2024/01/16

唐(8)

後期

律令体制の崩壊

何とか乱を収めた唐であったが、そのダメージは非常に大きかった。防衛体制の緩みをつかれて吐蕃に長安を一時期占領されるという事態が起きている。また反乱軍の将を寝返らせるために、節度使の職を持って勧誘した。これが後に河北三鎮と呼ばれ、中央の意向を無視した半独立勢力となり、歴代政府の懸念事項となった。乱により荒れ果てた華北では多数の流民が生じ、755年に890万戸を数えたのが764年には293万戸までに激減している。

 

逃戸の増大により均田租庸調制・府兵制の両制度は機能しなくなり、周辺民族の活発化により羈縻政策もまた破綻。これらの事態は開元の治以前から進行していたが、安史の乱により、はっきりとこの事態に対する新たな対応策が必要となっていた。これに対するのが、律令には存在しない使職という新たな役職である。最初は地方の観察を後に地方の最高行政官となる観察使・税を司る度支使・漕運を司る転運使・専売制を司る塩鉄使などがあり、いずれも非常に重要な役割を果たした。特に758年に開始された塩の専売は大きな利益を上げて、以後の唐の財政に不可欠のものとなった。ゆえに塩鉄使の地位は非常に重要視され、宰相に準ずる職となった。しかし専売に対して密売の私塩が止まず、塩賊と呼ばれる私塩業者が各地で活動した。

 

前述の節度使も使職の一つであり、安史の乱以後に節度使は観察使を兼職するようになり、それまでの軍事権に加えて行政権も握るようになった。江南では節度使は置かれず、観察使が防禦使・経略使などの軍事職を兼任してこちらも軍事・行政を司るようになった。これらを総称して藩鎮と呼ぶ。首都長安と副都洛陽が所属する京兆府と河南府を除き、全国に40-50ほどの藩鎮が置かれた。京兆府と河南府以外の土地は、全ていずれかの藩鎮の勢力圏となった。先に挙げた河北三鎮のような、中央の意向を無視するような藩鎮を反則藩鎮と呼ぶ(逆に従順な藩鎮を順地という)。これら反則藩鎮は領内において勝手に税を取り立て、さらに中央に納めるべき上供も怠ることが多かった。

 

また逃戸・客戸の増大により租庸調の収入は激減し、それを埋めるために青苗銭・戸税などの税が徴収されるようになる。農民の負担はますます重くなり、農民の没落・逃戸の増大に繋がるという悪循環に陥っていた。これら複雑化した税制を一本化したものが、780年に宰相の楊炎の権限によって実施された両税法である。両税法では夏税(6月納期)としてムギ・秋税(11月納期)にアワ・コメを税として取り立て、それ以外の税を禁止した。藩鎮・地方官が、勝手な名目で税を取り立てることを防ぐ意味もあった。そして均田租庸調が民一人一人を対象とするのに対して、戸を対象とし、その資産を計って税額を決める、銅銭での納税が原則とされた。

 

両税法の実施により、唐は均田制を自ら否定したことになり、それまで規制していた大土地所有を事実上公認したことになる。この後は、荘園が拡大していくことになる。

 

藩鎮との攻防

憲宗

770年ごろになると、安史軍から投降して節度使になった李懐仙・薛嵩・田承嗣らが相次いで死去する。藩鎮側は節度使の世襲を望んだが、唐政府は新任の節度使の赴任と藩鎮の兵力削減を言い渡した。両税法が実施されたことを切っ掛けに、781年に河北三鎮(盧龍・天雄・成徳)を中心に7の藩鎮が唐に対して反乱を起こした。反乱軍により長安を落とされ、時の皇帝徳宗は梁州に避難した。のちに長安は回復するものの藩鎮の罪を問うことはできず、赦免せざるを得なかった。

 

805年に新たに即位した憲宗は、この事態に断固たる態度で臨んだ。両税法の実施により、財政に余裕ができたことで禁軍である神策軍を大幅に強化し、兵力15万を数えるまでになった。この兵力を元に806年から次々と藩鎮を征伐し、819年から821年にかけて河北三鎮を順地化することに成功した。

 

これと並行して、それまで藩鎮内の属州の兵力を全て節度使が指揮していたのものを属州の兵は属州の刺史が統括するものとした。また属州の税収は州県の取り分(留県・留州)を取った後は、節度使の費用を取った(留使)後に中央へと送られていた(上供)ものを県から直接、上供することにした。これらの政策により、節度使の持つ兵力・財力は大幅に削減されることになる。更に節度使には中央から派遣した官僚を就けることとし、その任期も3年ほどと短くした。また節度使の監察を行うために宦官を監軍として付けることにした。

 

このようにして、憲宗は藩鎮の抑圧・中央集権の回復に成功した。これにより、憲宗は中興の英主と讃えられる。

 

朋党の禍・宦官の台頭

この頃になると科挙、特に進士科出身の官僚は官界での勢力を拡大し、旧来の貴族勢力と拮抗するまでになった。また貴族の子弟たちの中でも任子ではなく、科挙受験の道を選ぶ者も増えていた。科挙出身者は、その年の試験の責任者と受験者たちの間で座主門生と称する縦の、同期の合格者同士で横の、それぞれ人間関係を構築していた。この関係性を元に、官界でも派閥が作られるようになる。

 

この延長線上に起きたのが牛李の党争である。牛僧孺・李宗閔ら進士出身の党と李徳裕の貴族層の党が820年から以後、40年に渡って政界で激しく争い、負けた方の派閥の人間は全て失脚して左遷・争いが逆転すると同じことをやり返すという状態になる。このことを文宗(第17代皇帝、穆宗の2代後)は「河北の賊を去るのは難しくないが、朋党の争いを収めるのは難しい」と嘆いた。

 

文宗の頭を悩ませた、もう一つの問題が宦官である。藩鎮討伐に使われた神策軍の司令官は宦官が就くことになっており、宦官はこれにより大きな軍事力を握ることになった。また藩鎮に付けられた監軍は、これも宦官が務めたが、文官の節度使は任期が終わる際に勤務実績を良く報告してもらうために監軍に賄賂を送るようになった。これにより、中央官僚の人事にも権限を持つようになった宦官は、遂には皇帝の廃立すら決めるようになった。第12代穆宗から第19代昭宗までの間で、第13代敬宗を除く7人は全て宦官に擁立されたものである。先述の党争においても、宦官の権力を利用して政敵を排除している。

 

文宗は宦官排除を目論んで計画を立てる。それは宮中に甘露が降ったという嘘を上奏させ、宦官たちが集まったところで一気に誅滅してしまおうという計画であった。しかし、直前で計画が宦官側に露見して失敗。文宗の立場はますます弱いものとなり、「朕は家奴(宦官)に制されている」と嘆いた(甘露の変)。

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