2020/05/21

五賢帝時代(1)


五賢帝は、1世紀末から2世紀後期に在位したローマ帝国の5人の皇帝、またその在位した時代のこと。しばしば、ネルウァ=アントニヌス朝とも称される(この場合は、マルクス・アウレリウスの共同皇帝ルキウス・ウェルスおよび後継皇帝コンモドゥスも歴代皇帝に含まれる)。共和政時代から続いてきた領土拡大が一種の集大成を迎え、ローマ帝国始まって以来の平和と繁栄が訪れた。パクス・ロマーナと呼ばれる時代の一角をなす。

概要
五賢帝は、その後継者に比較して穏健な政策によって知られる。時期としては、紀元96年のドミティアヌスの死から、紀元180年のコンモドゥスの登位に至る時期を指し、ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスの5人の皇帝が該当する。また、トラヤヌスの統治時代が、ローマ帝国の領土最大期だった。

ネルウァ(Marcus Cocceius Nerva
トラヤヌス(Marcus Ulpius Nerva Trajanus
ハドリアヌス(Publius Aelius Traianus Hadrianus
アントニヌス・ピウス(Titus Aurelius Fulvius Boionius Arrius Antoninus Pius
マルクス・アウレリウス(Marcus Aurelius Antoninus

これらの諸帝のうち、マルクス・アウレリウスを除く4人は、世襲によらず養子によって後継者を指名した。このことで「五賢帝は実子や血縁者を帝位に就けずに、元老院から最適任者を養子に迎え帝位に就けた」と思われがちであるが、実際はマルクス・アウレリウス以外は、血を分けた息子に恵まれず養子を迎えざるをえなかった、という単純な理由である。

トラヤヌスは、生前にハドリアヌスを養子に迎えていた訳ではなく、彼の死後、養子縁組を知らせる手紙を皇后ポンペイア・プロティナが捏造したことによる、でっち上げとの説が有力である(現にトラヤヌス死去が公表されたのは、ハドリアヌスの養子が決定した後だった)。

そのハドリアヌスが迎えた養子アントニヌス・ピウスは無能ではなかったにせよ、特に華々しい政治経歴を持っているわけではない。また、当のアントニヌス・ピウスも養子を自分の意思で決めた訳ではなく、ハドリアヌスの命令である。その養子であるマルクス・アウレリウスとルキウス・ウェルスは、当時少年であり元老院議員ですらない。更にネルウァを除く4人は、直系の血縁者ではないものの親戚同士にあり、血縁者以外に帝位を継がせたという説も厳密には正確ではない。

一般には「五賢帝」という名称から、この5人がローマ皇帝としての名君の「ベスト5」であるかのように認識されることもある。そのような評価を与えた最初は、ルネサンス期の思想家のニッコロ・マキャヴェッリである。さらに18世紀英国の歴史家エドワード・ギボンは、その評価を引き継ぎ著書『ローマ帝国衰亡史』の中で、この時代を「人類が最も幸福であった時代」と評した。ただし、ギボンは五賢帝以降の皇帝を酷評しているものの、五賢帝がローマ皇帝のベスト5だと評している訳ではない(例えばユリウス・カエサルを「ローマが生んだ唯一の創造的天才」と評している)。

今日でも「ローマの平和」の究極の到達点として広く想起されるものの、ハドリアヌス帝の頃から古代ローマの領域は拡大から現状維持・縮小に転じており、最後の五賢帝であるマルクス・アウレリウス帝の時代あたりからは、北方のゲルマン人侵入の激化というローマ帝国衰亡の兆しも始まっている。
出典 Wikipedia

 西暦96年から180年まで
帝政ローマを支配した5人の皇帝は「ローマ五賢帝」と呼ばれ、有能な君主とされます。

即位の順は、以下の通り。

ネルウァ

    ↓

トラヤヌス

    ↓

ハドリアヌス

    ↓

アントニヌス・ピウス

    ↓

マルクス・アウレリウス・アントニヌス

特に、トラヤヌス帝時代はローマ帝国の最大版図となるなど、五賢帝の時代、帝国は概ね平和と繁栄を享受し、最盛期を実現しました。

ネルウァからアントニヌス・ピウスまでの皇帝は、元老院議員の中から有能な人物を養子に迎え後継者にしたため、名君が相次ぎ善政が敷かれたといわれます。そのため、世界史の授業で習ったときは、多くの人が高潔な賢者たちのイメージを持ったでしょう。しかし実態は、どうもそれとは異なっていたようです。新保良明『ローマ帝国愚帝列伝』を底本にして、五賢帝たちの実像に迫ってみましょう。

まず「五賢帝は、国家のために賢人を後継者にした」というイメージ自体が虚像に過ぎません。なぜなら、最後のマルクス・アウレリウス帝以外は、血縁関係のある後継者に恵まれていないからです。老齢のネルウァ帝は即位当初から政情不安の只中に置かれ、トラヤヌスを養子にして後継者に指名しますが、実際は政治的力学の関係上やむなく、トラヤヌスを後継者として受け入れた、というのが真相のようです。

そのトラヤヌス帝ですが、今度は後継を指名しないまま没してしまいます。そこで「自分が養子に指名された」と名乗り出たのが、トラヤヌスの従兄弟の息子ハドリアヌスでした。

このあたりもかなり灰色で、トラヤヌス帝の妃ポンペイア・プロティナが遺書を書きかえ、亡夫がハドリアヌスを養子にしたと捏造した疑いがあります。果たして、トラヤヌス帝の遺志はどうだったのでしょうか・・・

ハドリアヌス帝の養子縁組も奇妙なものでした。同性愛者で子どもがいなかった彼が、当初後継に指名したケイオニウス・コンモドゥスは若くして病死。するとハドリアヌス帝は、アントニヌス・ピウスを養子にすると同時に、息子を亡くしていた彼に当時16歳のマルクス・アウレリウスと、7歳のルキウス・ウェルスを養子に迎えるよう命じたのです。つまりハドリアヌス帝は後継者だけでなく、次の皇帝まで決めておいたことになるのです。

しかも、アントニヌス・ピウスは養子に指名された時、寿命の短い当時では老境といっていい51歳になっていました。76年生まれのハドリアヌス帝の10歳年下に過ぎません。一方、聡明なマルクス・アウレリウスは、ハドリアヌスの寵愛を受けていました。

病床のハドリアヌスが、お気に入りのマルクス・アウレリウスを後継にしようとしたが、あまりに若く、元老院議員ですらない。そこで、適当な「繋ぎ」の後継者を考えたのでは、と疑ってしまいますよね。

アントニヌス・ピウス自身が「慈悲深い(=「ピウス」)」という称号で呼ばれるほど穏健な人物でしたから、なおさらです。歴代の皇帝たちが、元老院議員の中から有能な人物を後継者に選んだ、そんなイメージは、作られた虚像に過ぎなかったのです。

多忙な哲人皇帝マルクス・アウレリウス
さて、五賢帝の最後を飾ることになった哲学者皇帝マルクス・アウレリウス(著書「自省録」が有名ですね)。彼の治世から「ローマの平和」に翳りが見え始めます。東方の国境を巡る戦争に、北方のゲルマン民族の侵入。マルクス帝は広大になりすぎた版図を守るための防衛戦争に明け暮れます。

元々、持病持ちで頑健でなく、妻にも先立たれてしまったマルクス帝は、当然のように後継者を意識し始めます。そして、176年に息子のコンモドゥスを共同皇帝としたのです。そう、マルクス帝は五賢帝のうち、唯一成人した男子に恵まれた皇帝でした。

ここに「皇帝は養子を指名して後継者にする」伝統は崩れたわけですが、実子がいれば後継者にするのが当然の時代。マルクス帝を非難することはできません。

しかし、父が病没し単独皇帝となったコンモドゥスは、狂気・暗愚の面をあらわすようになります。政治に関心を示さず放蕩に明け暮れ、自ら剣闘士として戦う放埒ぶり。ネロ、カリグラ、カラカラほか、ローマの暴君の例に漏れず、破滅へと向かって行きました。

192年、コンモドゥス帝暗殺
五賢帝の直後の皇帝があまりに残念すぎたこと、後のローマが混乱と衰退の道へ向かっていったことが、五賢帝の過度な美化につながってしまったのかもしれません。

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