2024/01/09

唐(7)

開元の治

玄宗

8世紀前半の唐

712年(先天元年)、李隆基は睿宗から譲位され即位した(玄宗)。翌年に太平公主を処刑して実権を掌握した。

 

親政を始めた玄宗は、前述の姚崇を抜擢して宰相とした。これに答えて姚崇は「宦官を政治に介入させないこと」、「皇帝に親しい臣が不正を行うのをとりしまること」、「外戚に政治介入させないこと」などを提言し、玄宗もこれを受け入れて政治に取り組んだ。姚崇のあとを受けた宋璟も、姚崇の方針を受け継いで政治改革を進めていった。姚崇と宋璟は、貞観の房(玄齢)・杜(如晦)に対して姚・宋と称される。

 

この治世により、太宗の時に戸数が300万に満たなかったのが、726年(開元十四年)には戸数は760万あまりとなり、人口も4千万を超えた。穀物価格も低価で、兵士は武器を扱うことがなく、道に物が落ちていても拾う者はいなかったという。この時代を開元の治とよび、唐の極盛期とされる。文化的にも杜甫・李白の漢詩を代表する詩人たちが登場し、最盛期を迎えた。

 

ただし、その裏では唐の根本である律令体制の崩壊が始まっていた。律令体制では民を本籍地で登録し、それを元に租庸調・役(労役・兵役)を課すことになっていた。しかし負担に耐えかねて、本籍地から逃亡する民が増えた。これを逃戸と呼ぶ。この現象は武則天時代から問題になっていたが、その後も増え続けていた。これに対しての政策が、宇文融によって出された括戸政策である。全国的に逃戸を調査し、逃戸を逃亡先の戸籍に新たに登録し(これを客戸という)、再び国家の支配下に組み入れようとしたものである。721年から724年にかけて行われた結果、80万余りの戸が新たに登録された。

 

また、もう一つの変化が節度使の設置である。上述の理由により、兵制である府兵制もまた破綻しており、国防のために睿宗時代の710年に亀茲に安西節度使を設置したのを初めとして、721年までに10の節度使が置かれていた。

 

さて宇文融は北周帝室に祖を持つ貴族であり、恩蔭(官僚が自分の子を官僚にする権利)の出身者である。姚崇・宋璟の後、科挙出身者である張説・張九齢らが宰相となったが、次第に政界では貴族出身者が権力を握るようになる。宇文融の他に裴耀卿は大運河の運用を改善して漕運改革を行い、首都長安の食糧事情を大きく改善する功績を挙げた。これらは実務に長けた貴族出身官僚であり、この流れを受けて李林甫が登場する。

 

李林甫は高祖の祖父の李虎の末裔で、734年から752年に没するまでの19年間宰相の地位にあった。李林甫の政策として、租庸などの運搬の際の煩雑な書類を簡素にしたというものがある。実務には長けていたが、「口に蜜あり、腹に剣あり」と呼ばれた性格で、玄宗やその寵妃たち・側近の高力士らに上手く取り入る一方で、自分に対抗する政敵を策謀を持って排除し、自らの地位保全に熱心であった。

 

この姿勢の一環として行われたのが、節度使に異民族を採用するという政策である。節度使のうち、長城の内側の節度使はそれまでは高級文官が就任するのが常であったが、李林甫はこれに異民族出身の蕃将を任命するようにした。節度使が宰相への出世コースになっていたのを潰す意図があったとされる。このことが後の安禄山台頭に繋がったといえる。

 

楊貴妃

玄宗は太子時代の妃であった王氏を皇后としていたが、子が無く寵愛が離れた。代わって武則天の一族である武恵妃を寵愛し、その子である第十八子の寿王李瑁を太子に立てたいと思っていたが、武氏の一族であることから群臣の反対にあい、最終的に高力士の勧めに従って忠王李璵(後の粛宗)を太子に立てていた。この寿王李瑁の妃の一人であったのが楊貴妃である。

 

一旦道士になった後に、745年に改めて後宮に入った楊貴妃を玄宗は溺愛した。その様は白居易の『長恨歌』に歌われている。その中に「此れ従り君主は早く朝せられず」とあるように玄宗は政治に倦み、李林甫らに任せきりになっていた。

 

安史の乱

楊貴妃を愛する玄宗は、その一族も引き立てた。その中の一人が楊貴妃の又従兄弟の楊国忠である。元は酒と博打で身を持ち崩した一族の鼻つまみものであったが、楊貴妃のおかげで官界に入った後は財務関係の実務で功績を挙げて出世を続け、750年には御史大夫兼京兆尹に、更に752年に李林甫が死去すると遂に宰相となった。

 

楊国忠と権力を争ったのが安禄山である。安禄山はソグド人の父と突厥の母の間に生まれた雑胡(混血の異民族)であった。范陽節度使の張守珪に史思明と共に登用されて、その仮子[注釈 2]となって戦功を挙げて、742年に平盧節度使に任じられた。更に744年に范陽節度使・751年に河東節度使を兼任して、その総兵力は18万を超える膨大なものとなった。このような大出世を遂げた要因の一つが、玄宗・楊貴妃に取り入ったことにある。安禄山は、玄宗からその大きな腹の中には何が詰まっているのかと問われた時に「ただ赤心(忠誠)のみが詰まっています」と答えた、あるいは自ら願って楊貴妃の養児となって錦繍の産着を着て、玄宗と楊貴妃を喜ばせたなどというエピソードが残る。

 

安禄山

楊国忠と安禄山は対立し、互いに相手を追い落とさんとするが、常に玄宗のそばにいる楊国忠が、この争いでは有利であった。危機感を感じた安禄山は「君側の奸楊国忠を除く」という名分を立てて遂に挙兵した。この反乱は安禄山と、その部下史思明の名を取って安史の乱と呼ばれる。

 

755年の11月に根拠地の幽州(范陽郡)から、兵力15万と8千騎を持って出陣した安禄山軍は破竹の勢いで勝ち進み、同年12月には洛陽を陥落させ、翌年の11日に皇帝に即位、国号を大燕と称した。更に同年6月には首都長安の東・関中の入り口に当たる潼関を陥落させる。この報に狼狽した唐政府は、蜀への避難を決める。

 

避難の途中の馬嵬において、この事態に怒った兵士たちにより楊国忠が殺され、楊貴妃も自殺させられている。皇太子李亨(李璵から改名している)は途中で玄宗と別行動を取って、朔方節度使郭子儀の元に向かい、兵士を鼓舞するために玄宗の許可無く、皇帝に即位した(粛宗)。

 

安禄山は757年に子の安慶緒に殺され、その後を継いだ史思明も761年にこれも子の史朝義に殺される。郭子儀率いる軍は、回紇の支援を得て757年に長安、762年に洛陽を奪還。翌763年に史朝義が部下に殺され、ここに安史の乱は終結した。

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