2020/07/04

ローマ帝国(4)


共和政期
さて、肝心の帝国史だが、記事冒頭にもあるように、ローマの帝国化は厳密には共和政期から始まっていた。そのため、ここでは共和政期の概略を記述したい。

ローマの覇道
紀元前1000年ごろ、古代イタリア人は北方からイタリア半島へと南下し定住した。その中の一派であるラテン人が、都市国家「ローマ」を建設する。初めは先住民であるエトルリア人の王を戴くローマであったが、前509年には王を追放。王政を廃止するとともに、共和政ローマを開始した(前509 - 27年)。

一都市国家に過ぎなかったローマだが、相次ぐ征服活動により前3世紀前半には全イタリア半島を支配。征服された諸都市には、それぞれ同盟を結び異なる権利と義務をあたえた(分割統治)。服属した者には、ローマ市民権を与えるなどして事前に反乱を抑えることで、ローマはその勢力図を盤石なものとしていく。

あの有名なローマ最大の強敵ハンニバルで知られる、3度のポエニ戦争(前264 - 146年)をスキピオの活躍によりなんとか勝利すると、ギリシアやマケドニアなどのバルカン半島にも積極的に侵攻し、全地中海を制するに至る。

身分差と元老院
ローマには、身分制が存在した。

貴族(パトリキ)
最高官職の執政官(コンスル)は、この貴族から選出された

平民(プレブス)
多くは中小農民である

身分による権力差は歴然であったが、中でも執政官をも指導する貴族の会議、元老院の権力は絶大であった。立法に影響を与え、外交面でも財政面でも決定権を掌握するなど、ローマの実質的な統治は彼ら元老院によるものといってもよい。元老院はローマの伝統にして象徴であり、後に続く東ローマ帝国(後395 - 1453年)も「ローマらしさ」であるとし継承した。

さて、そんな貴族中心で運営されたローマであるが、領土を拡大、または防衛する上では、やはり平民の強力が不可欠であった。そこで平民による重装歩兵が活躍するのだが、国防を果たした平民はついに権利を主張。これを皮切りに、平民が貴族の政権独占に不満を抱く。

平民による諸改革は、以下の通り。

・貴族の決定に拒否できる護民官
・平民だけの民会である平民会
・法律を文章にした十二表法を制定

こうして着実に平民の立場が改善されゆく中、「執政官の1人は平民!」というリキニウス・セクスティウス法(前367年)や、「平民の決議は国の決定!」とするホルテンシウス法(前287年)の制定により、貴族と平民の政治上の権利は同等となった。

しかし平民の中でも貧富の格差が生じ、また既存の貴族の中にも「平民の分際でっ」という輩が現れ始め、裕福な平民と貴族からなる新たな派閥が誕生する。元老院の絶対権力は相も変わらず、非常時には独裁官(ディクタトル)が現れる始末。共和政ローマは古代ギリシアとは違い、政治への参加には常に貧富の格差が付きまとったのだ。

戦争の陰
264年、ローマ最大の危機であるポエニ戦争が勃発した。ホルテンシウス法の制定(前287年)より少し後の出来事である。先にも述べた通り、スキピオの活躍により、最悪の結果だけはなんとか脱した。そしてローマは、破竹の勢いで地中海を制していったのである。

が、正念場となるのは、ここからである。

相次ぐ征服事業により、国内の農地は荒廃の一途を辿り、それゆえ中小農民は没落していくがままであった。落ちぶれた農民たちは都市ローマに流入し、属州(戦争で勝ち取った地域)からもたらされる穀物を搾取した。こうした無産市民(ド貧乏)は、より一層の恩恵を望み「さらなる征服戦争を!」と声高に要求した。征服地が増えれば、より楽な生活が待っていたからだ。

無産市民らがローマから穀物を搾り取る一方、元老院は属州統治の任を負い、また騎士階層は属州からの徴税請負を行ったため「征服地拡大=元老院・騎士の富が増加」を意味していた。

支配階級である彼らは、無産市民たちがローマに流入した隙に、手放された土地を買い集めた。そして戦争で得た公有地を利用し、捕虜や奴隷を用いた大土地所有(ラティフンディア)を営んだ。

元老院や騎士などの支配階級は、さらなる富のために、無産市民らは生活補助のために、征服戦争を要望していった。

かくしてローマの征服事業は、ますます拡大していく。それにより、支配階級の富は膨らみ、平民との貧富の差も、また拡大していくのであった。ここに、かつて理想と思われた貴族と平民の政治的な平等は、崩壊を始めていったのである。

ローマ内乱
貧富の差が顕著になると、身分差による対立も激化していった。グラックス兄弟が、大土地所有者の土地を無産市民らに分配しようと試みるものの、大地主の反発にあい失脚する。

これを機に、有力者は論述ではなく暴力で訴えるようになり、平民派のマリウスと閥族派のスッラが相争うようになる(内乱の一世紀)。双方ともに私兵を率い、凄惨な骨肉の争いを展開した。

また、この頃(前91 - 88年)、イタリア半島の同盟都市は、各々がローマ市民権を求め反乱を起こした。さらなるローマの「妥協」の始まりである。

他にも「パンとサーカス」で有名な見せ物、剣闘士奴隷らがスパルタクスによってローマに反旗を翻す(前73 - 71年)。外的には拡大を続ける大帝国として君臨するローマだが、この頃の内部はとても見れたものではなかった。

三頭政治
カエサル時代のローマ領この内乱を治めるべく立ち上がったのが、ポンペイウス、クラッスス、そして同盟市戦争終結を加速させたルキウスを伯父にもつ、ユリウス・カエサルである。前60年、彼らは元老院と閥族派に対立し、私的な政治同盟を結んだ(第一回三頭政治)。

カエサルはガリア地方(ほぼ今日のフランス)を遠征し、これを見事成功させると圧倒的な支持を得る。そして政敵となったポンペイウスをも倒し、前46年、その勢力を完全なものとした。

ちなみに、カエサルが恋したことで有名なエジプトのクレオパトラ(7世)だが、後述するように後々、彼の部下アントニウスに乗り換え、カエサルの養子と敵対する。この頃のエジプトは、アレクサンドロス3世が残した遺産の一つ、白人王朝のプトレマイオス朝である。

指導者に求められる資質たる、知性、説得力、肉体上の耐久力、自己制御の能力、持続する意志。イタリアの教科書によると、カエサルだけが、この全てを持っていたという。
しかし元老院が彼の独裁と市民の圧倒的な支持を危惧すると、前44年、カエサルは元老院寄りのブルートゥスらにより刺殺される。

翌年、あとを継ぐ部下のアントニウスとレピドゥス、そしてのカエサルの養子オクタウィアヌスらが政治同盟を結び閥族派を圧する(第二回三頭政治)。しかし、この同盟も長続きはせず、前31年、エジプトのクレオパトラと結託したアントニウス対オクタウィアヌスという構図に。大ローマ帝国を二分する勢力の衝突、アクティウムの海戦が勃発。

結果的に元老院に対し穏健なオクタウィアヌスが勝利し、彼は尊厳者(アウグストゥス)の称号を得る。共和政は静かに終焉し、元老院は残り、そうして帝政ローマが産声を上げた。

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