名君続く
そんなわけで2代目の皇帝にはティベリウスが即位するが、その途端にライン川(オランダからスイスに流れる川)沿いの軍と、ドナウ川(ドイツからルーマニアに流れる川)の軍団がストライキを起こした。当時、ローマ帝国では退役金の不足により除隊できない兵が多く、これが直接の原因になったのである。反乱はティベリウスの養子ゲルマニクスと実子を送ることで、なんとか鎮圧された。また、公平さに拘り法に熱心なティベリウス帝のおかげで、兵は満期であれば除隊できるようになった。
後の暴君時代とは正反対に、ティベリウス帝の治世期には皇帝の人気取りが行われず、修正と節制に重きが置かれた。当時のローマ帝国の財政は徐々に圧迫していったが、ティベリウス帝は増税という手段は採らず、代わりに戦車競走を減らすことで修正したのである。当然ながら時のローマ市民らは退屈し、ティベリウス帝を評価しなかったが、皇帝はローマの元老院と市民からの人気など気にせずに、施設のメンテナンスなどを滞りなく行った。
一方、抑えておくべき点はしっかりと抑えられており、ドナウ川防衛の要所であるパンノニア(現オーストリアやハンガリー)では、インフラ整備が徹底されている。
ティベリウス帝の治世期は領域の面でも安定し、後16年にはライン川とドナウ川が平定されたうえ、後18年には彼の養子ゲルマニクスにより、対パルティア王国(現イラン)方面の東方が制定された。
凶兆
ティベリウス帝により東方に派遣された養子ゲルマニクスだったが、独断専行が祟ったのか、後20年に急遽、謎の死を遂げる(毒殺説あり)。ティベリウス帝は後継者を実子のドルススにしようと考えたが、近衛隊長と妻の裏切りにより、23年に実子のドルススを失った。
以来、ティベリウス帝は猜疑心にとらわれた老帝となり、その死(37年)まで元老院と不仲となる。また先述のとおり、ティベリウス帝は元老院にも民衆にも人気がなく、カエサルやアウグストゥスとは違い、死後に神格化されることはなかった。一説によると、その最期はゲルマニクスの子ガイウス(カリグラ帝)に謀殺されたとのこと。
偉大なるカエサル、卓越したアウグストゥス、堅実なティベリウス、と名君が続いたローマ帝国だったが、そんな帝国にも到頭暗い時代が訪れつつあった。
ちなみにイエス・キリストが処刑されたのが、この時期(30年)にあたる。聖書に見られるヘロデ王やユダヤ教徒のファリサイ派、イエス・キリストとその弟子たちの伝承は、何を隠そうすべてティベリウス帝の治世期だったのだ。
狂帝の時代
ゲルマニクスの子ガイウスは、父ゲルマニクスが英雄であったことから、元老院にも民衆にも将来を嘱望されていた。ガイウスは兵士たちにも愛され、子供用の軍靴に由来する「カリグラ」の渾名で呼ばれるようになる。この時、ローマ帝国の臣民の誰もが、栄光あるローマの時代を強く意識したであろう。
しかしアウグストゥスに始まる「ローマの平和」、その例外となる時代が、これより始まるのであった。
37年、ゲルマニクスの子ガイウスは「カリグラ」の名とともに即位した。カリグラ帝である。即位当初善政をしくものの、同年、大きな病を患うようになる。
それが決定的だった。カリグラは大病を患って以降、狂気という他はない奇行を繰り返した。有名なものは以下の通り。
・神を自称
・月光とともに寝ることを強く意識し、ユピテル神の像と会話
・真珠を溶かして酢に入れ飲む
・黄金のパンを食卓に列挙
・実の妹たち全員とアレな関係をもつ
・宮殿内に売春宿を設ける
・戦車競走で活躍した馬を執政官(コンスル)に就任させようと(本気で)考える
・歴史に残りたいからと、「でっかい不幸がこないかなー、それで英雄になりたいなー」と語る
・兵士たちに貝殻を拾わせ、それを戦利品と称して民衆に見せつける
・「戦争が苦手と思われたくない!」
・ガリア人の髪を赤くし「ゲルマン人に勝ったぞー!」と民衆に見せつける
・戦争が苦手と思われ、元老院と近衛隊は見かねたのか、41年にカリグラ帝を暗殺した。
一時の名君時代
カリグラ帝の没後、元老院らは共和制ローマの復活を望んだ。あんな狂った皇帝を見れば、納得もいくだろう。
しかし近衛隊は、病弱で体に障害のあるクラウディウスを「最高司令官」と称し、担ぎあげた。当時の元老院はこれに逆らえず、結果、4代目の皇帝はクラウディウスとなった(41年)。ちなみにクラウディウスは、ゲルマニクスの弟、カリグラの叔父にあたる、ユリウス・カエサル家の一員である。
当時のローマ皇帝とは、すなわち軍の最高司令官であったから、屈強で軍事に優れる男性こそが皇帝に相応しいという風潮が帝国にはあった。この点において、哲学や歴史が大好きで病弱なクラウディウス帝(50代)は蔑まれ、事実民衆からの評判はあまり芳しくなかった。
しかし学識に優れるが故に、その頭脳は極めて明晰であった。言語や歴史に精通し、ギリシア語で『エトルリア史』や『カルタゴ史』を著した。行政の長としても申し分なく、ローマ帝国は彼のもと官僚機構の整備の他、水道橋や湖などの治水・公共事業など、内政が安定化された。
クラウディウス帝の治世期はまた、ローマ帝国に軍事面の栄光をももたらした。43年、ブリタニア遠征が敢行されたのである。実際は将軍の活躍によるところが大きいが、何にせよ、このドーバー海峡を渡った進軍はローマ帝国に一定の成果をもたらし、属州ブリタニアの拡大に成功した。
ところが彼にも、ひいてはローマ帝国にも転落の時が訪れる。48年、クラウディウス帝は、姪のアグリッピナと再婚する。そして彼はアグリッピナの連れ子、ネロを養子とした。
しかし、これがいけなかった。54年、再婚相手のアグリッピナは、息子のネロを帝位に就けるべく、夫のクラウディウス帝を毒殺した。カリグラ帝治世期の混乱を拡大させなかったばかりか、ローマ帝国を整頓し内政で活躍した名君クラウディウスは、あまりに報われぬ最期を遂げたのである。
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