2020/07/27

ネロ帝から四皇帝の年へ ~ ローマ帝国(7)



暴君の時代へ
かくしてアグリッピナの策略により、西暦54年、16歳の少年ネロが5代目の皇帝となった。
無類の鳥類マニア」ことネロ帝の誕生である。

ネロ帝は、まったくと言ってよいほど政治や軍事に関心がなく、芸術家を自称した。時に円形闘技場を貸し切り、元老院貴族らを招集して自作の詩を詠った。曰く「将来の夢は芸術家」とのこと。詩の大会はおろか、戦車競走の競技会にも積極的に参加し、優勝を繰り返して栄誉に酔いしれもした。ブルタニア遠征では居眠りをし、期待の新人と目されるフラウィウス・ウェスパシアヌスは、そのネロ帝の態度に失望し1度引退したという。

ネロ帝の治世期は、反乱の時代でもあった。61年には北西のブリタニアで重税に対する反乱が起き、東方のアルメニアではペルシャ帝国(パルティア)に寝返る者が現れた(第4次パルティア戦争)。前者はローマ正規軍が、後者は名将コルブロらの活躍が、それぞれ事態を収束に導いた。一方、66年にはパレスチナの地で、ユダヤ教徒の反乱が勃発した。

首都ローマでは、64年に大火災が発生。首都は速やかに再建・救済されたが、ネロ帝は民衆の「ネロが放火した」という実しやかな噂に苛立ったのか、放火の罪を全てキリスト教徒になすり付け、徹底的な虐殺・処刑を行った。

ネロ帝はまた、義理の弟や母アグリッピナ、そして妻をも殺害していた。まさに暴君、いや暴漢である。65年、ネロ帝は元老院が自らを打倒するよう企ていることを知ると、多くの元老院貴族を処刑していった。さらに、自身の教師や東方を鎮圧した名将コルブロらには、自殺を強要したのである。

このようにローマ帝国はネロ帝のもと、末期ともいえる様相を呈したが、ネロ帝は依然として政治に無関心で、ギリシアでのバカンスに酔っていた。

帝国の臣民らは我慢ならなくなったのか、68年、ガリア総督ウィンデクスが反乱を起こす。反旗の風は、瞬く間にローマ帝国中に波及。すると首都ローマへの穀物輸送も滞り、民衆も不満を高めていく。ネロ帝はエジプトへ逃れようとするが、誰もが彼を見限り、あまつさえ元老院から「国家の敵」と宣告された。その後、ネロ帝はローマ郊外に逃れるが、騎馬兵の近づく音を聞き、全てを諦め自害するに至った。

彼の評価の見直しも無いわけではないが、それでも「暴君」の異名は覆らない。しかし他方、当時の民衆からは慕われていたようである。死後、しばらくの間、彼の墓標は常に民衆からの花束で埋めつくされていた。

四皇帝の年 (A.D. 68 - A.D. 70)
68年に元老院貴族の1人、ガリア総督ウィンデクスがネロ帝の圧政に対し反乱を起こすと、10万に及ぶガリア兵が彼の下に集まった。またウィンデクスは、ヒスパニア総督のガルバに指導者となるよう声をかけ、新たなローマ皇帝として推戴した。この時代を「四皇帝の年」と呼ぶが、その1人目の「皇帝」が、ウィンデクスに担がれたヒスパニア総督のガルバである。

政権の腐敗
首都ローマで元老院がガルバを支持すると、各地の総督もガルバを支持するようになる。ちょうど、この頃にネロ帝が自害し、ユリウス=クラウディウス朝が断絶したのである。

ガルバの理念は、ずばり「自由の尊重」であった。彼は凋落した元首政を本来あるべき姿へと戻そうとし、ローマ帝国を共和制へと修正しようとしたのである。

素晴らしき思想といえただろうが、なにぶん彼の周囲が腐敗しきっていた。ネロ帝から政権を交代したわけだが、政治は何も変わらなかったのである。ガルバは陰謀を恐れるあまり、ネロ帝と同様、反対派の元老院や騎士階級(エクィテス)を裁判も無しに処刑していった。

民衆は、ネロ帝の時代を求めるようになる。また、兵士たちは与えられる筈の給与が、いつまでも支払われないことに不満を抱きはじめる。

すると69年の1月、ライン軍の長ファビウス・ウァレンスがゲルマニア総督ウィテリウスを「皇帝」とし推戴、反乱を起こした。この報を受けたガルバは、名門貴族の1人を後継者とし、「家門ではなく相応しい人物を選んだ」と演説。大貴族を選んでおいては、これはどういうことなのか、というわけで元老院以外の人心は得られず、結局彼はオトーに襲撃され他界した。

軍対軍の戦いへ
オトーは亡きネロ帝の悪友であったが、妻を彼に取られ地方総督へと左遷されていた。ガルバが反ネロ派として反乱を起こした際、これを積極的に支持したから、「ガルバの後継者は自らである」と自負していた。そんな矢先、ガルバが自分以外の貴族を後継者にしたものだから、不満に思い反乱したのである。

初めは僅か23人のオトーの反乱であったが、これが多くの支持を得、最終的には首都ローマでガルバと、その後継者を殺害するに至る。元老院はオトーに諸権限を委託し、皇帝とした。

さて、先ほどライン軍の長ファビウス・ウァレンスが、ゲルマニア総督ウィテリウスを「皇帝」として担ぎ反乱を起こしたと述べたが、このオトー政権でもそれは続いていた。ライン軍にとっては、相手がガルバであろうがオトーであろうが関係なく、「ローマ皇帝は我らが担ぎしウィテリウス!」と依然として主張していた。

オトーは軍をイタリア北部へと上らせ、件のライン軍と激突。現政権のオトー軍と、ウィテリウス派のライン軍の対決である。オトー軍には、ドナウ軍からの加勢が到着する予定であったが、その前に戦いは始まっていた。結果、オトー軍は窮地に立たされ敗走するが、まだ挽回の余地はあった。

しかしオトーはこれ以上の犠牲は望まず、潔くこの世を発ったのだった。オトーは部下の戦死を未然に防ぐべく、諦めて自害したのである。こうして2人目の皇帝が世を去ったのだった。

時代は軍事力
そのころ首都ローマでは、ウィテリウス歓迎の式典が催されていた。元老院は、今度はこの男に諸権限を譲渡する、というのである。強大な軍事力を背景に進軍するウィテリウス率いるライン軍に、元老院は屈する他なかった。

帝国の西側で新皇帝ウィテリウスが即位したが、他方、東側ではシリア軍、エジプト軍、そして亡きネロ帝の命によりユダヤ反乱を鎮圧した、フラウィウス・ウェスパシアヌスのユダヤ軍が動き始めていた。これら軍隊が総力を挙げれば、ウィテリウスのライン軍にも匹敵しうる。

当時のローマ帝国内では、軍隊はそれぞれプライドを持ち、自身以外の軍をライバル視していた。その導火線に火をつけたのが、まったくもって皇帝に相応しくないと東方の軍隊に目されていたウィテリウスである。またウィテリウスによる、オトー軍隊長の処刑も顰蹙を買った。

決着
6971日、とうとうシリア・エジプト・ユダヤの軍隊が動き出した。フラウィウス・ウェスパシアヌスを「皇帝」として担ぎ挙げ、フラウィウス本人が率いる軍はエジプトへ入り、そこからアフリカを制圧して首都ローマへの、つまり皇帝ウィテリウスのライン軍への穀物供給を遮断する。一方、シリア軍はアナトリア半島を経由し、ギリシャで知られるバルカン半島へ上陸、イタリアを北から攻める予定であった。つまり挟み撃ちというわけである。

しかし意外にもイタリアを攻めたのは、シリア軍ではなかった。シリア軍はバルカン半島の異民族の攻撃に遭い、一時進軍を止めたのである。では誰がイタリアを攻めたのかというと、それはドナウ軍のアントニウス・プリムスだった。

プリムスのドナウ軍もまた、フラウィウス・ウェスパシアヌスを支持し、現政権のウィテリウスに対抗した。ドナウ軍は、その後もベドリアクムで勝利すると、カエサル以来といわれる快進撃を続け、とうとう首都ローマの城門に迫った。

この際、ウィテリウスは反乱軍の最高指導者フラウィウスを認め、帝位を譲るよう述べたが、もはや後の祭りだった。まもなく、ウィテリウスのドナウ軍とプリムス率いる反乱軍が市街戦を展開し、最終的にプリムスの軍、すなわち反乱のフラウィウス側が勝利した。

興味深いのは、このローマ市街戦の際に民衆は屋根から見世物でも見ているかのように楽しんだという点である。彼らローマ市民からすれば、これらのまつりごとは「サーカス」だったのかもしれない。民衆は今の今まで「ウィテリウス万歳」と喝采していたが、反乱軍が勝利した後はウィテリウスをなぶり殺しにした。

かくして70年の夏、フラウィウス・ウェスパシアヌスは、ローマへと無血入城した。ガルバ、オトー、ウィテリウスときてフラウィウス。この四皇帝の年が終わる頃、ローマ帝国はフラウィウス・ウェスパシアヌスに始まるフラウィウス朝が胎動していたが、他方で、この内戦の結果、多くの名門貴族は没落していたのだった。

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