面を修復する融和の装置が、ヒンドゥー教にはあった。それが包容主義である。

 他派の教義を排他的に拒絶することなく、それらの中に容認できる要素は認めようとする包容主義の土壌において、ブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァの3神格が役割を分担する「トリムールティ説」が生み出され、さらには、ヴィシュヌとシヴァが互いに両派の教説に現れるヒンドゥー教の神話世界の多様性が育まれた。

 包容主義に関連する重要なこととして、インド古来の対話・対論を尊重する伝統が指摘できる。対話形式による表現は、すでに『リグ・ヴェーダ』に認められ、ウパニシャッドには牛などの賞品や生命が懸けられる宮廷での討論などの記述が、幾つも現れる。プラトン対話篇の「ソクラテスの対話」とはいささか趣きが異なっているが、その思想的な意義は深い。そして、その後の時代には、非難の応酬に終わることのない創造的な対論の方法と形式の模索が行われ、対論を有効な仕方で成り立たせる確固とした伝統が築かれて、その後も脈々と引き継がれ、インド論理学の形成に寄与した。

 詭弁の一種に、対論者の主張を批判がしやすいように意図的にゆがめる「わら人形論法」(straw man argumentというものがある。古今東西を問わず口論にはよく用いられるが、インドの哲学思想文献では、この詭弁が皆無とはいわないけれども頻発することがない。原則として対論者の主張は、忠実に伝えられる。批判は、対論者の主張を正確に理解した上で行われるものでなければ真の批判たりえないので、それは当然のことであるが、その当然のことがインドでは伝統にされた。

インド思想史研究において、オリジナルの文献が散逸してしまった思想の研究が可能なのは、この伝統のおかげである。このような対論者の主張を歪めることなく理解した上で批判する精神風土において、包容主義は有効に機能して教派間の深刻な分裂を回避させ、ヒンドゥー教の統一性を保ったと考えられる。

人生の3つの目的(トリヴァルガ)
 ヒンドゥーの人生には、三つの目的があると説かれる。三つとは、アルタ・カーマ・ダルマである。これをトリヴァルガ(trivargaと呼ぶ。「トリ」とは「3」、「ヴァルガ」は「組、セット」の意味である。

 トリヴァルガは、それぞれ詳細に論じられ多くの論書が書かれた。アルタについては「アルタ・シャーストラ」、カーマについては「カーマ・シャーストラ」、ダルマについては「ダルマ・シャーストラ」と呼ばれる文献群が生まれた。これらのうち代表的な文献は、アルタについてはカウティリヤの『アルタ・シャーストラ』、カーマについてはヴァーツヤーヤナの『カーマ・スートラ』、ダルマについては『マヌ法典』である。

 アルタは、普通「実利」と訳される。名誉、富、権力など、現世において追求されるものである。

 カーマは「性愛」で、その論書カーマ・シャーストラは、性行為の指南書である。ただし、カーマは文化的に洗練された粋人から学ぶべき事柄とされている。単なる性欲の充足を目的とするものではない。美的で文化的な要素を多く含む。そのため、インドの文学にカーマ・シャーストラは極めて大きな影響を与えた。

 ダルマは「」と訳される。ダルマを論ずる聖典は、古代インドの「法典」である。しかし、ダルマは、我々の考える「法律」よりはるかに幅が広く、宗教的、道徳的な義務も含む。そのためダルマの追求には、現世だけでなく来世も重要な意味を持つ。

 『カーマ・スートラ』 第1章、第2節において、「トリヴァルガ」は次のようにまとめて説明される。
 「人は百歳の寿命をもつが、時期を分けて、それぞれ関連をつけて、互いに損なうことなく人生の三目的(トリヴァルガ)を追求すべきである。

 少年時代には学問の習得など実利(アルタ)を、青年時代には性愛(カーマ)を、老年にはダルマと解脱を(追求すべきである)。寿命は移ろいやすいので、あるいは臨機応変に追求してもよい。ただし、学問の修得までは禁欲を(実行すべきである。)

 ダルマとは、祭式などのように、この世のことに関わりがなく効果が目に見えないため世間で行われないことを聖典の定めに従って行うことであり、また肉食のように、この世のことに関わりがあって効果が目に見えるため世間でよく行われることを、聖典の定めに従って避けることである。これはヴェーダによって、またダルマをよく知る者との交際によって、修得すべきである。

 アルタは、学問、土地、黄金、家畜、穀物、家財道具、友人を獲得し、獲得したものを増大させることである。これは、役人の処世から、そして職業上の慣行をよく知る商人たちから(会得すべきである)。

 カーマはアートマンと結びついて、心に統御された耳・皮膚・目・舌・鼻(の感覚器官)が、それぞれの対象に(生み出す)心地よい活動である。しかし主として、これは特殊な感触に関するものであって、愛欲の快楽に溢れた実り豊かな目的の感受がカーマである。これは、カーマを説く論書、粋人(ナーガリカ)との交際によって修得すべきである。」

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