2024/01/26

唐(9)

会昌の廃仏

武宗

文宗を継いだ弟の武宗は道教を崇拝すること厚く、道教側の要請もあり廃仏(会昌の廃仏)を行った。まず845年から始まった廃仏により、還俗させられた僧尼が26万人余り、廃棄寺院4600、仏具や仏像は鋳潰されて銅銭などになった。寺院は長安・洛陽に4、各州に1とし、それぞれに30から50の僧侶が所属するのみとした。これによって仏教界は大打撃を受けた。後世に、三武一宗の廃仏と言われるうちの3番目である。この廃仏は、単に道教に傾倒した武宗と道教側の策謀によるものだけではない。同時期に祆教・摩尼教・景教(唐代三夷教)も弾圧されているように、唐の国際性が薄れて一種の民族主義的なものが前面に出てきたことにもよる。

846年に武宗が死去し、後を継いだ宣宗により廃仏は終わった。

 

乱の続発

牛李の党争が終わった10年ほどの後の858年、張潜という官僚が藩鎮で行われていた羨余という行為について非難する上奏文を出した。羨余とは、藩鎮が税を徴収した後、藩鎮の費用と上供分を除いて余った分のことを指し、それを倉庫にためた後に進奉といって正規の上供分とは別に中央に送った。この行為を政府は盛んに奨励し、進奉の額が節度使の勤務評価の基準ともなっていた。その出所はといえば民からの苛斂誅求に他ならず、民を大いに苦しめることとなった。これに対しての批判が先に挙げた張潜であるが、増大する経費を賄うには政府は進奉に頼らざるを得なくなっていた。

 

また民を搾り取るだけでは足らず、兵士の人員の削減・給料のピンハネなども行われた。このような節度使に対して兵士たちは不満を抱き、節度使・観察使を追い出す兵乱が続発する。これら兵乱に刺激を受けて起きたのが裘甫の乱である。

 

859年にわずか100人を率いて蜂起した裘甫は、浙東藩鎮の海岸部象山県次いで剡県を攻略、近くの海賊や盗賊・無頼の徒を集め、3万という大軍に膨れ上がった。その後浙東を転戦したが、政府は安南討伐に功を挙げた王式を派遣し、ウイグルや吐蕃の精兵も投入し、翌860年に鎮圧した。

 

続けて868年、南詔に対する防衛のために桂州に山東で集められた兵士の部隊が派遣されていたが、いつまでたっても交代の兵は来ず、前述のような給料のピンハネもあり、不満を爆発させて龐勛を指導者として反乱を起こした(龐勛の乱)。龐勛軍は、まず故郷である山東の徐州へと帰還し、失職兵士や没落農民、各種の賊を入れて一気に大勢力となった。さらに、この乱の特徴として貧農ばかりではなく、地主層もこの乱に参加したことが挙げられる。ここにいたって、この乱は当初の兵乱から農民反乱の様相を呈することとなった。しかし雑多な寄せ集めの軍ゆえに内部の統制が取れなくなり、また龐勛の方針も唐に対して節度使の職を求めたりなど一定しなかったので、ますます内部が乱れた。これに対して唐は7万の軍と突厥沙陀族の精兵騎兵3000を投入し、869年にこれを鎮圧した。

 

滅亡

朱全忠

裘甫の乱・龐勛の乱に続いて起きたのが、これら反乱の最大にして最後の大爆発である黄巣の乱である。870年くらいから唐には旱魃・蝗害などの天災が頻発していたが、唐の地方・中央政府はこれに対して無策であった。この時の蝗害は長安周辺にまで及んだが、京兆尹が時の皇帝僖宗に出した被害報告が「イナゴは穀物を食べず、みなイバラを抱いて死せり」というでたらめなものであった。

 

このような状態に対して、874年(あるいは875年)に濮州の塩賊の王仙芝が滑州で挙兵、これに同じく曹州の塩賊の黄巣が呼応したことで「黄巣の乱」が始まった。

 

この反乱集団には、非常に雑多な人種が参加した。没落農民・失業兵士・塩賊・茶賊・大道芸人などなど。これらの軍団を率いて、特定の根拠地は持たず山東・河南・安徽を略奪しては、移動という行動を繰り返した。唐政府は、これに対して王仙芝に禁軍の下級将校のポストを用意して懐柔しようとしたが、黄巣には何ら音沙汰がなかったため黄巣は強く反対。これを機に、黄巣と王仙芝は別行動を取ることになった。

 

878年、王仙芝は唐軍の前に敗死した。黄巣軍は江南・広州に入って唐に対して節度使の職を要求するが、唐はこれを却下した。怒った黄巣は、広州に対して徹底的に略奪と破壊を行った。

 

しかし南方の気候になれない黄巣軍には病人が続出し、黄巣は北へ戻ることにした[166]

 

880年、黄巣軍は洛陽南の汝州に入り、ここで黄巣は自ら天補平均大将軍を名乗る。同年の秋に洛陽を陥落させる。さらに黄巣軍は長安に向かって進軍し、同年冬に長安を占領した。黄巣は長安で皇帝に即位し、国号を「大斉」とし金統と改元した。しかし長安に入場した黄巣軍には、深刻な食糧問題が生じた。元々、長安の食料事情は非常に悪く、江南からの輸送があって初めて成り立っていた。長安を根拠として手に入れた黄巣軍だったが、他の藩鎮勢力により包囲され、食料の供給が困難となった。長安周辺では過酷な収奪が行われ、穀物価格は普段の1000倍となり、食人が横行した。

 

882年、黄巣軍の同州防御使であった朱温(後の朱全忠)は黄巣軍に見切りを付け、黄巣を裏切り唐の官軍に投降した。さらに突厥沙陀族出身の李克用が、大軍を率いて黄巣討伐に参加した。

 

883年、黄巣軍は李克用軍を中核とする唐軍に大敗した。その後、黄巣は河南へと逃げるが、李克用の追撃を受けて884年に自殺した。こうして、「黄巣の乱」は終結した。

 

黄巣の乱は終結したが、最早この時点で唐政府には全国を統治する能力は失われており、朱全忠・李克用ら藩鎮軍閥勢力は唐より自立。唐は一地方政権へと成りさがってしまった。この割拠状態で唐の宮廷では宦官・官僚らが権力争いを続けていた。

 

しかしそれまでの権力争いと違って、それぞれの後ろには各軍閥勢力がいた。軍閥は皇帝を手中にすることで、その権威を借りて号令する目論見があった。この勢力争いに勝利したのが朱全忠であった。朱全忠はライバル李克用を抑え込むことに成功し、鳳翔節度使李茂貞を滅ぼして皇帝昭宗を自らの根拠地である汴州に近い洛陽へと連れ出した。

 

そして907年。朱全忠は、唐の最後の皇帝哀帝から禅譲を受けて皇帝に即位。国号を「梁」(後世からは後梁と呼ばれる)とした。ここに300年近くに渡った唐王朝の歴史は終わりを告げた。しかし、この時点で後梁の支配地域は河南や山東などごく一部の領域に過ぎず、これから宋が再び統一するまでの約70年間、五代十国時代と呼ばれる分裂時代となる。

0 件のコメント:

コメントを投稿