エトルリア王追放、共和政スタート(前509年)
元老院に拒否できる護民官と、やや立場の弱い平民会が設けられる(前5世紀前半)ともに平民による。法律を文として書き記した「十二表法」公開(前5世紀半ば)。平民の地位向上。
リキニウス・セクスティウス法(前367年)制定
「執政官の一人は、平民でなければならない!」
ホルテンシウス法(前287年)施行
「元老院なんて知るか!
平民会の決定が国の決定なんだい!」
全イタリア半島を支配(前3世紀前半)
植民市カルタゴと衝突、ポエニ戦争勃発(前264年 - 前146年)。
カルタゴ将軍ハンニバルがイタリア侵入、スキピオが戦局挽回、勝利
前242年、シチリア島を支配下に置く。シキリア属州(初の属州)
ギリシャ、マケドニア諸都市を支配(前2世紀半ば)。地中海をほぼ制覇。すでに帝国。前2世紀後半から、共和政が大きく揺らぐ。
元老院側の「閥族派」 VS 市民・騎士の「平民派」
グラックス兄弟の改革。大地主から貧乏市民へ土地を分け与えようとした。が、頓挫。二人とも死去。
「内乱の1世紀」スタート
平民派のマリウス VS 閥族派のスッラ
同盟市戦争(ローマvsイタリア半島の同盟国)
剣闘士奴隷スパルタクスの大反乱(前73年 - 前71年)
第一回三頭政治(前60年)。
前46年にはユリウス・カエサルの独裁がスタート
その二年後、カエサルが暗殺される。
「ブルートゥス、お前もか」
第二回三頭政治(前43年)
カエサルの部下二人(アントニウスやレピドゥス)と、彼の養子オクタウィアヌスによる。
前31年、クレオパトラ&アントニウス VS オクタウィアヌスのアクティウムの海戦。後者が勝利
オクタウィアヌスが国家元首に、以後帝政(前27年~)。改名、アウグストゥス。初代ローマ皇帝。
帝政期について
ローマの帝国化はカエサルの代で始まりつつあり、これを元老院が恐れ、彼を暗殺するという形で一時収束したかに見えた。ところが、カエサルの養子オクタウィアヌスが彼の意思を継ぐと、ローマの帝国化はいよいよ実現したというわけである。皮肉にもオクタウィアヌスを「アウグストゥス」とし権力者にしたのは、ローマの帝国化に反対し彼の義父のカエサルを殺害した、元老院自身であった。奇しくもこの時代、カエサルはアウグストゥスにより神格化され、奉られるようになる。
紀元前1世紀の当時、元老院が政治を独占するローマの政局は、広い領土に対応できなかった。そんな強いリーダーを欲したローマの決断こそが、アウグストゥスの台頭だったのである。
一般にローマ帝国というと、この時代からを連想される。そして日本では、その終焉は紀元後476年に起きた、西ローマ帝国の滅亡をもってして語られることが多い。
ところがローマ帝国そのものは、西ローマ帝国が滅亡した476年にも、まだまだ存続していたのである。それが395年の帝国の東西分割から生じた、東ローマ帝国(395年 - 1453年)であった。
7世紀を境に東ローマ帝国は著しくギリシア化し、また常に都市ローマを領有していなかったことから、後世とくに西欧からはビザンツ帝国と称され、まるでローマ帝国とは別の国家のように語られるが(実質そうではあるが)、「ローマ帝国の生き残り」として存在していたのも、また事実であった。
すなわちローマ帝国、もっといえばローマの帝政期は東ローマ帝国の滅亡(1453年)まで続いたことになる。もちろん先述した「西ローマ帝国の滅亡(476年)をもってローマ帝国は滅亡した」とする意見も根強く、この辺りは人それぞれの見解となるだろう。
元首政期
ユリウス・クラウディウス朝 (B.C. 27 - A.D. 68)
さて、アクティウムの海戦を経てローマは帝政へと移行するが、その最初の王朝となるのがユリウス・クラウディウス朝であった。
もっとも、王朝とはいえ「親から子」といったように帝位を継承していったわけではなく、「大甥・大叔父」といった関係が多く、甥や伯父といった関係も多かった。つまり、どの皇帝も直系の嫡男を後継者としなかったのである。ここにカエサルの養子であり初代皇帝となった、アウグストゥスの思惑が見て取れよう。
アウグストゥスと初期の帝国
「我こそは尊厳者(アウグストゥス)!」
というのは半分嘘で、彼アウグストゥスはカエサルとは違い、元老院などの共和政の制度を尊重した。そして自身は「朕は市民の中の第一人者(プリンケプス)に過ぎませんよ」などと述べた。つまり、あまり独裁的な政治の舵取りはしなかったのである。
というのは全くの嘘で、実際にはほぼすべての要職を兼任し、全権力を手中におさめていた。またアウグストゥス(オクタウィアヌス)は、カエサルを神格化したと既に記載したが、彼もまた自らを「神の子」と称したのだった。カエサルを称え、また自らをその正統な家族とすることで、権力を盤石なものとしたかったのだろう。
これは実質的には(というか、どう考えても)皇帝独裁であり、元首政(プリンキパトゥス)と呼ばれる。広大すぎる帝国領を統治するには、もはや元来の共和制では限界であったから、このように政体が変化したのだ。
アウグストゥスの治世期には、ローマは人口が100万人を超える大都市へと発展、多くの公共事業が興された。また戦争ではアウグストゥスの友アグリッパが大活躍し、内外問わず帝国は安定化していった。後世の我々は、このアウグストゥスからの約200年間の時代を「ローマの平和(パックス・ロマーナ)」と呼ぶ。
後継者問題
後は帝国の将来であった。しかし、アウグストゥスには実子がいない。これをアウグストゥスは、友アグリッパに娘を嫁がせ、彼を実質的な共同統治者とすることで筋を通した。さらにアウグストゥスは、アグリッパ夫妻が生んだ2人の子らを孫とし、後継者問題をも解決する。
ところが前12年、アウグストゥスよりも先にアグリッパがこの世を去る。ここでアウグストゥスは、娘を妻の連れ子ティベリウスと強引に再婚させ、2人の孫(=亡きアグリッパの息子)の後見人とし、ことなきを得ようとしたが、孫の1人は後2年に、もう一方の子も後4年に亡くなってしまう。
後継者という後継者すべてが他界した今、アウグストゥスを継ぐものはいなかった。そこで、アウグストゥスは叔父のカエサルが彼をそうしたように、娘の再婚相手であるティベリウスを養子とし、新たなる後継者とすることで、この問題を解決。後14年にアウグストゥスは亡くなるが、元老院は初代皇帝の思惑通り、2代目の皇帝をそのティベリウスとするのだった。
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