2020/07/11

孟子(2)

しかし、孟子が斉に仕えてから七、八年か経つと、宣王は病気を理由に孟子の家に使者を派遣して

「あなたと話したいことがありますが、運悪く風邪のためそちらに行けません。いかがですか?
あなたの方から、来てはいただけないでしょうか?」

と伝えて呼び出そうとした。しかし、孟子も病気という口実で拒否した。

不幸にして、疾有り。朝に造る能わず。

たった今、参内しようとしていたのに、仮病を使って拒否した。

召さざる所の臣」である孟子は、このような事情でも行くわけには行かない。翌日、東郭氏に不幸なことがあったので、家まで行って弔問することにした。それに対して弟子の公孫丑が

「昨日、病気を理由に参内を断ったのに、今日改めて外出するのはいかがなるものでしょうか?
およしなさい。」

と出掛けないことを勧めたが、孟子は

「昨日は病気だったが今日は治った。行かなければ。」

と言って行ってしまった。そのようなことで、自分の行動を制限されることを孟子は良しとしない。ところが孟子が出かけている間、宣王が病気見舞いの使者と医師を派遣してきたので、家で留守番をしていた弟子の孟仲子は慌てて、先程少し調子が良くなりまして参内に参りました、とその場を取り繕った。そして、孟子の通りそうな場所に使者を派遣して、どうかご帰宅せずに、そのまま参内して下さいと伝えた。それを聞いた孟子は、帰宅も参内もしないで友人の景丑の家に泊まった。

景丑は、王命に従わなかった孟子を非難した。これによって、孟子と宣王の関係がしっくりこなくなった。孟子はこの事件によって、斉を立ち去る気持ちを固めた。その後、とうとう孟子は斉を去ることにした。それを聞いた宣王は急いで孟子の家まで出向き、また会えるでしょうか? と聞いた。それに対して孟子は、

敢えて請わざるのみ。固より願う所なり

と答えた。

「また会いたいと、こちらからは望みませんが、王とお会いするのは私としても嫌ではありません。」

それで、宣王はまだ希望がある、と思った。数百人もの稷下の学士を抱えている宣王にしても、孟子のその激しい理想主義には辟易するが、現実的な政策で役に立ちそうではないとしても、この優れた人物を他国に持っていかれることも残念だと思った。そこで、孟子の弟子の陳子を通じて

「都心の大邸宅を与え、門弟養成のために一万鍾の俸禄を支給し、大臣を始め廷臣たちに孟子を尊敬させるようにする。」

と伝えた。鍾は穀物を図る単位で、約五十リットルだと言われている。当時の一万鍾は、通説によれば、日本の江戸時代の禄高で千五百石足らずだという。しかし、孟子にはこれが少額だったと見え

如し予をして富まんと欲せしむれば、十万を辞して万を受けんこと、是れ富まんと欲すると為さんや。

と断った。これは、

「もし私の力で国を興したければ、十万鍾の俸禄を約束するべきです。私はそれを辞退して、一万鍾を受けましょう。これでは私のことを、冨貴を願っているとは言えないはずです。」

という意味である。

賤丈夫有り。必ず壟断を求めて之に登り、もって左右望して市利を罔せり。人皆以て賤しと為す。故に従って之を征せり。

と孟子は言った。

「昔、市では物々交換によって、お互いの納得する交易を行って生活に必要な物を手に入れる場所でした。ところが卑しい欲張りがいて、壟断(切り立ったような高い位置)に登って左右を見まわしたのです。普通は地面に自分の売り物を並べて交換するのですが、高所から見ると良い物を売っている人をいち早く発見できます。そのような連中は、生活に必要な物を仕入れに来たのではなく、営利を上げるために来ているのです。何と嫌らしいことかと人々がこれを非難し、政府もこれに征(税のこと)を掛けることにしたのです。」

という意味だ。

つまり孟子は、自分はこんな卑しい欲張りではないと言いたいのだ。「利益を壟断する」という用法は、ここからきている。

そして、孟子はいよいよ斉を去る旅に出た。その折、孟子は昼という場所に三日も留まった。一度宣王の申し出をきっぱりと断っておきながら、まるで宣王の使いが来るのを待つかのようにゆっくり進むことが、孟子の評判を下げたようであった。斉の尹子と言う人物は孟子に憧れており、自分のことをますらおだと自負していた。だからこそ、昼に三日も逗留したという話を聞いて、大きく失望した。

「俺は孟子を見損なった。面白くもない。」

と尹子は言った。その話を弟子の高子から聞いた孟子は、

「尹子という者は、俺を理解できていないのだ。」

と言った。そして、

予、三宿して昼を出ずるも、予が心に於いては猶お速しと以為えり。王よ庶幾わくは之を改めよ。王如し諸を改むれば、則ち必ず予を反さん。夫れ昼を出ずるも王は予を追わざりなり。予、然る後に浩然として帰るの志有り。予、然ると雖も豈に王を舎てんや。

と言った。

「三日で昼を出たのは、早すぎるくらいだ。もしも宣王があの後、思い直して使者を送ってくれば、私は喜んで引き返す。すると、斉の民は豊かになる。もしも、あの後使者が来なくても私は宣王を捨てない。それを考えると、王の使者が来るのが待ちどうしい。」

という意味である。それを聞いた尹子は、

士は誠に小人なり

と嘆いた。
出典 Wikipedia

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